第2話
空から女の子が降ってくるというイベントは非日常の始まりのテンプレートであるはずだが、相手が猫であっても何かが始まるのだろうか。その黒い塊が、顔面にぶつかるまで刹那の時間にそんなことを思った。
約四半時前、自宅を出発し、七時二十分に出発する電車に乗り込み、おおよそ決まった場所に立つ。個性的な靴下のダンディーなおじ様。いつもギリギリにホームに現れるタイトスカートがよく似合うオフィスレディ。印象に残っている乗客と共にガタンゴトンと揺られる。窓から見える景色も、もう見慣れたもので、変わり映えしない日常をどこか退屈に思う。
だからだろうか。気まぐれに、普段は曲がらない角を曲がり路地に入ってしまったのだ。京都の街は碁盤の目のように道が通る為、住み始めて間もないときこそ複雑に感じたが、慣れてしまえば、道に迷うこともない。目的地があるのならば尚更だ。二年以上登校しているのにも関わらず初めて通る道であること気づく、個人経営の雑貨屋やアンティークショップが並ぶレトロな雰囲気は心地の良いものであった。道が段々と薄暗くなり建物と建物の間から漏れる日が濃くなる。その光の中に、黒い影が突如現れ、次第に大きくなり、僕の影とぶつかった。
「ふぐっ」
不甲斐ない声が出てしまったが、ギリギリのところで尻餅を着かずに踏み止まる。顔に張り付いた柔らかいもの剥がすと、真っ黒な猫と目があった。
「にゃー」
猫にしては珍しく、警戒心がない様子である。見たところ首輪はつけていないが、もしかしたらどこかで飼われているのかもしれない。いくら、変わり映えしない日常に退屈していたからと言って、猫とのラブコメは正直ごめんである。
「ごめんね。その子うちの子なんだ」
耳触りが良い甘い声。この猫よりかは警戒心を持ちながら声の方向に体を向ける。白シャツに黒のナロータイ、ソムリエエプロン。カフェかレストランの制服を彷彿させる格好をした長身の男性が立っていた。こんな路地裏で猫と散歩でもしていたのかと疑問に思ったが、視野を広げて見ると、どうやら、何処かしらのバックヤードのようで、建物の裏口から続くスペースにベンチと灰皿が設けられており、パーテーションで目隠しがされていて目立たないようになっている。ただでさえ薄暗い道であるため、声をかけられなければ気がつくこともなく通り過ぎていた。
「怪我はないかい?」
「あ、はい。大丈夫です」
ただ、猫が顔面に直撃しただけで、どこも怪我はしていない。逆に、猫からすれば予想着地点との間に急に障害物が現れた感覚だろう。いくら柔軟性の高い動物だからと言ってもぶつかった拍子に足を挫いた可能性も……いや、ないな。
「にゃー」
黒猫は僕の腕から抜け出し男性の足元にすり寄る。男性の方もこちらに歩み寄ったことで、はっきりとしていなかった彼の顔も露わになる。表現方法としては失礼で、正しくないのかもしれないが、なんというか、気持ちが悪いくらい整った顔をしていた。人間味が欠けており、例えるのなら、絵画の世界から抜け出してきたような人物だった。
「申し訳ないことをした」
「本当に大丈夫です。……では急ぐので」
かなり余裕を持って家を出ているため、時間に追われているわけではなかった。留まって、気を遣わせるのも申し訳ない、というのが、そそくさと退散しようとする理由だった。相手が猫であるだけで、出来事とすれば、道端で肩がぶつかったようなものだ。謝罪と同時にすれ違うくらいが日常だろう。
「君、珈琲は好きかい?」
「……はい?」
「珈琲は好きかい?」
聞き取れなかったわけではなく、突拍子もない質問の意図を理解し、返答することができなかっただけなのだが、きっとそれは彼にもわかっていた。その上で繰り返して聞かれたのだから、答えないというのも愛想が良くない。
「……まあ、好きですね」
「ならちょうどよかった。僕、その通りで珈琲店を経営してて、これ、そこのドリンクサービス券。お詫びといってはなんだけど、よかったらどうぞ」
ニコリという描き文字が見えるような笑みと、予め用意していたのかと思えるほど自然に胸ポケットから取り出したチケットが向けられる。なんだか怪しいが、彼の言葉の中には悪意は存在しない。受け取ったからといって何か劇的な事件が起こることもないだろう。ならば、善意を素直に受け取っておこうと手を伸ばす。
「ありがとうございます」
「期限とかないから時間のある時にでも、引き止めて悪かったね」
「いえ、では」
不思議な人だ。路地を抜けた辺りで来た道を振り返るが、そこにはもう彼の姿はなかった。受け取ってそのままになっていたチケット、というよりカードに近い金券に目を落とす。喫茶店で販売される回数券とは異なり、妙にクオリティが高く、カード一枚で珈琲を一杯いただけるようだ。どのくらいの値段で提供しているのかは不明だが、確か、珈琲一杯の全国の平均価格は四二五円のため、カードを作るコストの方が高くつくような気もする。えっと、お店の名前は。
「”まよいぼし”ね」
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