後編 Big Girls Don't Cry


 【注意喚起】

 この章では性暴力・性的被害を扱っています。フラッシュバックなど不快な経験をともなう可能性もあるのでお気を付けください。


 ■


「うん、私も好き。これからは恋人だね」


 高校の入学式の帰り。

 夕暮れに染まる公園で俺は向かい合った少女に恋人として付き合ってほしいと想いを告げた。


 恋心を自覚したのは中学時代。ギターの練習で指を怪我した彼女を手当しようとした時。

 絆創膏を貼ろうと互いの体が近づき、目と目が合う。すぐに顔を赤らめ俯く摩耶花。俺も同じ反応をしてしまった。彼女も同じ気持ちなのは長い付き合いから察せられる。告白は絶対成功すると確信した。


 いまは二人きり。入学式を済ませ、記念写真を撮り終えると愛菜は用事があるからと早々に走り去っていった。普段から三人一緒にいるせいか、俺と摩耶花の距離感が徐々に狭まっていくのを彼女は勘づいたのだろう。気を使わせてしまったのなら少し申し訳なく思う。


「でももうちょっとシチュエーションがあるんじゃないかなー?」


 唇を尖らせる摩耶花。少子化で遊ぶ子供が減ったせいかあちこちの草が伸び放題、遊具にもガタが来て明らかに公園の整備が行き届いていない。年々みすぼらしくなっていくが、ここには小さい頃からの思い入れがある。


「告白するなら初めて会った場所にしたかったんだよ」


 摩耶花と出会ったのは4歳の頃。いわゆる公園デビューで、どちらからともなく砂場でじゃれあい、疲れ果てるまでおいかけっこをした。幼稚園から知り合った愛菜も加わり、三人で親たちが雑談している間、はしゃぎ回った。

 新しい関係を築くならまずここからにしたかった。


「そっかー。まあ私も大事な話するならここ選んじゃうかな」


 周りを見渡し、彼女はこちらに振り返る。


「なにかあったら、すぐ飛んできてね。友達でも幼馴染でもなく、恋人として」


 ■


 夜ともなれば多少は過ごしやすい。

 ウインドブレーカーを羽織り、走る。到着するのに十五分もかからなかった。

 朝昼に比べれば大人しくなった蝉の鳴き声が公園内に響く。弱々しい街灯が照らす公園の様は一年と少し前のまま。遊具の錆が目立つのも変わらずだ。


 その公園には二人乗りのブランコが設置されている。赤髪の女はふらふらとブランコに揺られていた。バンドTシャツの上にパーカー。格好から見るにライヴ後に帰宅していないようだ。

 近づいてくる俺を見つけると、物憂げな顔から一転よく知った笑みを浮かべた。


「ごめんね、こんな夜遅くに」


 まったくだ。この辺りの治安は良い方だが絶対安全なんて保証はない。


「あ、ライヴどうだった?」


「俺がいたの気づいていたのか」


「うん。てかつけてたのも知ってたよ。家に寄った辺りから」


 所詮は素人の尾行だった。

 観念し、俺は今日のライヴの感想を素直に口にした。


「月並みな言い方しか出来んけど、すごかった。思い出すとまたすぐに気持ちが昂っちまう」


「ありがと」


 と、摩耶花は笑顔をこぼす。

 およそ四ヶ月ぶりの会話。多少はあった不信感が弱まり、恋人同志だった頃の気安い空気が俺たち二人の間に満ちる。髪色を変えても、舞台で輝いても、彼女は俺のよく知っている摩耶花だった。


 俺はもう一つのブランコに腰を下ろす。こちらを見上げていた摩耶花は地を蹴りブランコを揺らす。


「今回は大成功だったね、てさっきまで打ち上げだったんだ。SNSの反応も上々だったし」


 これ幸いにと俺はバンド、メンバーについても根掘り葉掘り聞き出してみた。摩耶花の近況、そして「The・Mars」なるバンドに興味が尽きない。


 バンドのメンバー二人は大学生だった。一ヶ月前俺たちとの交友を断ち、先ほどのライヴハウスに入り浸っているところを勧誘されたそうだ。


「ドラムが天野彰良あまねあきらさん。ベースが林道凛音りんどうりんねさん。で、三人の名前の頭文字を一つずつ取ってね」


 摩耶花のM。

 彰良のA。

 凛音のR。


『The・Mars』。


「初対面から二人とは気が合ってさ。ほんとはギターだけやるはずがあれよあれよと持ち上げられてボーカルもやることになっちゃった。私チョロすぎか」


 たはは、と笑いながら次第にその顔が曇ってゆく。ブランコの揺れがゆっくりと収まり、二本の鎖がきぃと鈍い音を上げる。


「ほんとチョロいよね私。……だからあんな事になっちゃった」


 ——もし、あの子があんたに悩みか何か打ち明けようとしたら……その時はちゃんと聞いてあげな。


 数時間前に聞いた言葉で、意を決する。


「なんで浮気なんてしたんだ。なにがあったんだ。なんであんな男に……」


 密会していた二人の姿がちらつき、呼吸が苦しくなった。奥底に閉まっていた記憶の蓋が開き、流れ込んだドス黒い感情で情緒が狂う。表情に出さないように努めたがすぐさま限界ギリギリになった。踏ん張りどころだ。摩耶花だって見るからに辛そうな顔をしている。


「……信じてくれるかな」


「信じるよ」


 被せ気味に言うと摩耶花は息を呑んだ。


 我ながら馬鹿だという自覚はある。

 浮気した女の言うことを信じるなんて普通じゃない。

 彼女への不信感はちょっとやそっとでは拭いきれないのは事実だ。

 しかし、あの謝罪後に続くはずだった言葉を遮り、関係を絶った俺に残ったのは後悔と未練だった。

 せめて彼女の口からなにがあったのか聞かないことには前には進めない。


「その話をするために呼んだんじゃないのか。いいから聞かせてくれ。なにがあったのか」


 彼女は重い口を開く。


 ■


 事の起こりは今年2月の中頃。


 バンドの練習でスタジオを借り、終わった後はいつも通り解散となるはずが例の先輩に二人きりで食事に誘われた。

 先輩の黒い噂は有名だったが、息の合った演奏で気が緩んでいた。ちょっとだけならと店に入り、料理に手をつける。青い色のドリンクに警戒する知識もなく。


 会話に花を咲かせていたのを最後に摩耶花の記憶は途切れ、次に目を覚ましたのは先輩の自宅だった。


 ベッドの上。乱れた服。ひりひりと痛む股。


 何をされたかは明白だった。

 先輩はいままで見せたことのない下卑た笑みでスマホをかざす。録画が再生され、映し出されたのは蕩けた自分の顔。霰もない格好で快感に喘ぐ自身の姿に摩耶花は歯の根が合わなくなった。


「誰かに言ってみろ。おまえの痴態を晒すぞ」


 先輩は動画をネットにばらまくと脅しに来た。

 元から摩耶花の身体が目当てだったのだ。覆い被さる男になんの抵抗もできず、されるがまま無情に時は過ぎていった。


「最初は警察に行こうと思ったんだよ。でもあいつはまだ未成年。罪は軽く済んでしまうし報復も怖い」


 どうにかしなきゃ。摩耶花は事態解決のために先輩の身の回りを調べた。

 光明はすぐに見えた。

 先輩はクスリの売買人だった。


「あいつは4月にすぐ成人になる。その時までの我慢と自分に言い聞かせた」


 摩耶花の復讐はシンプルだった。

 奴が成人後に薬物の違法所持、売買している現場を警察に取り押さえさせる。


 信用を得るため、自ら進んで肉体関係になった。快楽に堕ちたていでしなを作れば男はすぐに鼻の下を伸ばした。行為の後彼が寝ている間に身辺を探る。

 摩耶花のように脅迫され身体を弄ばれた女性は他にも何人かいたらしい。PCに保存された裸体の画像にはらわたが煮えくりかえる思いだった。この女の敵に法の制裁を受けさせなければならない。幸いというべきか摩耶花も他の女性も薬漬けにされることはなかった。本人はあくまで金欲しさでクスリの売買に手を出したらしい。使用した形跡は見つからなかった。

 調べに調べ尽くし関わっている違法薬物売買のスケジュールを把握。成人した翌日にでかい所に売り捌くらしい。好都合だ。それまではふしだらな女を演じ切ってみせる。


「でも、あの日見られていたんだね」


 俺と愛菜に。


 順調だった計画に誤算が生じた。


 タイムリミットは残り一ヶ月。

 復讐をより確実なものにするためにはこの男との関係をいま断つわけにはいかなかった。

 もう止まることはできない。


 俺たちに浮気現場を目撃されたことを摩耶花は先輩に告げた。二人は交際関係、というよりは身体の関係になったことをオープンにした。気兼ねなく付き合うことで男はすっかり気を許した。


「あんな男より俺を選ぶのは当たり前だよな」


 あの日、教室に現れた先輩は摩耶花にそう囁いた。彼女の逆鱗に触れてしまったことに気づかないまま、公然と肩に手を回してきた。奈落の底に叩き落としてやる。有頂天になっている男を摩耶花は内心馬鹿にしていた。

 教室から去る際、俺をちらりと一瞥すると無意識に唇が動いた。ごめん。絶望し立ち尽くす俺と失望の眼差しを送る愛菜。その日以降、どちらの顔も見れなかった。

 摩耶花は涙をこらえながら運命の日まで先輩と身体を重ね続けた。


 先輩が夜の街で売買をしていた時、摩耶花は後にステージに上がるライヴハウスでバイトをしていた。休憩に入ると、時間を確認。警察には既に匿名の通報を済ませていた。ガセではないと先輩の部屋から盗み取ったクスリの一部などを送りつけて。元から先輩は警察からマークされていたらしい、摩耶花の場に有利なカードが揃った。

 今頃お縄に着いた頃か。あらかじめ自分と先輩とはあくまで身体の関係でしかない、クスリについては潔白を証明できる準備は済ませている。調査が進めば、犯されたことを追求されるかもしれないだろうが、それは覚悟の上だ。


 ざまあみろ。乾いた笑いが休憩室の天井に消えた。


 ■


「…………」


 重すぎる告白に理解が追いつかなかった。


 摩耶花が犯されたこと。

 報復のために自ら先輩の女になったこと。

 クスリの売買を利用し、先輩を陥れたこと。


 話の最中、摩耶花を嵌めた男に対する怒りで震えが止まらなかった。が、逆に相手を嵌めた摩耶花の周到な復讐計画に呆気に取られてもいた。

 感情がないまぜになり情報量の多さに混乱している俺をよそに摩耶花はパーカーのポケットをまさぐり、「あいつ馬鹿で助かったよ」とスマホを取り出すとこちらに向けた。

 液晶には件の先輩が電話でやりとりしている姿があった。隠し撮りらしくふらふらと画面は安定していないが充分に音は拾えている。


『ああ上物上物。俺は使ったことはないがな』


 どうやらクスリの商談をしているらしい。

 摩耶花は寝てるふりをして撮ったようだ。

 昔から行動力があるのは知っていたが、まさかここまでやるとは。


 画面をフリック。違う日付の動画に切り替わる。


『やっぱ女は脅すに限るわ。あんま濡れねえけど』


「警察にはこれよりもっと確実性のあるのを送っておいたんだ。他には」


「いやもういい、信じるよ」


 さすがにここまでやられれば信じざるを得ないだろ。


 頭を抱えたくなったが、心配なのは摩耶花だ。まさかそんな目に遭っていたとは……。


「なんで俺たちに言ってくれなかった」


「……知られるのが怖かったのもあるし、二人を巻き込まないようにしたかった。元はといえば、私の軽率さが招いた事だし。それにあの先輩、思っていた以上に危ない橋渡っていたんだ。二人になにかあったらと思うと」


 目を伏せる摩耶花。


「でも相談すべきだったよね。ごめん。あの時はあいつに復讐することしか考えてなくて」


 しばらく沈黙が二人の間に流れた。

 夏の終わりを象徴するように蝉の鳴き声が徐々に弱くなっていく。


「このことは愛菜には言わないで」


 耳を疑った。


「なんでだよ。本当のこと話せば俺たちまた」


 幼馴染。


 元通りの関係。


 恋人?


 いや、いまの俺には愛菜がいる。ヨリを戻すなんてできない。


 でも愛菜は?


 すべてを知ったあいつは、きっと俺と摩耶花を慮る。


 自分より他人の幸せを優先してしまう彼女の美点が重くのしかかる。


「また私たちを応援する側に戻る。わかるよ。幼馴染で親友だもん。絶対に私のことを思って身を引く。そういう子だよ」


 少し鼻声になりつつ摩耶花は続ける。


「だから、ここで言ったことは全部秘密。私は彼氏を裏切って犯罪者に靡いたバカ女。愛菜だってそんな女にあなたを譲らない。二人は私に気にせず恋人同士でいて。大丈夫。いまの私には自分の居場所がある」


『The・Mars』


 彼女のバンド。ひとたび歌えば、観客と一つの世界を共有し合う、音楽が繋げた仲間。


「彰良さんと凛音さんが作ってくれたこのバンドで全国ツアー、武道館に行くのがいまの私の目標、ううん、夢なの」


 摩耶花は鼻水をすすり、一呼吸入れる。


「私はもう一人じゃないから大丈夫。あなたは愛菜のそばにいてあげて。二人さ、あんなにお似合いだったんだね」


 真実を知り、動揺しつつも俺は立ち上がり摩耶花に歩み寄る。


「それでも、また、幼馴染としての関係に戻れないのか。愛菜だって、おまえのこと心配しているんだぞ」


 謝罪の時、愛菜は口が過ぎたことを、俺は何も言えなかったのを後悔していることをはっきり言った。


 摩耶花はブランコから立ち上がり、


「二人が気にしていたことはわかってる。でもあの時は、あれで良かったんだと思うんだ」


 摩耶花の言うことが俺にはわからなかった。


「私さ、愛菜のこと改めてすごいなぁーて尊敬する。だって好きな人の幸せを優先して自分から身を引いて、そんな私にも親友として接してくれていたんだよ、相当人間できてなきゃだよ」


 摩耶花は空を見上げた。


「私だったら無理。あなたと愛菜が付き合っているのにいままで通りに友達、幼馴染やっていこうなんてできない。きっと、いつか愛菜に八つ当たりする。醜い嫉妬しかできなくなる。二人にそんな自分見てほしくない」


 彼女の頬に涙が一筋。


「だから、あの謝罪の時、言うべきだったことを言うね。

 いままでごめんなさい。傷つけてごめんなさい。私と別れてください。

 愛菜と幸せにね」


 こちらに向き直り、バサっと赤い髪が垂れる。


「どの道、あの男が逮捕されたら私きちんと別れるつもりだったの。だって、身体を差し出したのは事実だし。こんな汚れた女嫌でしょ」


「嫌なわけあるか!!!」


 自分でも驚くほどバカでかい声になった。

 そういえば、俺たちちゃんと別れ話はしていなかったな。ふと頭の片隅で思った。


 顔を上げる摩耶花。その瞳からはとめどなく涙が溢れている。


「私が、嫌なんだよ。ごめん。こんな、汚く、なっちゃ、ぢゃって。っふ、あんな奴にほいほい、つい、て、いっ、ひぐ、いっちゃってごべ、ごめんなざい」


 パーカーの袖で涙を拭い、鼻水を啜る摩耶花。

 俺は無力感に苛まれた。

 小さい頃からずっと知っていた彼女をなんで信じてやれなかったんだ。

 犯された日からなら様子が変なことになんで気付いてやれなかったんだ。

 叱られた子供のように泣きじゃくる摩耶花を前にもうどうしようもないたらればが頭に無限に湧いてくる。

 なにか、なにか彼女の心を救えるようなことは俺にできないのか。


「っふ。今日呼んだのはさ、別れ話だけじゃないんだ」


「え」


 落ち着くと摩耶花はまたポケットをまさぐり、それをこちらに向けて突き出す。


 見覚えのある小包みだった。当然だ。これを買ったのは俺。交際一周年の記念にと愛菜と相談して選んだ品だ。


「お母さんから聞いたよ。私へのプレゼントだって」


 口止めしていたはずなのに。俺の親は口に鍵をかけられないらしい。


「あいつが捕まった次の日にね、帰ったらお母さんが渡してくれたの。うちのお母さん、その日まで貰ったプレゼントのことうっかり忘れていたんだよ。で、部屋に戻って開けたらさ、もう、涙で前見えなくなっちゃった、たはは」


 包みからそれを取り出す。


 涙の雫のような形状のギターピック。ティアドロップ型というやつだ。


 最初はネックレスなどの装飾品にしようとしたが、愛菜から待ったがかかった。値段が張ったものは摩耶花だと逆に萎縮してしまう、とのこと。控えめにかつ摩耶花がよく使うものとしてピックの中では上等なものを選んだ。「摩耶ちゃんよく、ピック無くしたー、てぼやいてるから。こうやってプレゼントとしたのならあの子もそうそう無くさないでしょ」と愛菜は少し意地悪に微笑んでみせた。


「ああ私よく無くすから。嬉しかった。私のことよくわかってくれてるなー、て。愛菜と選んでくれたんでしょ」


「……そうだよ。よくわかったな」


「たはは、親友だからね」


 今日ライヴで見せたのと比ではない、夜闇の中でも輝く笑顔を摩耶花は見せた。だが、はっきりと残った涙の跡も相まって俺はまたいたたまれない思いになった。


 だからさ、と摩耶花はピックを包みに戻し再度俺に突き出す。


「返す。私なんかが受け取っちゃいけないんだ」


 俺の前にある包みを持った華奢な手。この指が今日、ホールを沸かせ、観客の魂を震わせるギターを奏でた。


「いや、貰ってくれよ」


「でも」


「いいから」


 そう言って俺は彼女の手を取る。指はカチカチに硬い。中学の頃、ギターを手にしてから毎日練習して、皮膚が擦り切れ、マメができたりする度に絆創膏を貼ってきた。摩耶花は自分で手当てをせずいつも俺に貼って貼ってとせがんだ。仕方ないとぼやきながら俺は彼女の言うとおりにした。絆創膏を巻きつける間、いつもうるさい摩耶花は黙ったまま。いつだったか「なんか指輪をはめてるみたいだね」と摩耶花が冗談めかして言った。俺がすっとんきょうな声を上げると、たははと摩耶花は笑った。お互いに顔を真っ赤にして。


 地面に水滴がぽつんと落ちた。

 視界がぼやけ、頬を伝う温かい感触で、ああ俺はいま泣いているんだな、とどこか他人事みたいに感じた。恋人一人守ってやれなかった、信じることができなかったくせに。涙を流す資格なんてないくせに。


「なんで、こんなことになったんだろうな」


 こちらの顔を覗きこむ摩耶花もまた泣き出しそうだ。

 俺の手を包み込むように摩耶花は指を絡める。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」


 うわごとのように呟くたびに彼女への罪悪感が募る。

 謝らなければいけないのは俺もだった。


「気づいてやれなくてごめん。守って、やれなくて、信、じ、て、やれなくて!」


 絞るように声を出した。

 摩耶花もまた堰が切れたように泣き出した。

 二人して立っていられなくなり、地面にしゃがむ。

 俺は嗚咽をもらし、摩耶花はなおも謝罪の言葉を繰り出している。


 どれくらいそんな状態でいただろうか。

 枯れるくらいに涙を流した。人生でこんなに泣いたのは赤ん坊時代除けば生まれて初めてだ。でも摩耶花はきっともっと泣いていたのだろう、俺の知らないところで。

 二人の手は重なったまま。


「摩耶花。やっぱそれはおまえが持っていてくれ」


「駄目だよ。受け取れないよ」


 なおも摩耶花は強情なまま。

 華奢ながらもカチカチの指はいま震えている。俺は安心させるように手にぎゅっと力を込めた。


「それはもうおまえのだよ、受け取った上で使うなり捨てるなりおまえの好きにしたらいい」


「捨てたりなんかしないよ! 一生大事にするもん!」


 駄々を捏ねるような摩耶花に、少し吹いた。「なにがおかしいのよー」と拗ねる彼女に昔些細なことで喧嘩をした際の面影を見た。その時は俺が先に折れたんだったな。なら、今回も……。


「じゃあ大事に持っていてくれ」


 そうしたら、と続けて、


「俺も、安心してきちんと別れられる。愛菜にはおまえから聞いたこと言わないでおく」


 彼女が欲していただろう言葉を言う。

 子供の頃に戻った顔がくしゃっと歪む。

 そんな顔しないでくれよ。決心が鈍るだろ。


「…………」


 そのまま摩耶花は俯いた。

 公園の時計に目を向けると日を跨いでいた。蝉が鳴く。うるさい、夏なんて早く終われ。


 わかった、とようやく摩耶花は包みを持った手を引っ込めた。そんなに長くない逡巡だったはずなのに、やたら時間が間延びした感覚があった。

 二人同時に立ち上がる。摩耶花の目はぼろぼろに泣き腫らしていた。俺も同様に酷いことになっているのだろう。


 先ほどまでとは違う、屹然とした顔で、


「プレゼント大事にする。そっちも愛菜のこと大切にしてね」


「ああ。もちろん」


 包みをポケットに戻しながら、摩耶花はスマホを取り出し、なにやら操作している。


「彰良さんたちに連絡したの。話が済んだら、家まで送るって。いまこっちに車で来るよ」


「家までなら俺が」


「んーん。ごめん。そういう気分じゃないの」


「気分て、どんな」


「説明が難しい」


 なんだそりゃ。


「あと車運転してる凛音さん、男は車に乗せない主義だから送ってあげられない、ごめんね」


 男は車に乗せない主義なんてものがあるのにびっくりだよ。


「いいよ別に。親だってぐーすか寝て心配していないだろうし、あ、おまえちゃんと家に遅くなるとか言っといたか?」


「ライヴの打ち上げで遅くなるけど、バンド仲間が送ってくれるからってちゃんとメッセしといたよ」


 五分もしないうちに公園の入り口に青い車が現れた。けたたましくクラクションが鳴る。


「摩耶花ー、もーいーのかー」


 助手席から数時間前に見た顔。ドラムの金髪だ。運転席にはベースの女がいる。


「はーい、もーいーでーす。あざまーす」


 じゃあね、と摩耶花は車に向かって走り出す。去り際、目尻にまた涙が溢れ出そうになっていたのを俺は見逃さなかった。


 これでお別れ。

 明日からは幼馴染だった、ただのクラスメイト。

 俺と愛菜から距離を置き、今日学校でそうしたように一匹狼で過ごしていくのだろう。

 三年になればクラスも別れ話す機会も無くなっていくこともある。仲の良かった中学時代の友達なんてもうほとんど会っていない。卒業し、進路が違えばいよいよ顔を合わすことなんてあるかどうか。


「なあー、摩耶花ー」


 ぴたりと摩耶花は足を止める。悩んだのか少し間があったものの、結局こちらに振り返ってくれた。


「ちょっとひっでえーこと言うんだけどさー」


「もったいぶらずに言ってよー、なーにー」


 手をメガホンにして摩耶花は返事を待っている。


「よく考えたら、別に今生の別れってわけじゃないだろ。いつか、来年、五年後、十年後、気が変わったらまた俺たちと一緒にどこか遊びに行こう」


 俺と愛菜といることに耐えられないという彼女にずいぶんとまあ酷なことを言っているのは理解している。


「気が変わったら。気が変わったらでいいんだ。俺はずっと待ってる。愛菜だってなにも知らなくてもおまえと仲直りしたいはずだよ、それおまえが一番よく知ってるだろー」


 親友なんだから。

 だらりと手を伸ばし、摩耶花は俺の話に耳を傾けていた。


「連絡先変わったら、まあ、親伝えればいいか。俺たちのことなんて関係なくあの母親二人はずっと仲良いだろうし」


 とにかく、と俺は声を張り上げる。


「どんだけ執念深いんだ気持ち悪いって思うだろうけど、学校卒業してからも俺はまたおまえに会いたい。できればまた三人で!」


 摩耶花はもう泣かなかった。微笑んではいるがほんのりと憂いに満ちていて、呆れているといったほうがいいかもしれない、なんとも味のある顔をしていた。


「わかったー、ないと思うけど気が変わったらねー」


 じゃあ、と手を振ってきた。


「さよなら」


「さよならなんてやめろ。またな!」


 手を振り返すと、


「うん、また!」


 幼馴染で元カノは別れを告げ、新しくできた仲間たちの車に乗り込む。

 去っていくバンドマンたちを俺は静かに見送った。


 はぁ、とスマホを取り出す。

 一時間ほど前に愛菜から一件の通知。

 おやすみのメッセだ。交際してからの習慣になっている。

 いま無性に愛菜の声が聞きたくなったが、もう彼女も就寝中だ。

 ため息をつき、帰路につく。

 今日は色々ありすぎた。

 こんな忙しない一日、一生忘れることはない。

 

 ■


 あれから、十年の月日が流れた。

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