第1部 雪女の右目
第1章
雪女の右目1
どうやら
那智はくすんだ金髪を寒風になびかせて、トレンチコートの襟に首をうずめた。
人気のない通り。
その中心で、那智は立ち竦んでいた。
居酒屋が密集した通りだった。
両端にはネオンの看板が辞書の目次のように立ち並んでおり、中にはいかがわしい風俗のものもあった。
夜になれば歓楽街へと変貌するのだろうが、昼はひどくどんよりとした寂寥感が漂っていた。
ここがどこだかわからない。
旅には付き物だが、こうも人間がいないのではどうしようもない。
まるで人間という生き物が抹消されてしまった世界のようだ。
那智は孤独と共に生きてきた。
傍観者は常に孤独だ。
人間に干渉するのは最低限で、コンビニの店員やビジネスホテルのフロントスタッフと淡白なやり取りをするくらいだ。
彼にとって孤独とは、長年連れ添っている恋人のようなものだった。
腹の虫が鳴る。
鋭利な風に切り裂かれた頬がぴりぴりと痛む。
まだ午前11時になるには20分足らずであったが、那智はどこかで昼食を取ることにした。
重い足取りで通りの中心を闊歩していると、閑静な通りに低い呻き声が反響した。
那智は立ち止まり、敵を警戒する犬のように耳を澄ませた。
それから呻き声は二、三度続いた。
声のする方に歩いていくと、耳障りな罵声が聞こえてきた。
路地裏には3人の高校生がいた。
1人は制服のブレザーを着ており、壁に背中を預けてうなだれている。
彼を見下ろすのは、金髪の少年と赤髪の少年。
ブレザーの代わりにパーカーとスカジャンを着た2人の不良は、嗜虐的に笑いながら無抵抗の少年を足蹴にしている。
那智は瞬時に状況を察した。
が、彼の足は迷っていた。
見て見ぬふりをして立ち去るべきだったが、彼の中の偽善的な正義感がそれを制止していた。
「おい」
しまった、と思ったが、時既に遅しだった。
那智はもう路地裏に足を踏み入れてしまっていた。
「くだらないことをするな」
これは過去の自分に対する言葉でもあった。
だが、くだらないことに首を突っ込んでしまった俺もくだらないことをしているな、と那智は苦笑していた。
金髪の鋭い眼光が那智の瞳を貫く。
赤髪がトレンチコートの胸ぐらを掴む。
「出しゃばるなよ。痛い目には遭いたくないだろ?」
「さっさと失せろ。目障りなんだよ」
那智は閉口してしまった。
一方的な暴力に干渉してしまったが、もう暴力を振るわないことにしていた。
高校を卒業したら、不良はきっぱりやめることにしていた。
困ったな。
暴力なしで解決できそうにない場合はどうすればいいんだろう。
わざとやられるか?
いや、それは俺の薄っぺらい自尊心が許さない。
それなら、いっそのことやってしまうか?
いや、それも俺の脆い決意が許さない。
那智は懊悩煩悶し、思考を停止させた。
いら立ちが募る。
思わず胸ぐらを掴む手首を握りしめる。
意志とは裏腹に、握力が少しずつ強まっていく。
赤髪は那智の手を振り解き、拳を振り上げた。
選択の余地はなかった。
那智は肩を引いて拳を躱した。
結局、自尊心が勝ってしまった。
膝蹴りが赤髪の腹部に当たる。
赤髪は腹を抱えてうずくまり、今度は金髪が殴りかかってくる。
那智は高揚に身を任せ、拳を思い切り振る。
金髪は壁にたたきつけられて倒れ伏す。
またやってしまった。
またくだらないことをしてしまった。
短気で手加減できないのが俺の悪い癖だ。
那智は気弱そうな少年に手を差し伸べた。
「おい、平気か?」
「は、はい……ありがとうございます……」
少年は那智の手を取ってのそのそ起き上がり、ブレザーに付着した砂埃を払った。
「災難だったな。一応、病院で診てもらった方がいい」
「はい……迷惑をかけてすみませんでした……」
少年はとぼとぼと路地裏から通りに出た。
彼には悪いが、尻尾を巻いた負け犬みたいだ、と思った。
那智はトレンチコートの襟を正して路地裏を後にしようとした。
が、その先には鬼のような形相をした赤髪が立ちはだかっていた。
「てめぇ、ぶっ殺してやる!」
赤髪の手には折り畳み式のナイフが握られていた。
殺気立つ気配――興奮して見開かれた目が、本当にやりかねない雰囲気を醸し出していた。
那智は振り返った。
背後では金髪が退路を塞いでいた。
赤髪がナイフを携えて突進してくる。
那智は両足を肩幅に開いて構える。
ナイフを持つ腕さえ捕まえてしまえばこっちのものだ。
少年は助けた。
あとは俺が逃げればいいだけだ。
ナイフは一直線に飛んでくる。
赤髪はナイフの柄についているおまけのようだ。
ナイフごときに殺されてたまるか――冷静さを欠いて焦ったのが悪かった。
ナイフは那智の両手をすり抜け、腹部に突き刺さった。
那智は両膝から崩れ落ちた。
上半身を垂直に保つのも辛くなり、両手をアスファルトについて体重を支えた。
その瞬間、顔面を蹴り上げられる。
スニーカーの爪先は右目に直撃した。
意識が朦朧として、那智はアスファルトに思い切り額をぶつけた。
唇からは糸を引いた唾液が、右目からは血液混じりのどろりとした液体が滴る。
全身に鈍痛を感じながら、那智は意識を失った。
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