完結編 Welcome to this harsh yet wonderful world



「名前、決めたよ」


 予定日まであと二週間。新しい命を宿したお腹をさすりながら、愛菜はリビングのソファーでくつろいでいる。


 あの夏の日、摩耶花との別れの日からちょうど十年経った。


 高校を卒業してからずっと愛菜は俺と共に歩んでくれている。

 同じ大学に進み、同棲を始め、就職した。

 俺は医療機器・材料を扱う会社に、愛菜は出版社に勤めている。

 社会人として安定した生活を送り、充分に蓄えもできた。愛菜は快くプロポーズを受け入れてくれた。

 ここ数年は新型感染症の影響もあって大勢で集まるのが難しいこともあり、家族と親族のみで小さな結婚式を挙げた。いくらか挙式費用が浮いたので、増えるだろう家族のためにとオートロック付きのマンションに引っ越せた。


 結婚二年目、妊娠中の妻のために俺はスムージーを作っている。


「どんな? あ、バナナでよかったかなスムージー」


「うん、ありがと」


 ご所望の味を手渡し、三人がけのソファーに腰を下ろす。いまは二人だが、数年後にはここにもう一人座る。横にいる愛菜と目に見えて膨らんだお腹が愛おしい。


「美由紀。どうかな?」


「美由紀。ふんふん、画数は、と」


 姓名判断が不運なものでないかスマホと睨めっこしていると「気にしすぎだって」と愛菜がツッコむ。

 検査で胎児は女の子であることがわかった。

 自分が名付けたい、とめずらしく愛菜は譲らなかった。


 美由紀。みゆき。


 み、ゆ、き。


 お腹の子の名前を口笛を吹くように呟いていると、ある閃きが生まれた。 


 ま、や、か。


「ああ、一文字ずつずらしたかあ……」


 そう漏らすと、愛菜は意地悪に微笑んだ。あの頃、摩耶花のプレゼントを選んでいた時に見せたのを思い起こさせる笑み。

 そして、昔を懐かしむ年相応の女性の顔つきに変わる。


「あやかってみたんだ、駄目かな」


「ん、いいんじゃないか」


 愛菜なりに親友との思い出をなんらかの形で残しておきたいのだろう。内心複雑にはなったが、突っぱねる気なんてさらさない。俺自身『美由紀』という名前と響きはパズルのピースがハマったように気持ちが良かった。


 リビングにはいくつか写真が飾られている。

 ほとんどが俺たち夫婦のツーショットだ。

 結婚一周年記念に泊まったホテルの一室で。

 新婚旅行で訪れた沖縄の水族館で。

 晴天に恵まれたチャペルで。


 その中の一枚。

 俺と愛菜と、もう一人。

 高校の校門前で撮った、かけがえのない幼馴染とのスリーショットがあった。


 ■


「摩耶ちゃん、おはよう」

「摩耶ちゃん、何の本読んでるの」

「摩耶ちゃん、お弁当多めに作っちゃった、一緒に食べない?」


「……ごめん。一人にして」


 連日積極的に話しかけてくる愛菜に、摩耶花はそっけない態度を貫いた。


 あの日言った通り、摩耶花は俺たちから距離を置いた。挨拶などで話しかければ対応はするが、もはや談笑したりすることはない。事件の尾が引いているのもあり、学校で摩耶花に関わろうとする生徒はほぼ皆無。校内で見かける時は一人きりが常。愛菜は意気消沈するたびに俺を縋るような目で見た。


 あの夜、摩耶花と話せた事を愛菜には伝えていない。

 俺が摩耶花とは話せずじまいのままだと誤解した愛菜はなんとか話し合いの場を設けようと躍起になった。登校中、休み時間、放課後、時間が空いたらすぐ愛菜は摩耶花の席に向かった。休日には何度かメッセを送ってみたようだ。が、結果はどれもスルー。途方に暮れている愛菜は見るに堪えなかった。もう諦めようと告げると、


「そんな事言わないで。私たちが離れちゃったせいで摩耶ちゃん、あんな、ひとりぼっちで。私のせいで」


 声はとぎれとぎれ、いまにも泣き出しそうだ。摩耶花を孤立させてしまったのは自分だと愛菜は自責の念に駆られてしまっている。

 こんな健気な恋人に嘘をついてしまった罪悪感で胸が痛んだ。俺は彼女を慰めることしかできなかった。


 暖簾に腕押しな状況は年を跨ぐまで続いた。

 すげない摩耶花に愛菜はなおも果敢に挑む。が、進級し、それぞれクラスが別れると接する機会は次第に減っていった。夏に入る頃にはなんの成果もない日々に愛菜も気落ちし、徐々に摩耶花のところへ行かなくなった。



 あらかた学校行事が終わり、俺たちは本格的に受験生となった。俺と愛菜は同じ大学に行くために勉強漬けの日々を送った。

 愛菜は成績があまりよろしくない。中学の頃から俺と摩耶花でつきっきりで指導し、なんとかこの高校に入れた。いまは俺ひとりで勉強を見てあげている。俺としても他人に教えることはプラスに働くので苦ではない。恋人のこととなればなおさら。

 母親からの情報によると摩耶花は俺たちとは違う大学を受けるらしい。どうやらあのバンドメンバーが在籍している大学のようで彼女たちを追いかける形で進学するみたいだ。まぁあいつは成績が良い、よほど難関でなければ余裕だろう。いまは受験勉強のためバンド活動も控え気味になっているそうで、たまに見るSNSでは年内最後のライヴを近々行うとか宣伝していたな。


「摩耶ちゃんのバンド、なんて言ったっけ?」


 自宅で勉強中、ふと愛菜が聞いてきた。

『The・Mars』の名前とSNSの公式アカウントの存在を教え、急にどうしたんだと聞き返す。


「摩耶ちゃん、いま何やってんだろうなぁ、て気になっただけだよ」


 その日はそれきり。愛菜は摩耶花の話題に追及することはなかった。


 数日後。

 枯葉が道を埋め尽くす晩秋。今日も俺の家で勉強する予定だったが、愛菜から体調が優れないからとキャンセルの連絡がきた。

 俺は見舞いにと愛菜の家に行く途中、その愛菜が歩いているのを見かけた。呼びかけようとしたが、愛菜が着ているのが普段の彼女らしくない服装だったためにためらった。野球帽に伊達眼鏡、ぶかぶかのパーカー。……既視感のある変装じみた格好。先日の愛菜とのやりとりもあって、彼女の行き先に見当がついた。こっそりあとをつける。覚えのある道が続き、予想は当たった。

 繁華街から外れた半地下の店。

『Stray Cats』に愛菜は足を踏み入れる。時間を置いて俺も入店した。ここに来るのはあの夏の日以来だ。なるべく摩耶花とは顔を合わせない方がいいと自然に避けていた。


 ホールは俺が訪れた時と同じく盛況だった。あの日は複数のバンドが同じ日にでる店主催のライヴ──ブッキングライヴだったが、今日は違った。

 摩耶花たちのバンド『The・Mars』主催のライヴ。自主企画なんて相当名が売れてなければライヴハウスも店を貸さないはず。彼女たちの人気ぶりがうかがえる。

 ステージに上がる『The・Mars』ゆかりのバンドも実力者揃いだ。ライヴハウスは季節を一つ前に戻したかのように盛り上がっている。

 愛菜はすぐに見つかった。この手のイベントに行き慣れていないせいか手をぴょいぴょい引っ込めたりする仕草が小動物みたいで恋人の可愛さに身悶えしてしまった。なるだけ彼女に見つからないように離れ、壁にもたれる。俺に嘘をついてまで一人で来たかったなら、その意思は尊重しよう。スケジュールに目を通す。摩耶花たちは前回と同じくトリ。


「幼馴染くん、一年ぶり」


 いつの間に横にいたのか。摩耶花と同じ赤い髪の女性が気さくに話しかけてきた。


「その節はありがとうございました」


「あたしはなんもしてないじゃないか」


 カラカラと諏訪部さんは笑うが、彼女の後押しがなければ摩耶花とちゃんと話し合うことはなかったかもしれない。少なからず恩義は感じている。


「摩耶花、あんたが来た日からはいい顔になったもんさ。ありゃ相当に泣いたんだろうね。うん、良き良き」


 泣くのが良いことか。訝しんでいると、


「涙の数だけ強くなるんだよ。老いの実感さ」


「老いの実感?」


「思い通りにいかないということを知るのが年をとるということ」


 諏訪部さんは続けて、


「恋愛も、進路も、才能も、株価も、体脂肪も、自分の力ではままならないということを知っていく。つまり人生は取り返しがつかないものということさ」


 株価と体脂肪いるか?


「どんな選択をしても悔いは多少なり残る。それでも明日に向かって生きていく」


 そうすりゃ、とステージを顎で示す。

 ハコ全体に響き渡る歓声。

 赤い髪の女を先頭にして、主催バンドがステージに構える。

 迎え入れた傷心の少女が、超一級のロックスターへと輝くスリーピースバンド。


「生きていて良かった、と思える出会いがある」


「みんなー! 楽しんでるねー、ノッてるねー、当たり前だよねー」


 マイクを掴み、摩耶花は観客に向き合う。ホールに割れんばかりの咆哮が轟く。

 待ちきれない客をなだめるように、摩耶花は参加したバンドと場を提供してくれたライヴハウスへの感謝を述べた。

 またあの空間を体感できる。俺自身興奮を抑えきれなくなってきた。

 前説が終わりを迎える。

 ボーカルが曲のタイトルを宣言。今度は忘れなかったな。

 カンカン、とドラムがスティックを打ち鳴らし、ベースがニヒルな笑みを浮かべた。


「ウィィィーーアァァァーーーー!!!」


 ライトが赤髪を照らす。

 太陽がフレアを放つように、ハスキーなボイスがホールを覆う。


「ザァァアッッ、マァァァァァアアアァァッッッッ!!!!!」


『The・Mars』の音楽は俺が初めて来た日よりさらに磨きがかかっていた。そのまま録音を再生したかのような精密な演奏、しかし無機質とは違う。

 身体感覚を震わせるダイナミックなパワーはウェイトを上げ、観客を囃し立てるようにアドリブらしきものも終始連発している。生のライヴでしか味わえないパフォーマンスに、ハコ全体が揺れる。

 三人のバンドが奏でる音楽は数多の人間を別次元に誘う。


 ふと、愛菜のほうに目を向ける。

 他の客と同様に彼女も熱狂に身を委ねている。初めてここに来た時の俺も、側から見ればあんな感じだったのだろう。


 ── 摩耶ちゃんすごいすごいー、じゃあさ、あのバンドの、ほらこないだ発売した曲やってー


 ── OK! 私のカッコいいとこみててねー


 たった四年ほど前の記憶にセピア色のフィルターがかかる。俺と愛菜を部屋に招き、摩耶花は練習の成果を見せた。すぐに触れ合えたあの距離は、いまはもうずいぶんと遠くなった。

 摩耶花のソロパートに入る。さらにホールが沸く。苛烈なテクニックを披露する彼女の指が握ったそれに、俺は今更ながら気づく。


 ティアドロップ型のギターピック。


 俺と愛菜からの贈り物。高校生が買える程度のささやかな値段のそれはこのライヴハウスを震わせる源となっている。

 ちゃんと使ってくれているんだな。

 包み込んだ指の感触が鮮明に蘇る

 受け取ってくれてよかった。心底そう思う。

 手の届かないスターと何もない自分には、はっきりとした繋がりがあった。俺たちの関係はただ過去になったのではない。ずっと意味を持って影響し続けることに、目頭が熱くなった。


「今日はほんとに、ほんっとにありがとーー!!」


 ラストの曲が終わり、摩耶花たちは再び感謝の言葉を述べている。


「諏訪部さん、あそこにいる子わかりますか」


 俺は離れた場所にいる愛菜を指さす。愛菜は伊達眼鏡を外し、涙を拭っている。


「? ありゃもう一人の幼馴染の子かい。あんたたち変装のセンス同レベルじゃないか」


「センスはともかく。あの子には話しかけないでください。俺と摩耶花とのこと、ちょっと、知られたくないんで」


 念のため諏訪部さんには口止めした。俺の母親みたいに口に鍵をかけられないタイプじゃないことを祈ろう。


「あいよ。訳ありの多い子たちだねぇ」


「すみません、変なお願いしちゃって」


「構わないよ。減るものでもない」


『The・Mars』主催のライヴは大盛況で幕を閉じた。俺は愛菜に見つからないように一足早く店を出る。

 帰宅し、就寝の時間になるとおやすみのメッセの代わりに通話がきた。


『今日は体調が悪いって言ったけど、ごめん嘘ついた。摩耶ちゃんのバンド見に行ってたんだ』


 電話の向こうからしょげた声。俺は素知らぬフリをした。現在進行形で騙している俺に怒る資格はない。


「そっか。ライヴだったんだろ。どうだった」


『うん、あのねあのね、摩耶ちゃん、ギターはすっごく良かったのはもちろんだけど、歌声が綺麗で』


 知ってるよ俺もいたからな。あの場で感じた熱気を終わった後も誰かと共有したい、その気持ちはよくわかる。

 ひとしきり喋り終わると声のトーンが心なし下がった。


『バンドのメンバーさんともツーカーな感じで、なんだか昔の私たちを見ているような気がしちゃった』


 昔の私たち。

 何気ない言葉が、酷く胸を抉った。言った当人もダメージを受けているのが如実に伝わる。


『摩耶ちゃん、もう一人ぼっちじゃないんだね。私たちとは違う居場所を見つけたんだ。あんなに楽しそうな摩耶ちゃん見てたら安心しちゃった』


 でも、と声はぐずぐずになっていく。


『寂しいなあ。なんだか遠いところに行っちゃったみたいで……。ごめんね、変なこと言って。あ、もうこんな時間。おやすみなさい』


 俺も「おやすみ愛菜」と返し、通話を切り上げた。


 ベッドに寝転び、スマホの画像フォルダをフリック。

 文化祭。夏祭り。ここ最近のは愛菜と撮った写真が多い。下にスクロールしていくと愛菜の写真は減り、変わりに摩耶花との写真が増えていく。高三から高一へ。スマホの中で時を遡る。

 一枚の写真を選び画面いっぱいに広げる。

 校門の前で入学記念に撮った三人の写真。

 俺はこれから摩耶花に告白する決意のせいかガチガチに固まっている。摩耶花は告白されることなど知らずお気楽な笑顔。

 愛菜は、微笑んではいるがどこか陰がある。撮った時はそんなふうに感じなかったが今ならわかる。

 彼女の思いに気づけなかったあの頃の自分の呑気ぶりには呆れるしかない。

 二年前は三人同じ大学に進学するんだろうなと漠然とした未来があった。

 あどけなさの残る顔立ちが並ぶ十五の春。

 いまの俺たちはカメラの前でどんな顔になるのだろう。



 受験の嵐が月日を掻っ攫っていく。

 俺と愛菜は志望校に合格した。発表の場で感極まり、愛菜と二人抱き合ってしまいそのまま口付けを交わしてしまった、我ながら少しはしゃぎすぎた。

 摩耶花も合格したようだ。バンドの公式アカウントでメンバー二人に挟まれている摩耶花の表情はそこに映る空と同じくらい晴れ渡っていた。



 澄んだ青空を背景に花弁が舞う。

 今年の桜は気が早く、タイミングよく卒業の日とかちあった。

 式典はつつがなく終わり、卒業生たちは各々高校最後の日を送っている。クラスメートたちと卒業旅行の相談をする者、涙ぐむ後輩から門出を祝われている者、卒業証書片手に早々と帰路につく者。


 俺と愛菜は校門前にいる。

 待ち人はすぐにやってきた。

 摩耶花はトレードマークになっている赤い髪を今日だけは黒に戻していた。卒業式の場ではあの髪色はさすがにアウトだったようだ。しかしこの艶のある黒髪ももうずいぶん見ていなかったな。


「摩耶ちゃん、お願いがあるの」


 いつになく真剣な面持ちの愛菜に若干たじろぐ摩耶花。

 意を決して愛菜はポケットからスマホを取り出した。


「一緒に記念写真撮りたいの。入学した時みたいに」


 前日、俺は愛菜に提案してみた。摩耶花とスリーショットを撮ろう、入学時と同じ場所で。

 俺とは互いに秘密を共有し合い納得し別れていけたが、愛菜は何も知らない。このままでは彼女だけ蚊帳の外にしているようでどうにも座りが悪かった。

 あのギターピックのように、形として繋がりを証明できるものを愛菜にもあげたかった。俺たちが仲睦まじくしていると嫉妬に駆られてしまいそうになる彼女に無茶言っているのはわかっている。とどのつまりこれは俺のわがままだ。


「私は、その、いいよ。写真なんて」


 顔を背けて、摩耶花は拒否の意を示す。

 ここまでは想定通りの反応だ。なおも縋るように迫る愛菜を制し、俺はとっておきの一言を言い放つ。


「そんなに俺たちと写真撮るの嫌か。


「嫌いになるわけないでしょ! 撮るのだって別に嫌じゃない……あ」


 激昂した途端、摩耶花は自らがやらかしたことを悟る。事態を見守っていた愛菜は数巡遅れてぱっ、と顔を輝かせた。


「じゃあ摩耶ちゃん、撮ってくれる? 嫌いじゃないなら撮ってくれるよね?」


 言質は取ったとばかりに愛菜はぐいぐい摩耶花と距離を詰める。久しぶりの幼馴染の猛攻に摩耶花はたじたじになっていたが、期待に瞳を煌めかせている愛菜に最終的に観念した。


「……わかった。撮ろ」


「! ありがと! ちょっと撮ってくれる人探してくるね」


 了承の一言を聞くや否や愛菜は小走りで少し離れたところにいる同級生に駆け寄る。


「あの言い方はずるいよ」


 目の前からぼやきが聞こえてきた。アヒル口になった摩耶花は非難めいた目でこちらを見上げている。


「はぁ。こっちだって辛くなるから関わらないようにしてたのにー」


「すまん」

 

「もうー。あの夜綺麗に別れられたのにー。なんか蛇足みたいになっちゃったじゃない」


「確かに別れたけどさ。言ったろ、今生のじゃないって。それこそ俺は、愛菜も、何年だって待ってるよ」


 未来のことなんて誰にもわからない。俺たちは夢を見て、目標に邁進し、日々を過ごしていく。現実と理想の擦り合わせで考えが変わっていくことなんてざらにある。

 生きていく上で希望は必要だ。共にいてくれる家族友達、成し遂げたい願望、叶うかもしれない約束。

 そうして誰もが明日に向かって歩を進めていく。


「十年後には俺たちまた三人で笑い合っているかもだろ」


「十年後でも私の気が変わらずにいたら?」


「その時は二十年後だな」


 こともなげに言い放つと、摩耶花は一つため息をついて、「たはは、しつこいなぁ」と苦笑し、


「好きになってよかった」


 と、言ってのけた。


「俺もだよ」


 負けじと言い返し、二人同時におかしくて吹いた。


 終わった恋は宝箱に入った。俺も摩耶花も墓の下に持っていくものだ。誰にも開けることはできない。


「愛菜には私のこと、ちゃんと秘密だよ」


「わかってるよ」


 愛菜が人を引っ張ってきた。俺たちは顔を見合わせ、幼馴染三人の高校生活に終止符を打つ。


 写真を撮り終えると、摩耶花は愛菜の頭を撫でた。


「じゃ。愛菜、元気でね」


「……うん。摩耶ちゃんごめんね、あの時はきついこと言って」


「愛菜はなんも悪くないよ。悪いのは……浮気なんてした私だから」


「……またね、摩耶ちゃん」


 涙を拭いながらも愛菜はぎゅっと唇を結ぶ。

 摩耶花は俺を見、なにか言おうと口を開こうとしたが、結局なにも言わずに口を閉じた。

 俺も彼女になにか告げたかったが、あいにく言葉が浮かんでこない。

 俺たちはあの夏の夜に別れは済ませている。ただどちらかともなく微笑みを交わす。


 振り返ることなく去っていく摩耶花を見送りながら愛菜がぽつりと呟いた。


「摩耶ちゃん、どこに行くんだっけ」


「武道館だよ」


 愛菜は摩耶花が進む大学のことを聞いてきたのに俺は頓珍漢なことを口走ってしまった。愛菜は一瞬ギョッとするも、


「そっか。摩耶ちゃんたちなら行けるよ」


 そう言って俺の手を取る。

 俺も相手が痛がらないようにその手を握り返す。


 幼馴染三人の青春はこうして終わりを告げた。


 ■



 あれから、摩耶花とは一度も会ってはいない。


『The・Mars』は破竹の勢いでスターダムを駆け上がっている。

 街に繰り出せば摩耶花たちの写真が広告としてそこかしこに目に入り、テレビやネットからは彼女たちの曲が鳴り止まない日はない。デビュー当時の過激な歌詞が自重されたのはまぁやむなしだ。

 目標、いや、夢だったか。かつて摩耶花がそう宣言した通りに、全国を回り、武道館にも立った。


「ね、そろそろ摩耶ちゃんたちが出てくるよ」


 飲み干したスムージーのグラスを洗い流していると、愛菜はテレビを指した。


『さあー今日のゲストは先日武道館に立ったバンド、『The・Mars』の皆さんです!』


 生放送のバラエティ番組。司会のリュウドウコバヤシ通称リュウコバが雛壇にいる芸人たちと拍手とともにゲストを迎えている。

『The・Mars』の面々は十年経っても、バンドメンバーは摩耶花と天野と林道の三人のまま。加入も脱退もなく、完成された三角形は日本の音楽業界を席巻している。

 摩耶花の赤髪も健在だ。


『『悲しいことなんてない』や『インガオーホークソクラエ』など、ヒット曲を連発する皆さんに今日お越しいただき』


『あ、リュウコバさん髪切った?』


『進行にないこと言うのやめてくれないかい!』


 司会を茶化す摩耶花、それを囃し立てるようにゲラゲラ笑っている天野とあらぬ方向を見上げている林道。お茶の間ではお馴染みのフリーダムな芸風は今日も炸裂していた。


 再び愛菜の横に座った俺はリビングに飾られた一枚の写真に目を留める。

 卒業式で撮ったスリーショット。

 校舎を背景に写る俺たち三人の顔は三者三様。


 愛菜は涙を流しながらも陰のない笑顔。


 摩耶花はあの夜俺に見せた、憂いのあるどこか呆れたような微笑み。


 俺はといえば、なにかやり遂げたように得意満面だ。


 過去の俺の瞳がいまの俺、未来に問いかけている気がした。

 十年後、愛菜と支え合っているか。摩耶花とは会っているか。

 残念ながら後者に進展はない。

 摩耶花は高校からずっと連絡先を変えていない。次世代のSNSに移れば交流のあった人には次のアカウントを知らせている。俺と愛菜はプライベートで使われているそこに大学卒業、就職、結婚の報告を入れている。摩耶花にはいらん知らせかも知れないが、どうしても入れておきたかった。向こうからこちらへのアクションはないが、既読はついている。

 なにかしらの反応が欲しくはあった。それでも有名人ゆえにこうしてメディアを通してだが元気な姿が見れる。怪我も病気もないならなによりだ。


「卒業式の写真がどうしたの」


 俺の視線に気づいたのか、愛菜がこちらを覗き込むように見た。


「いや、懐かしくなってさ」


 適当に返事をすると、ふぅんと考え込む。

『The・Mars』のこれまでの軌跡を番組は振り返っている。ライヴでギターを弾く摩耶花の手元にカメラがズームし、俺たちの繋がりの証であるギターピックがちらりと映ると、


「私になにか隠してるでしょ」


 意外にも俺自身驚きはしなかった。いつかは聞かれるのかもしれないと心のどこかで腹を括っていたのかもしれない。こんななんてことのない日にという不意をつかれた思いはあったが。

 横を見ると、愛菜はこちらに顔を向けている。


「ああ」


 俺は、妻の目を見て答えた。

 秘密にしているのは認める。しかしそれを言うのははばかられた。もしも告白するなら摩耶花の了承が得たい。

 リビングにテレビ番組の笑い声がこだまする。体感何秒もなかったはずなのに妙に長い時間が流れているような気がした。


「いいよ。言わなくて」


 愛菜はそう言うとお腹を優しく撫でた。


「この子の父親でいてくれれば、それでいい。ね、美由紀」


 慈しむように愛菜はお腹に語りかける。母親の顔になった妻は少し強張った俺の手をそっと取り、お腹に添えた。もうすぐ生まれてくる命の脈動は俺に父親としての自覚を促す。


「ごめん、言えなくて」


「いいよ。どうせ私のためを思ってとかでしょ」


 愛菜はテレビの視聴に目を戻す。俺もそれに習った。番組では振り返りが終わり、リュウコバが熱く『The・Mars』について語っている。摩耶花たちは司会の熱弁をはいはいとおざなりに対応していた。バンドマンたちは明らかに引き気味になっている。ベーシストに至っては薄らと船を漕ぎ始めていた。

 ところで、とリュウコバ。


『『The・Mars』さんたちが歌う前にあるじゃないですかあのざーまぁー、てやつ』


 あーありますねー、と頷く摩耶花たち。


『僕すごいこと思いついたんですけどね。あれって『The・Mars』さんたちの、なんつってなんつってぇ』


「……」


 俺と愛菜。


『…………』


 雛壇にいる芸人たちとスタジオの空気。


 摩耶花たちのアドリブに対抗するつもりだったのか、おそらくこれは番組の進行には組み込まれていなかっただろう。両手の人差し指でリュウコバは摩耶花たちを指し、はしゃいでいたが数秒で世界が凍っていることに気づき引き攣った笑みになった。


 だが。


『イイ……』『アリだな』『それですよ!』


 林道が、天野が、摩耶花が。

 三人の女たちは顔を見合わせ、なんとリュウコバのしょうもない発言を肯定し始めた。


『そうですよ、『The・Mars』の生き様! あーなんで十年もやってんのにこんなおいしいのスルーしちゃってたんだろー、ありがとリュウコバさん』


『え?』


『おーリュウコバおめえちったあマシなこと言うじゃねえかこの三流芸人が』


『三りゅ、え?』


 テンションを上げる摩耶花と天野にリュウコバは狼狽えていた。俺もどういう気持ちで番組を見ていいのかわからなくなっている。林道は高速で首を縦に振っていた。あいつが一番わからん。


『次の十年の目標ができました! 私たち『The・Mars』の生き様を世界に届けて行きます!』


 ギターを弾く真似をしながら摩耶花は立ち上がり、カメラに向かって宣言した。


『君ら瞬間瞬間で生きすぎじゃない!?』


 リュウコバのツッコミにようやくスタジオが笑いに包まれた。我が家でもくすりと愛菜が口元を綻ばせた。


「摩耶ちゃんたら。もうわけわかんない」


 テレビで大暴れしている幼馴染に微笑んでいた愛菜の瞳が見開かれた。

 お腹に視線を落とす。


「あ、いま蹴ったかも」


 ■


 摩耶花には愛菜の妊娠はまだ報告していない。

 だが、後に知ったことだが、俺の母親が愛菜が安定期に入ったことを摩耶花母に伝えていたらしい。ほんとにおしゃべりな親だ。摩耶花にも知れ渡っているのは確実だ。

 それが関係しているのかもしれない。


 出産当日。陣痛が始まり俺は愛菜と共に病院に向かった。待合室で妻と子の無事を祈る最中、スマホが震えた。

『The・Mars』の公式動画アカウントの通知。

 クリックすると、彼女たちの新曲が発表されていた。

 摩耶花のメッセージ動画が曲の前に流れる。


『生きて、死ぬまではほとんど喜劇です。

 鳥が飛びます、地に降ります。

 お化け屋敷に入ります、出ます。

 ゼロから始まり、ゼロに戻る。

 ただそれだけ。

 てんやわんやの日々を送る私たちの日常は、俯瞰すればコメディです。

 でも人生のある一点だけはシリアスです。非常に重大な出来事。笑っている場合ではないことがあります。


 生まれ落ちた時です。


 産声を上げてこの世に生を受けたあの瞬間、光に怯え身を縮こませるしかない無防備な肌。


 人生最初にして最大のシリアスに立ち向かう全ての生命のためにこの曲を作りました。


『Welcome to this harsh yet wonderful world』!!!』


 赤ん坊の産声が聞こえる。

 愛菜が産まれた我が子に微笑む。

 『The・Mars』は高らかに祝福の音楽を鳴らす。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

The Mars タイヘイヨー @youheita

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ