まよいぼし

第1話

 

 現在時刻、午前〇時。祝日が重なって生まれる輝かしい連休は終わり、忙しない日常が刻々と迫る五月の第二火曜日。それでも夜の繁華街は賑わうことを止めない。日の出ている間に蓄積した鬱憤をどうにか晴らそうと酒を浴びる者。行き場をなくし路上に座り込む者。煌びやかな衣装を纏い、甘い声で誘惑する者。そんな人々が錯綜した街。自分もこの街の一部であることを気がつかないように歩みの速度を上げる。


「にゃー」


 目的地である建物を目の前にし、一匹の猫の存在に気づく。店の唯一の目印である看板の元で真っ黒な体を夜に溶かし、じっとこちらを見つめる。猫など、さほど珍しくもないが、その澄んだ瞳に目を奪われてしまう。しかし、時間は有限。そう悠長に立ち尽くしている時間などない。七階建ての商業施設と工事中のビルの間にひっそりと設けられた地下へと続く石階段をコツコツと降る。煌めく表通りとは一線を画し、降った階段以上に下がった気温を肌で感じながら、年季の入った木製の扉を開くと、ヒンジがキキと軋む。


「いらっしゃいませ。……お待ちしておりました、奥へどうぞ」


 出迎えてくれた黒服に案内されるがままに、ラウンジへと降りる。ピンスポットを使用した舞台のような、均一性を下げた照明の演出。各テーブルと壁に飾られた戯画がライトアップされる。テーブル席には二、三人の客が複数組。こちらに内容が聞こえるような声量ではないが、かなり盛り上がっている様子だ。一人でカランコロンとウイスキーを嗜んでいる男性の横を通り過ぎ、見知った後ろ姿の横に腰を下ろす。


「よう、遅かったな」


 隣の席から声が飛ぶ。トレンドのヘアスタイルに、デザイナースーツを身に纏う。少々カフスボタンが派手過ぎるようにも感じるが、それは好みの範疇か。


「悪いな」


 ゲーム開始は午前一時なので、遅刻ではないが、ゲームの前に一杯やるのが、恒例になっていたため、いつもよりはやや遅い到着である。リスクヘッジを考えると、外にいる時間はできるだけ短いことに越したことはないのだが。


「んや、どちらにせよ、まだ来てない連中も多いからな。マスター、同じものを彼に」

「かしこまりました」


 バーテンダーはバーマットに透き通ったロングのタンブラーをそっと置く。氷を入れてマドラーでくるくると回しタンブラーを冷やすと、丸くなった氷を一度流し、新しい氷を入れ直す。三本のボトルを取り出し、手際良くメジャーカップに注いでいく。無駄な工程がなく見ていて気持ちが良い。炭酸が抜けないように優しくステアすると、ほんの数秒でライムの添えられたカクテルが出来上がる。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 ライムの酸味とベースの甘苦さが合わさったドライな味わい。さっぱりとしていて飲みやすい。隣に座る男の趣向だが、これはこれで悪くはない。彼とは友人でもなんでもない。よくて知人。名前は知っているが、ここでは必要のないものだ。一点だけ、この店を紹介してもらったことには感謝しなければならない。


「ほれ、今回のカモ。一部上場企業の重役だそうだ」


 階段を下ってきたのは、ふくよかな体型中年の男性。肥満体質特有の脂性肌と後退した生え際を隠そうとした髪型。センスはないが身につけているものも質は良い。


「ふーん」

「女性問題を起こして、相当フラストレーションを溜め込んでるって話だ、わかりやすいぞー」

「まあ、なんでも」


 ギャンブルにおいてポーカーフェイスは最も重要なファクターの一つだが、そのような次元で渡り合わなければならない状況ならば、こんなリスキーな場所に来たりはしない。


「そろそろ行くか」


 ディーラーがテーブルに現れたことを合図に、散っていた客が続々と席に着く。男女の割合は8:2といったところか。親の仇のように鋭い目付きでこちらを見る輩がいるが、知り合いだろうか。いくつかの人を破産された以外に恨まれるようなことをした覚えはないのだが。まあいい。さて、ゲーム開始だ。




 敗北した中年男性は文句を言いたげな表情でこちらを睨みつけ、口を開くが言葉は出てこない。ゲームを楽しむための余裕は金銭的にも精神的にもないみたいだ。これ以上の利益は見込めないな。腕時計で時間を確認する。少し早いが、ゲーム中に注文した二杯目のカクテルもちょうど空になったことだし、帰るとしよう。席を立ち、別のテーブルでゲームを楽しむ知人と軽くアイコンタクトしてから会計に向かう。


「チェックで」

「かしこまりました」


 クラシカルな革製のトレーには”¥-255,000”の文字が。ドリンクの料金とチャージ料金、それと“口止め料”を差し引いた金額である。こちらは虚構の金を払い、店側はお釣りを提示する。


「こちらお納めください」

「確かに」


 金額を確認し、予め持参していた封筒に頂いたお金を入れ、胸ポケットに仕舞う。三時間にしてはよく稼げた方だ。


「いつもありがとうございます」

「また来ます」


 再びヒンジを鳴らす。石階段を登り切ると冷たい風が頬を撫でる。現在時刻午前三時三十分。繁華街は未だに静まる気配はない。

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