モノクロの雪女

ジェン

プロローグ 電車人間

電車人間

 ――多分、俺は死のうとしていたんだと思う。


 俺は死ぬつもりで家を出た。

 いや、勘違いしないでほしい。

 少なくとも、自ら命を捨てるつもりはなかった。

 ただ、俺は全てを捨てたかったんだ。


 生きることにはもううんざりだった。

 いつの間にか生きる意味を見失ってしまった。

 かといって、死にたくはなかった。


 だから、俺は全てを捨てて旅に出た。

 旅に出たら、何かを見つけられると思っていた。


 都会の通勤ラッシュ。

 駅のホームに突っ立っていると、嫌でも人間が視界に映り込んでくる。

 同時に、人間の本質が垣間見える。


 人間にはどこか生き急いでいる節がある。

 何かしなければならないという強迫観念に駆られて、意味もなく奔走している。

 無論、生きる意味なんか忘れてしまっている。


 電車がホームに到着すると、箱詰めにされていた人間たちが雪崩込んできて、何をするでもなく待ちわびていた人間たちと入れ替わり立ち替わる。

 ここでは譲り合いの心は通用しない。

 人間の波に飲まれてしまったら最後、押し寄せる重圧に逆らって突き進むしかないのだ。


 電車の中がぎゅうぎゅうになると、それはベルトコンベアに載せられた梱包済みの箱のように線路の彼方へと消えていく。

 さながら駅は人間を学校や会社に出荷する巨大な工場だ。


 通勤ラッシュを過ぎると、駅のホームはいきなり空虚になる。

 下手くそな踊りを披露しても、誰にもばれやしないだろう。


 駅のホームで電車を待っている間、人間は無意識に湖の水面にぷかりと浮かび上がってきた死体のごとき疑問を眺めている。

 この疑問こそが生きる意味であり、人間の本質だ。


 しかし、人間は立ち止まっていられない生き物で、電車が空から降ってくるとすぐさま疑問という名の死体から目を背けてしまう。

 そうしてまた生きる意味から逃げるように奔走するのだ。


 人間は何かをしないと生きていられない病気にでもかかっているのだろうか?

 それとも、何かをしないと死んでしまう病気にでもかかっているのだろうか?


 俺の持論はこうだ。


 何もしたくないという欲望は超自我によって検閲されており、何もしないという行為が禁止されている。

 つまり、人間は他でもない己によって監視されているのだ。

 生きる意味に対する疑問も検閲に引っかかる。

 だから、人間は思考することをやめて何かをしようとするのだ。

 そういう機構が備わった人間はまるで機械のようだ。

 あながち人間機械論も間違っていない、と俺は思う。


 俺は傍観者だ。俺は人間を理解しすぎている。

 それゆえに、俺は人間を嫌悪している。


 人間の奥底には、何か説明のつかない、いや、説明し尽くせない醜悪なものが潜んでいる。

 超自我の上に存在する権威的な何か――俺にはそれがありありと見える。


 それは普通の人間には見えない。

 それを可視化するには、神にならなければならない。


 神になるのは至極簡単なことだ。

 傍観者になればいいのだ。

 実際に立ち止まって人間を俯瞰してみると、俺の言わんとしていることがわかるはずだ。


 俺は傍観者を気取っていた。

 そして、いつしか本当に傍観者になっていた。


 俺には人間の内心が手に取るように見え透いてしまう。

 嫌でも醜悪なものが目についてしまう。

 だから、俺は人間が嫌いなんだと思う。


 これで何本目の電車だろうか。

 もはや数え切れないくらいの電車を見過ごしてきたが、俺はようやく電車に乗ることにした。


 電車の中は随分と空いていた。

 鉛のように重いリュックを下ろし、俺は席に腰かけた。


 凝った肩を片手で解していると、向かいの席の端に一人の女を見つけた。

 彼女は俺を一瞥してから再びスマートフォンに視線を落とした。


 女はまだ若く、といっても、俺よりも年上ではあったが、スーツではなく私服であった。

 恐らく都内の大学生だろう。

 この一両の電車を貸切にしてくつろいでいた彼女は、マスクと髪の間に覗く眉をひそめていた。


 いくらマスクで顔面を覆い隠していても、機微で表情がわかってしまう。

 そこから内心を推測するのはそう難しいことではない。


 だが、俺は人間の全てを理解しているわけではない。

 人間を理解しすぎている、は豪語だったかもしれない。


 俺が理解しすぎているのは、人間の超自我の上に君臨する醜悪なものだ。


 この女を例に挙げてみよう。


 物言わぬ機械の虜になった目は虚ろで、イヤホンで外界の音を遮断している。

 顔面にはマスクをつけて己の本質を隠蔽しようとし、周囲との交流に防壁を作る。


 これはこの女に限ったことではない。

 そして、スマートフォン、イヤホン、マスクに限らず、己の本質を隠蔽することは人間に共通している。


 知らず知らずのうちに、人間はある一つの方向を目指している。

 人間は醜悪なものに支配されている。

 いや、己の監視者である超自我さえもそれに支配されている。


 俺が理解しすぎているのは、この一連の機構だ。


 死体のような疑問を見て見ぬふりをし、ベルトコンベアのような電車に身を委ねる。

 目的地は同じだが、そこがどこなのか誰にもわからない。

 それでも先のないある一つの方向を見据えて進み続ける。

 そのうちに迷ってしまう。


 告白しよう。

 実を言うと、俺も迷っていた。

 暗闇の中を彷徨って、疲弊して、途方に暮れていた。

 分厚い壁にぶち当たり、立ち止まってしまった。

 だから、道を逸れてみることにした。


 すると、どうだろう。

 途端に俺の脳内を疑問が埋め尽くすではないか。


 疑問の奔流に飲まれて、俺は冷静になった。

 疑問を一つ一つ吟味し、ゆっくりと味わうように咀嚼した。


 芽生えた疑問は根を張り、俺のちっぽけな脳では解決できなくなっていった。

 そして、辿り着いたのが傍観者を気取ることだった。

 人間を観察し、疑問の解決の糧にすることだった。


 そう、俺は超自我と醜悪なものの上に立ち、人間をさらに高い位置から俯瞰することにしたのだ。


 俺は次の駅で電車を降りることにした。

 どこで降りたって同じことだ。

 俺には目的地なんてない。

 旅なんてそんなものだ。

 目的地のある旅なんて旅じゃない。


 話を戻そう。

 傍観者を気取り、傍観者になった結果、俺はいつの間にか生きる意味を見失った。

 死への恐怖が薄らぎ、全てを捨てて旅に出ることを決意した。

 そして、現在に至るというわけだ。


 電車の速度が段々と緩慢になっていき、やがて停車する。


 暖房の効いた車内に根を生やしかけていたが、俺は重い腰を上げてリュックを背負った。


 電車を降りる時、現代の箱入り娘はもう一度俺を一瞥した。

 それから、マスクの下でほくそ笑んだ、ような気がした。


 俺は少し口角を上げてみせた。


 改札を通過すると、俺は雑踏に飲み込まれた。

 ホームに漂っていた静謐がまるで嘘のようだった。


 駅の中を行き交う人間はやはり悲しいくらい忙しなかった。

 俺は他人事のように鼻を鳴らして嘲笑した。


 駅から足を踏み出すと、喧騒が一層やかましくなった。

 人間だけでなく自動車やバスもクラクションを鳴らして焦燥に駆られているようだった。


「ここが東京か」


 独りごちて、俺は小さく嘆息した。


 ここなら思う存分人間を観察できそうだ。

 が、いかんせんここは人間が多すぎる。

 俺の嫌いな人間が蟻のようにうじゃうじゃいる。


 都会の空気で肺を満たす。

 排気ガスの混じった空気は冷たくてまずい。

 思わずむせる。


 リュックを背負い直し、俺は陰鬱な曇天の下を歩き出した。

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