8.遭遇

 ふいに、冷たい風が吹いた。


 そのとき、遠くから小さな女の子の歌声のようなものが聞こえた。

 何と言っているのかはわからなかったが、それは間違いなく聞こえていた。


「……先輩、このお祭りってこんな歌を使ってましたっけ?」

「……初めて聞くけど、新しく町おこし的に始めたとか?」


 と、後輩と小笠原がいぶかしんだ。

 樹季だけでなく、他の人にも聞こえているようである。


 ――とりあえず、幻聴じゃないらしいけど……。


 何となく不安な気持ちになって、樹季は無意識に雅古の方を見た。

 雅古は森の、真っ暗な方をじっと見ていた。


「雅古、どうかした?」

「あれが、また来てる」


 その雅古の答えとほぼ同時に、木々の奥からどす黒い大きな塊が現れた。


 ――化物……?


 樹季は驚き、何も言えなかった。

 虫の羽のような音をたてるそれは、人間の背丈の倍近くあり、節足動物の脚のような無数の毛に覆われている。形は木に隠れてよく見えなかったが、蛇に近い形状であると推測された。


「何だ、これ」


 まず声を発したのは、杉浦だった。あまりに突然のことだったせいか、それは悲鳴と言うよりは問いかけだった。

 だが、その黒い塊がゆっくりと地面や木々を赤黒く変色させ溶かしながら進むので、ばらばらと悲鳴が上がった。

 暗い森よりもさらに暗いその塊は空間にぽっかりと空いた穴のようで、周囲のものを吸い込むように融解させていく。


 小笠原がまず無言で駆け出し、逃げた。浴衣を着ているとは思えない速さである。つられて、他の部員も逃げ出した。

 樹季と雅古は、ただ何も言わずにじっとその塊を見ていた。雅古が何を考えているのかはわからないが、かつてその塊と同じものを見たような覚えが樹季にもあった。はっきりとしない記憶であるが、そう感じた。


 「あれが、また来てる」と雅古は言った。もしかしたら記憶を失ったあの事件のときに、二人であれを見たのかもしれないと樹季はどこか現実感のない心で思った。


 ――いや、そんなこと考えてる場合か?

 我に返って、樹季も逃げようとした。反射的に周りの様子を伺うと、杉浦が立ちすくんでいることに気がついた。


「杉浦! 何で突っ立ってんの?」

 樹季は杉浦に向かって叫んだ。

「いや、だって……」

 杉浦は途方に暮れた様子で、樹季の方を見た。見ると、杉浦の周りには黒い塊の尾のような部分がぐるりと巡らされ、逃げ道をふさいでいた。


 樹季は考えた。杉浦を助けるべきかどうかではなく、どう助けるかを考えた。

 だが樹季が決断を下すよりも先に、雅古が行動を起こした。


 雅古は食べかけの団子を、黒い塊に投げつけた。塊にぶつかった団子はどろりと赤黒く溶け、その液は地面に飛び散って消えていった。


「うわ、ぐろい」

 雅古はゲーム画面を眺めているときと同じ調子で言った。


 どこが目なのか、そもそも目があるのかわからないそれは、無数の毛のような節足をぞわぞわと動かし、その先頭部分を雅古にもたげた。

 塊の注意が雅古に向かい、杉浦への囲みが解ける。杉浦は慌てて、そこから出た。反応に困った顔をして、雅古の方を見る。

 雅古は軽く目を流して、逃げるように促した。


「ありがとう、……?」

 杉浦はいまいち腑に落ちない様子で会釈すると、駆け出した。

 その塊の真っ黒な囲いは、今度は雅古を中心にすえだす。


「樹季も逃げたら?」

 じりじりと近づくその暗黒と対峙しながら、雅古は言った。

 樹季はその言葉に、反射的な拒絶感を持った。そこに意識されずともある投げやりな自己犠牲を感じたからである。

 選んでいる行動の意味するところを考えさせたくて、樹季は震える声で聞き返した。


「お前はどうするんだ」

「さぁ?」

「さぁ?って何だよ! あれと残ったら多分死ぬってことだぞ!」

「そうかもな」


 雅古は塊に顔を上げたまま、顔色を一つ変えずに答えた。


「でも俺は、いらない人間だから別に死んだっていいだろ」

 その瞳には自らの生死に無頓着な者らしい、危険を面白がるような光が宿っていた。


 雅古は、他人のために死ぬことができる人間である。だがそれは、雅古が優しいとか思いやりがあるとか全然そういうわけではなく、ただ単に自分自身に価値を感じていないからこそ、そういうふうに振る舞えるのである。


 樹季は頭が熱くなった。腹が立ってるのか、悲しいのか、とにかく一回雅古を殴りたくなった。


「俺はお前が死んだら……」

 樹季はそう言って、続きを失った。言いたいことは確かにあるのだが、口にはできなかった。どう話したところでそれは陳腐な言葉にしかならず、雅古には届かないような気がした。

 樹季は雅古のことが好きである。死んでほしくないし、一緒にいたい。だから今の雅古の言動も行動も許すことはできなかった。


 そもそも樹季は雅古に、自分を庇って死なれかけている。

 病室で眠っていた雅古の姿が頭をよぎる。あの時も、今日のように雅古に守られたのではないか。

 樹季は手を握りしめた。


 ――もうあんな思いはしたくない。いや、しない。雅古にはもう守られない。

 それは、随分前にした決意である。

 だが、今の樹季には一人で逃げるか、一緒に死ぬか以外の選択肢を選ぶだけの力がなかった。

 ――俺は、また何もできないのだろうか?

 思い出せない記憶の中の後悔。それを繰り返してしまいそうなことへの焦燥。

 求めあがいて、樹季は目を強く閉じた。

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