14.菓子パンと同級生
翌日、樹季はいつも通りに登校した。雅古は家に電話しても出ないことから察するに、本日もタケフツ社での訓練を楽しんでいるようだ。
四限目の日本史。昼休みを前にして、教室も気もそぞろで話を半分聞いていない感じである。体面は保っておきたい樹季はとりあえず授業には真面目に出ているものの、あまり集中はできなかった。
樹季はぼんやりとノートを開いて、ため息をついた。
黒板には、日本史の女教師・西田が書き出した鎌倉末期に流行した末法思想の要点が書かれている。樹季は意味も考えないまま、それを書き写す。西田の説明の声は、聞こえない。
――俺は一体、どうしたいんだろう?
樹季は自問自答した。
戦いたくないわけではない。力を得ることができたこと自体は正直嬉しい。どんな形であれ、もう無力ではないことは本当に良かったと思えた。雅古と道を違える選択肢を選ぶ気持ちはなかった。
だが、あまりに一方的すぎる情報量が樹季を迷わせた。
辻も佐久夜も菊川も、樹季と雅古のことをどうやらよく知っているようである。だが、樹季と雅古は彼らのことを何も知らない。知らされたのは、どこまでが本当のことなのかよくわからない、核心をぼかされたような説明だけである。
樹季は、倒すべき存在だと言われたシュラが一体何なのかよくわかっていない。何かよくわからないものを倒したくはないし、そのよくわからない戦いに命を懸ける気にはなれなかった。
辻の説明には、戦って死ぬ可能性の話は出てこなかった。だが、そこには確実に人の生死の問題が関わっていた。
――もしかして、俺は怖いのかな?
いろいろ理由があるにしても、結局自分が臆病なだけなのかもしれないと、樹季は思った。選ぶべき道があるのに、立ち止まってしまう自分が嫌だった。
「……というわけで、鎌倉新仏教の宗派の違いはよくセンターとかでも狙われるんで、大学行く人はよく覚えておくように。じゃ、今日はここまで!」
西田が説明を終えると同時に、授業終了のチャイムが鳴った。
雑な起立と礼で授業は終わり、昼休みに入る。
一部の生徒はチャイムが鳴り終わらないうちから、一階の渡り廊下で実施されている購買に駆け出していた。
――しまった。今日は弁当作ってないんだった。
母・文月の作る弁当は、息子が高校生になってもなおキャラ弁と呼ばれる類のものである。樹季はそれが嫌で、なるべく自分で作るか買うかのどちらかにしていた。
出遅れた樹季は、慌てて教室を出た。
◆
数分後、樹季は売れ残りの蒸しパンとドーナツを持って渡り廊下を歩いていた。
――俺はあんまり食べるほうじゃないけど、さすがに昼ご飯が菓子パン二個っていうのは男子高校生にはつらいな。
とぼとぼと、教室に戻ろうとする。
その時、セミロングを後ろで一つにまとめた、洒落っ気のない女子が現れた。
「あれ鏑木君、今日購買なんだ? めずらしいね」
陸上部・女子マネージャーの小笠原である。
小笠原は、両手に持ったビニール袋を購買のパンでいっぱいにしていた。その尋常じゃない量に若干引きながら、樹季は答えた。
「今日はたまたま弁当がなくて……。小笠原もそんな感じ?」
「いや私は、早弁しちゃったんだ。今日は午前中に体育があったせいか、お腹すいたんだよね」
そう言うと、小笠原は樹季の手元の菓子パン二つを見て憐れむような表情になった。
「鏑木君も、一つ食べる?」
「え、でも、小笠原に悪いし……」
「私は構わないから。ほら、そこらへんに座って食べよ」
小笠原は中庭の端を指さして、さっさと先へ行って座った。そこはちょうど植え込みの陰になる場所で、あまり人目につかなかった。
樹季は立ったまま、小笠原を見下ろし尋ねた。
「教室の女子のグループに戻らんの?」
「ん、今日一日くらいは別にいいよ」
さっそくパンの袋を開けながら、小笠原は言った。
樹季は一瞬考え、結局隣に腰を下ろした。
「じゃあ、お言葉に甘えてもらおうかな」
迷いながらビニール袋一杯の惣菜パンに手を伸ばす。
「どうぞどうぞ」
焼きそばパンにかぶりつき、小笠原はもごもごと勧めた。
樹季はウィンナーがのったパンを一つ手に取り、お礼を言った。
「……どうもありがと」
開封して一口食べる。ウィンナーはしおれているものの、マヨネーズの風味が効いていて美味しいパンである。
「鏑木君、悩んでることでもあるの?」
おもむろに、二個目のパンの袋を開けて小笠原が聞いてくる。
急な質問にびっくりし、樹季はパンをのどに詰まらせながら聞き返した。
「え、何で?」
「いや、ちょっと元気なく見えたから」
そう言って、小笠原は今度はコロッケパンに食べ始めた。あまり深くは聞く気がなさそうな普段と変わらない横顔が、本当にちょっと思っただけであることを伝えていた。
――こんなに適当に悩みを見抜かれるとか……、俺ってそんなにわかりやすいのかな?
樹季は困って、ソーセージパンをかじって言葉を濁しながら答える。
「別に悩んでるってわけじゃないんだけど……。うーん、そうだな。昨日やったゲームのシナリオが引っかかってて」
本当のことは話せるはずもないが、それでも樹季は誰かに相談してみたかった。苦し紛れに、樹季は自分が迷っていることを架空のゲームに託して会話をすることにした。
「へぇ、どんなゲーム?」
小笠原は興味を持ったようで、パンから目を上げて樹季の顔を横目で見た。これでごまかされるあたり、察しがいいのか悪いのかよくわからない。
樹季は今自分が置かれている状況を、ざっくりとまとめて説明した。
「ごく普通の高校生がある日特別な力を得て、次々と現れる怪物みたいなのと戦うっていうありがちな話なんだけどさ。この主人公が全然決断せずに戦えないって言ってて、イライラするんだよね」
――これって本当に、ゲームか何かのシナリオみたいだな。
こういう形で情報を共有するのは、不思議な感覚があった。樹季はその時やっと、自分の感情が整理できた気がした。
小笠原は、いつもの漫画の内容について議論しているときの顔になって尋ねた。
「何でその主人公は、さっさと腹を括らないんだろうね」
「さぁ? 何か主人公に力を与えた側の陣営の説明が納得できなくて気に入らないみたいだけど、結局戦うのが怖いだけなんじゃないのかな」
自分自身への嫌悪感をにじませて、樹季は言った。決断できない自分が、ひどく臆病で駄目な存在に思えた。
この話が今の樹季自身のことであるとは知らない小笠原は、その樹季の苛立ちがゲームの内容に向けられたものであると思ったまま軽い調子で答えた。
「そんなにいらいらするシナリオなんだ。でも私、そういう主人公嫌いじゃないよ。だって怖いってことは、ちゃんと戦う意味ってものを考えてるってことでしょ。何にも考えずに決めちゃうキャラもいいけど、そういう悩んじゃうキャラも可愛いと思うけど」
小笠原は実に簡単に、樹季を、いや厳密に言うならその架空のゲームの主人公を肯定してみせた。
間接的に自分に向けられた意外な優しい言葉に、樹季は思わず声を上げて聞き返した。
「そうかぁ?」
「そうだよ。それにその主人公も、ちゃんと決断エピソードがあって戦うんでしょ。きっと、その主人公はいろいろなものを大切に思ってるんだよ。だから、怖くなる。怖いのに戦うんだもん。えらいじゃん」
小笠原は勝手に話を想像して、にっこりと微笑んだ。可もなく不可もない顔の女子ではあるが、笑うとそれなりには可愛かった。
――大切だから、怖くなる。だから、迷うことは、悪いことじゃない……。
樹季は小笠原の話が直接自分に向けられているわけではないとわかってはいたが、つい励まされてしまった。
――何となく、俺も戦えそうな気がしてきた。
胸の奥がふわりと軽くなって、わだかまりがとけていく。
『樹季、仕事だ』
そのとき、樹季の頭の中で佐久夜の声がした。
――どこに?
樹季は声には出さずに尋ねた。だんだん、テレパシーみたいなことにも慣れてきている自分がいた。
『御比良山の西側のあたり。雅古はもう向かっているけど、お前はどうする?』
――俺も行くよ。
自然と、そう答えていた。
『では、人目につかない場所で変身して移動してくれ』
――わかった。
樹季は承諾すると、残りのソーセージパンを口に詰め込んで立ち上がった。
「どうかした?」
急に動き出した樹季を、小笠原が不思議そうに見上げる。
樹季は晴れ晴れとした様子で、小笠原に笑った。
「うん、ちょっとね。小笠原、パンありがと」
「……どうしたしまして」
いまいち釈然としていない顔で、小笠原は樹季の変化をいぶかしんだ。
樹季は気にせずに小笠原を後にして駆け出した。
「それじゃ、俺は行くよ」
植え込みの陰から出ると、五月の太陽の強い光が目に入る。そのまぶしさの中、樹季は校舎の裏を走った。
『もう、決心はついたのか?』
佐久夜が妙に優しい声で尋ねる。
「多分ね」
樹季は声に出して答えた。
怖かったり疑わしかったりしていたが、小笠原と話しているうちに不安はなぜか消えていた。そういう感情が間違いではないと言ってもらえたせいだろうか。必要以上に悩む必要はないように思えた。
――そうだ。俺は死ぬのが怖い。失うのが怖い。それは俺が、何だかんだ言ってこの日常をそれなりに好きだからなんだ。
小笠原は「大切に思うから怖くなる」と言った。雅古が何も恐れないのは、自分自身の命を軽く見ているからである。だが、樹季はそうではない。
――それに何より……死んで雅古に会えなくなるのが怖い。このままの日常でいられないのが怖い。でもきっと、その日常だって、戦わないと守れないものなんだ。
ストンと、樹季の中で論理が通る。腑に落ちる。最初からわかっててもいいはずの簡単な結論だが、なぜか先ほどまではそうは考えられなかった。
ふっきれたことが伝わったのか、佐久夜が小さくつぶやいた。
『本当に決めたみたいだな、君』
安心、嫉妬、後ろめたさ……。その声は複雑な感情が秘められているようだったが、シュラのもとへ急ぐ樹季にはあまりその響きを吟味する余裕はなかった。
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