悪魔の取引(不成立) feat ニュートン力学

奈良乃鹿子

悪魔の取引(不成立) feat ニュートン力学

「なあ、俺と契約しないか?」


 オンボロアパートの窓をガラリと開けて、その男はニッカリ笑って顔を出した。おかしい。俺の記憶が正しければ俺のこの部屋は三階だし、ベランダなんて上等なものは付いていない。


 にも関わらず錆びたサッシに指をかけたまま、窓から男はこちらを覗き込んでいた。ということは論理的に考えて結論は一つ。この男は宙に浮いているのだ。


 馬鹿馬鹿しいそんな脳内の戯言に溜息を一つ吐くと、俺は窓辺に歩み寄った。机の上の山積みの参考書が崩れて埃を立てる。けれども別に気にすることはない。明日には全部不要の産物になって、燃えるゴミに出す予定だ。俺は窓から手を出して、その男――悪魔の頬に指先を触れさせてみた。


 指先は確かに物理的なかたまりに接触する。ふむ、と首を傾げた。どうやらこの悪魔は俺の疲労が齎した幻覚ではなさそうである。


「……冷たいな」

「そりゃあこの天気だからな。雪でも降り出しそうじゃないか?」

「まあ、天気予報はそう言ってるけど」


 折しも明日の2月13日は関東全域で降雪の予報。交通網の麻痺に注意を、なんてアナウンサーは脳天気に宣っていた。確かに空を見上げてみれば、どんよりとした低気圧の証。その黒色にそっと息を吐けば、悪魔はにたりと笑った。


「なあ、兄ちゃん。俺と契約しようぜ」

「……何を」

「なんでも。なんでも一つお前の願いを叶えてやる。明日の試験に絶対に遅れないように、この雪雲を消し飛ばしてやってもいい。必ずお前が第一志望に合格するように運命を書き換えてやってもいい」

「何故?」

「そりゃあ愚問だよ。悪魔が契約を持ちかける理由は古今東西いつだって一つだろ」


 悪魔の爪までまっくろな指先が、俺の心臓を指した。


「お前のその魂がオレは欲しい。ここ最近の人間じゃ滅多に見ない良い色だ。ジューシーで、とろけてる。欲望と野望と願望に塗れた人間らしい汚い色」

「それ、褒め言葉じゃないだろ」


 あなたの魂は煩悩に満ち溢れてます、なんてそんな言葉、あまりにも失礼すぎる。とんだ誹謗中傷だ。俺が敬虔な仏教徒ではないにしても。


 まあ確かに俺の内心が欲ばかりであることは認めよう。


 今は腹が減っている。ハンバーガーを5つくらいぺろりと収められるくらい。それから学歴にも飢えている。明日の入試で俺の生涯年収が確定すると思い込める程度には俺は青いので。最後に言い募るならば女だ。彼女が欲しい。年齢イコール彼女いない歴を早く抜け出して、東京の洒落たキャンパスを二人で歩く夢を見ている。童貞の夢だ。笑わば笑え。


 故に、この悪魔の言う俺の魂のオイリーさは真である可能性が高い。まあそもそもこの悪魔の実在が真であるか、というところから議論を始めたほうがいいと思うが。


「真だよ。オレは今、お前の目の前に明確に存在している生き物だ」


 悪魔はそう、俺の頭の中を当たり前みたいに読み取って答えた。尻尾がぴるぴると窓枠の向こうで揺れている。さらに加えて言及するならば、月もまともに見えない工業都市の夜空を覆うように大振りの羽が二振り。


 全くもって現実とは意味不明だ。数学の大問6の整数問題より意味不明だ。散々頭に叩き込んできた筈のニュートン力学の法則を容易く超えて、悪魔はそこに浮いていた。浮いて、俺を見ていた。俺の柔らかくて甘くてちょっと塩味の効いた魂を見ていた。


「……なんで、俺のとこに来たんだよ」

「言っただろ。お前の魂があんまりにも美味そうでさ。ほら、お前だって腹が減ったら理性なんて失って口座の残高も思い浮かべずにファストフードに突っ込んでくだろ。それと同じ」

「悪魔も腹が減んのか」

「そりゃそう。お前、オレらの事なんだと思ってんの」

「悪魔」


 悪魔。超自然的物体。幻想の世界の住人。人間が作り出した意味のない妄想。キリスト教の信者が使う、便利な比喩表現。そう並び立てれば、悪魔は不満そうに鼻を鳴らす。


「全く人間って生き物は馬鹿だよな。どうして目の前にあるものをそのまま信じられない? 今お前の目の前でこうしてぷかぷか浮いてるオレが、本当に空想の産物に思えるか?」

「思えるよ。だってもしお前の実在を肯定したら、ニュートン力学は崩壊する。そしたら俺はこれだけ勉強してきた物理の力学分野を丸々落とす羽目になる」

「頭が硬いねえ。世界に力学体系が一つしかないなんて誰が決めた。リンゴが真下に落ちる日もあれば、悪魔が空に浮かぶ日もある。そういう柔軟性がお前ら現代人には足りないんじゃねえの」

「そういうクレームは文部科学省にどうぞ」


 悪魔はそっと白い息を吐き出した。そろそろ日付を超える深夜。気温は氷点下を回っている。幾ら論理の外側にいる悪魔でも寒いものは寒いらしく、彼は黒色の腕をふるふると撫でた。


「……まあ御託はいい。それより兄ちゃん、戯言を吐いている間にも腹は決まったかい? オレに何を願う?」

「俺がお前と契約する前提で話すなよ」

「話すさ。だってお前、もう結論は出てるんだろ」


 悪魔の人差し指が俺のこめかみを叩いた。矮小なホモ・サピエンスの脳みその中身を覗き込むなど、悪魔にとっては欠伸をするに等しい児戯らしい。


「ほら、言えよ人間。お前のドロドロの欲望を曝け出してみせろよ」


 食いもんに名誉に金に女。なんだって好きなだけやるからさ。悪魔はそう、勝利を確信したようにまた口角を上げた。


「本当に、なんでも良いんだよな」

「もちろん」

「じゃあさ、俺にこの先の50年間の繁栄をくれよ」

「……へえ」


 悪魔の長方形の虹彩が楽しそうに惹き絞られる。明らかにヒトではないことを示すその仕草に俺は肩を竦めた。本当に何やってんだろ、俺。明日が人生の山場だってのに、こんな生きてるかも死んでるかもよく分からない生き物との会話に時間を費やしてさ。


 そんな理性的な事を嘯く左脳は黙らせて、右脳の支配する左半身だけで俺は笑った。


「明日の入試は首席で合格、就活も全勝。学生起業のベンチャーはバカみたいに上手くいって、20代前半で大金持ち。けれども控えめで驕ることなく、誰がどの角度から見ても完璧な聖人。勿論メチャクチャに可愛い彼女と結婚して子宝にも恵まれ、孫はハーバードに飛び級入学。そういうあり得ないほど完璧な人生を俺にくれよ。な、出来るだろ。悪魔なら」


 馬鹿みたいな絵空事。何故ならば俺は全てが欲しい。金も権力も名誉も金も女も才能も愛も全てが欲しい。優劣なんて付けられるものか。


「俺の魂が欲しいなら、そんぐらいはくれなきゃ対価に釣り合わない」

「良いぜ、叶えてやるよ。オレはお前に、この先50年続く無限の繁栄を約束する。お前の望むことは全て叶い、得たいと思ったものは全て手に入る」


 その代わり、と静やかに夜の空気に音が響いた。


「50年後のこの日、この時間。お前の魂を取りに来る。……契約を違えるなよ、人間」


 俺はその言葉に、無言で首肯だけを返した。



 ♢


 人生とは案外単調で簡単でチョロいものだった。訂正。本当は人生とは苦難と辛酸の連続で、道の端から転げ落ちた人々を少しずつ絶望が絡めとっていく最悪の出来レースなのだけれども、俺の人生はその例に準じなかった。


 からん、とグラスの中で琥珀色の氷が音を立てる。静かな夜だった。地上211メートルの一人っきりの部屋で、ソファの皮が軋む。じっと時計の針だけを見つめていた。

 

 約束の時刻まではあと3分を切っていた。あの日とは異なってぬるい空気が部屋中を満たしている。ボロいアパートの壁とは違って、セントラル空調で支配されたオフィスビルの一角はいつだって適温の23℃。誤差はプラマイ1。


 目を閉じて、坂を転がるように終わっていった50年間を思い返す。起伏などなく、障害もない。悪魔はあの日俺が願った事を文字通りそっくりそのまま叶えてくれて、俺はこの世界の全てを手にした。


 溢れかえった富に権力。金持ちはいつの時代だって理不尽に嫌われるものだが、こと俺の場合は例外だ。最早崇拝に等しい尊敬は50年の間一度たりとも崩れることはなく、俺の周りの全ては俺を無条件で愛した。俺の金ではなく、俺そのものを愛した。


 そんなことあり得ない、なんて馬鹿げた事を言うもんじゃない。この世にあり得ないことなど一つもないのだ。だってそうじゃなきゃ、あの日、あの夜に俺が悪魔と出会った事実が否定されてしまう。


 からり、とまた氷が溶けて音を立てた。それに重なるように、丁度向かい側にある大きなガラスの窓が控えめに鳴る。ノックは3回。礼儀正しい悪魔は、きちんと時間通りに正面からやってきた。


 一歩、二歩、三歩。やっと広い部屋を横断して窓辺へと行き着くと、俺は50年前の再演のように窓から手を伸ばした。窓は開いていた。ひやりと差し伸ばした指先が、冷たい何かに触れる。まっくろな皮膚。


「冷たいな」

「そりゃあこの天気だからな。部屋の中でぬくぬく温まってたお前は気づかんかったかもしれないが」


 ほら、雪が降っている。悪魔はそう夜空を見上げた。飛行機のテールランプが星座を描く現代の星空の下で、ひらひらと白雪が舞っていた。


 結局50年前の2月13日は雪なんて降らず、気象庁の珍しい大外しが話題になっていた。全国の受験生は無事会場に到着できることに安堵し、会場で泣いたり笑ったり絶望したり悲鳴をあげたりしたわけだ。


 けれども今日は違う。何故ならば俺は別に、明日の晴れを願ってなどいないから。


 悪魔は50年前と全く変わらない出で立ちで、宙に浮いていた。今日はリンゴが地面に落ちない日で、悪魔が空を飛ぶ日だってこと。ふわふわと意味があるんだかないんだか分からない両翼を閃かせた悪魔は、その黒色の瞳で俺を見やった。


「よう、兄ちゃん。久しぶりだな」

「そうだな」

「どうだった? オレの与えた50年は」

「完璧だったよ。順風満帆。文句の付け所もない」

「そりゃあ良かった。悪魔冥利に尽きるねえ」


 にやり、とまた悪魔らしい笑みが浮かぶ。それから悪魔は窓枠に両腕を組んで掛けると、酷く楽しそうに首を傾げた。


「なあ、悔しいかい?」

「何が?」

「今からオレに魂を抜き取られることさ。楽しかった50年間は幕を閉じて、お前はフィナーレを見届けることなくこの世界から去る」

「……ああ、そうだな」


 その通りだった。契約内容は単純。悪魔は俺に完璧な人生を与え、俺は悪魔に魂を後払い。決まり切っていた結末だった。


 悔しいか。その悪魔の問いを頭の中で噛み締めてみる。悔しいか、後悔しているか、何か思い残すことはないか。それらの問い全てに、俺の脳は否を突きつける。


 深夜に相応しい静けさと共に、俺の年相応にひび割れた声が響いた。


「いいや、何一つ悔いていることはないよ」

「本当か? 痩せ我慢は悪魔の前じゃ無意味だぜ。使い残した金に、行ってない国。食ってないモンに読んでない本。やり残しは無限だ」

「本当だよ。……不思議なんだが、本当に何一つないんだよ」


 別に悟りを開いたわけでも本物の聖人になったわけでもない。ただ、胸の内をいくら問うても出て来ないだけなのだ。


 やり残したことは、ある。見届けていないものも無数にある。けれどもそれらの全てが心の底からどうでも良かった。ふう、と凍った空気に細く息を吐いてみれば、白い煙が上がる。老体には少しばかり厳しい寒空に身体を晒しながら、俺はゆっくりと悪魔の顔を見返した。


「50年間、全てが手に入った。何の努力をせずともな。……なあ、あのさ、例えばゲームをひとしきりクリアした後に最初の村に戻ってモンスターと戦ったとするだろう。きっと一撃で倒せるよな。何の苦労もなく。爽快かもしれないが、それって楽しいと思うか?」


 悪魔は目を瞬いた。


「……どうだろうな。少なくともお前は、それが楽しくなかったのか?」

「そう。退屈で退屈で仕方がなかった。だって全てが思う通りに行くんだぜ? それってつまり俺の行動は全部が無意味なんだよ。結末が決まってるんだ」


 つい数秒前この悪魔はフィナーレを見届けられないことへの悔しさを問うた。皮肉だ。だって俺はフィナーレをもう知っている。俺の人生の全ては上手く行くと決まり切っていて、その最終幕に向かってただ時間だけが過ぎていくばかりだったのだから。


 悪魔ははじめて、心の底から困り果てたように顔を歪めた。それから目を凝らすように俺を見据えて、その指先が俺の心臓に触れる。爪が胸の肉に突き刺さった。


「……随分不味そうな魂になってんな」

「もう欲も執着も何もないんだよ。この50年間、ただじっとお前が来るのを待ってただけだった。お前がこの退屈なゲームを終わらせに来るのを心の底から待ち望んでた。――ああ、それが唯一の欲望だったかもな」


 つまり、俺の魂にぎちぎちに詰め込まれていた油ぎった欲望は、この悪魔が窓を叩いた瞬間に全て消え果てたわけである。


 窓から吹き込んだ風が、すぐ側の観葉植物の葉を撫でた。悪魔はじっと黙り込んでいた。爪先は俺の魂を引き摺り出そうとして、またそれを躊躇って、何度も胸の肉の上で蠢く。


「なあそれって、契約不履行じゃねえの」

「いいや、違うね。俺はお前に、俺の魂をやると言った。その状態がどのようなものであろうと、お前が文句を付けるのは無茶ってもんだ」

「オレは、お前の魂が欲しかったんだよ」


 お前のだ、と悪魔は二度呟いた。


「あの安モンの、ベタベタした魂だよ。なあ、どうにかしてくれよ。50年も待ったんだぞ。悪魔にしても長い年月だ。そんで手に入ったのが、こんな枯れっぽっちの老人のパサついた命なんて笑い話にもなりゃしない」

「仕方ないだろ。人間は老いるし変わるんだよ。俺だってそれだけは例外じゃなかった」


 一体この世界に、18の時の瑞々しい野望に満ちた魂を変質させることなく老いる人間がどれほどいるというのか。いるわけがない。年月は人の欲を酸化させて、揮発させる。


 故にこの結末はどうしようもなかったのだ。縋るようにこちらを見やる悪魔に、俺は誤魔化すように目を細めた。


「諦めろよ。契約はちゃんと守ったぜ。良いから早く、俺の魂を持っていけよ」

「――それじゃあオレはお前の思う通りに動いてるだけじゃねえか。何でお前の自殺達成にオレの手を貸さなきゃいけない」

「そういう約束だろ。契約を違えるなよ、悪魔」


 その嘯きに、悪魔はしみじみと息を吐いた。果たして彼のような生き物が人間と同じく呼吸を必要とするのかは知らないが、とにかく彼は人間らしく溜息を吐いた。


 ぐちり、と身体が抉れる音がする。悪魔の尖った爪が皮膚を通り抜けてよく育った脂肪の層を突き抜け、肉に守られていた臓器に触れる。魂とはやはり心臓のそばにあるらしい。


 俺は窓から身体を乗り出すと、そのまま悪魔に体重を預けた。悪魔の指先が自重で食い込んで、やっと右心房を貫く。


 真下のアスファルトと砂埃を見遣りながら、俺は両脚を床から離した。ぐさり、と悪魔の指はとうとう背中側を通り抜けて、ぬるい23℃の空気に纏わりつかれる。長さが足りないなんてそんな論理的で科学的な話は言いっこなし。なんて言ったって相手は悪魔だ。


 悪魔はその成人の身体を横向きに貫くに十分な長さの指をはためかせて、引き抜いた。赤黒く染まった爪の先っぽには、ほんの小さな青色の光が灯っている。どうやらそのみずぼらしい灯りが、50年の対価らしい。


「全く割に合わねえ契約だったよ」


 そうぼやいた悪魔は、丁度211メートルの上空から真下のアスファルトに落下するところの俺を見やってつまらなげに唇を緩めた。


「今日はリンゴが地に落ちる日だったみたいだな」


 ばしゃりと少し下で、赤い果実が弾ける音がした。

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悪魔の取引(不成立) feat ニュートン力学 奈良乃鹿子 @shikakochan

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