第7話
「お待たせしました」
珈琲をトレンチに乗せたお姉さんが登場した。淹れあがった珈琲の香りが充満し、期待が確信に変わった。
「ブレンドコーヒーでございます」
洗練されたデザインのカップから湯気が立つ。くすみのないティースプーンと、ミルクが注がれたピッチャーが添えられている。海外では少数派だが、僕も
「ごゆっくりどうぞ」
一度、藤崎と目を合わせる。
「いただきます」
「……いただきます」
彗星のような珈琲だった。瞬く間に消えてしまうが、その刹那の時間に人々に幸福を齎す。そして、ふたたび流れること願ってしまう。
雑味が全くない。恐ろしいほど口当たりが良く、刹那の時間に舌を撫で、深い後味という幸福感を齎す。そして、その芳醇な香りでふたたびの口付けを誘う。
生まれてこの方十八年。これまで飲んできた珈琲の中で一番。
「美味しい……!」
僕の抱いた感想の続きが正面から飛んできた。珈琲に対する、僕と藤崎の好みは似通っている。いや、例え離れていたとしても、同じ感想が出てきたはずだ。
「ね。美味しい」
語彙力が消滅し、おうむ返しになってしまう。どこに行ってしまったの。僕が語彙力を探している間に、藤崎は二口目を啜り、ニマニマとする。今日は、藤崎のいつも見ることの出来ない表情をたくさん見ることができて、満足度の高い一日だ。
「飲みやすい。これなら
「誘ってあげたらよかったね」
あの甘党さんに、珈琲の魅力を知ってもらえたらどれほどいいか。
「今日は部活って言ってたから、どちらにせよ来れなかったと思うよ」
「多忙だ」
「あの子は忙しいのが好きなのよ」
「違いない」
彼女の予定表には空白がなく、パズルゲームのように色とりどりの予定が並んでいる。そろそろ同じ色同士をくっつけて消してしまいたいくらいに。
「それを言ったら
「見た目より真面目だからね」
「見た目よりは余計だよ」
ふっと優しい笑顔を浮かべ、三度カップに口を付ける。藤崎の表情は若干の思案顔に変わり、カチャリとカップをソーサーへ戻す。
「
「唐突だね」
「ちょっと気になって」
「殆どしないかな。テスト期間は早く帰れる場合が多いから、その分は勉強に当てているけど」
一日のうちの三分の一ほどの時間を学校という教育機関の中で過ごすのだから、その間にできることはやってしまうべきだと思う。授業中に完結できれば尚良い。ただ、こんなことが言えるのは理系だからなのかもしれない。暗記事項の多い文系ならば、そうはいかないだろう。
「そんな気がした。私は、人よりも時間がかかるからタイプだから羨ましい」
「向上心がないだけだよ」
「でも、本当に賢い人って立花くんみたいなタイプが多い気がするな。ほら、
「美空さんと一緒にされても困る」
全国模試の総合得点は、二位と圧倒的な差をつけて堂々の一位。定期テストは全教科満点。更に、絶世の美人で、人当たりもいいという。ドラマだとしても盛りすぎな設定である。異なる次元にいるとしか考えられないのが、どうやら同じ高校に通っているようだ。不思議で仕方がない。
「それはそうね、ちょっと違う世界の住人かもね」
彼女が所謂、”本物”なのだろう。七十億人の中でも極めて稀な本当の才能の持ち主。その他の人類を対義語として偽者と呼ぶつもりはさらさらない、ただ本物でないというだけ。
「僕は彼女のことを異星人だと思ってる」
「そんなこと聞かれたら怒られるよー」
「学校内での発言は控えるよ」
「そうしなさい」
どうも今のセリフに聞き覚えがあると思ったら、藤崎と夏希の会話の中でよく耳にするだ。まるで、姉妹のように諭されている場面によく出会う。もちろん、藤崎が夏希を諭すという構図で。
「藤崎って兄弟いる?」
「弟がいるけど、どうして?」
「そんな気がした、お姉ちゃんっぽい」
「んー、それは褒め言葉?」
「もちろん褒め言葉」
珈琲を啜る。先ほどよりも深みが強くなったのは冷めてしまったからか。時計を確認すると、時刻は十九時前を指していた。日は完全に沈んでしまったし、連絡しているとはいえ、あまり遅くなるのもよろしくない。そろそろ店を出たほうがいいだろう。
「時間、大丈夫?」
「ああ、そうだね。そろそろ、行かないと」
お互い、最後のひとくちを飲み終えると、荷物をまとめて出口付近のキャッシャーへ向かう。伝票らしいものはなかったが、メニューに値段が記されていた。一杯五百円。ワンコインであのクオリティの珈琲が飲めるのならば安いものだ。
「ありがとうございます。お会計、おひとり様五百円でございます」
アンティークレジスターだと。今時、そんなレトロなお会計方法を取り入れている店などあるのか。これほどキャッシュレス化の進んだ時代なのに。使う頻度の減った財布から千円札を取り出す。……いや、よく見ると、デザインだけで、機能としては最新のもの。電子決済やクレジットカードも使用できるようだ。ただ、一度出してしまったこのお札をしまうのもな。
「まとめてお願いします」
「ちょうど頂戴いたします」
なんだか騙された気持ちだ。
「いいよ。払うよ」
「ううん。付き合わせちゃったし」
「じゃあ、私は相談乗ってもらっちゃたし」
「相談?」
この店で話した内容を振り返ってみるが、相談になんて乗った覚えがない。強いていうならば、勉強の時間の話か? ただ、質問に答えただけだが、もしかしたら、藤崎にとっては相談のようなものだったのだろうか。
「ほら、参考書」
ああ、そういえば、そんなこともあったな。相談といえば相談ではあるが、こちらに関しても、ただ質問に答えただけで記憶にすら残っていなかった。
「そんなことで」
「いいから」
藤崎は左腕を掴み上げると、手のひらに五百円玉を乗せて、指を折るように、僕の手を包む。藤崎は質の良さそうな財布を鞄にしまう。今日に限ってはこちらが誘ったのだから、こちらが払うべきだという考えだった。ここまでされたら仕方がない。
「……受け取っとく」
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
ご丁寧に扉を開けて、外までお見送りをしてくれるようだ。店内から漏れた光が彼女を後ろからほんのりと照らす。
「お客様。この店を訪れたことは、誰にも話してはいけませんよ。心の中であなただけの思い出にしてください」
美しき店員は口の前に人差し指を添え、なんとも絵になる姿で、不思議なことを言い残した。扉が閉まると空間は再び断絶されたが、音の余韻は澄んだ夜へ広がった。
「最後のなんだったんだろう」
「さあ。でも確かに、あまり他人に教えたくないお店かも」
「気に入った?」
ふらりと立ち寄った人だけの味わえる秘密の珈琲というのも趣がある。……ならばどうして、あの男性は僕にお店のことを話したのだろうか。現に、僕は二人の友人に店の話をしてしまった。……まあ、気にしても仕方がない。ここは素直に教えてくれたことに感謝しよう。
「絶対にまた行く。珈琲は美味しいし、気になる本もたくさんあるし。店員さんはかわいいし」
「綺麗な人だったね。愛想もいいし」
「え? ああ、もちろんウエイターの人もとっても可愛かったけど、私はカウンターの奥で珈琲を淹れていた人の方が好み」
「カウンターの奥?」
気配はあったが、姿は見ていない店員のことか。
「あれ、見てなかったの? そっか。立花くんの座ってた場所じゃ見にくいか」
「あんまり印象に残ってないや」
「また、会えるといいね」
この時の僕には、まだ、藤崎の言葉の意味するところをわかっていなかった。
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