第5話

 高校のHR教室は、小中学校とは違って、教員が仕事をできるようにはなっていない。他の学校は知らないが、少なくともK泉女学園はそうである。教員はほとんど学年の職員室か、教科ごとの職員室で仕事をする。

 放課後、私はわざわざHR教室に仕事を持ち込むことにした。

 朽縄くちなわはいつも放課後にやってくる。他の先生たちに話を聞かれるわけにはいかない。妙な噂でも立ったら堪ったものではない。かといって、部活の監督をするのも、部員たちの不安を煽る結果になるだろう。

 あの刑事のことだから所構わず話しかけてくるに違いない。はじめて学校に来たときも、待っていろと言ったのに話しかけてきたし、昨日などは私が疲れているのをまるで無視していた。朽縄が捜査にやってきて、まだ三日目だというのに、すでにこれだけ印象が悪くなっている。

 使いづらい教卓で仕事をしている自分を思うと、なぜあんなやつのせいでと業腹で仕方ない。

 一通り、持ってきた仕事を終えるとチャイムが鳴った。

 部活動が終わる時間だ。

 息を吐いて、肩を回す。どうしても姿勢が悪くなってやりづらい。朽縄が捜査を終えるまでの我慢だと自分に言い聞かせていて、ふと、気付いた。

 今、朽縄に来られるのは困る。

「どうも、先生。お仕事中でしたか」

 黒いスーツに、不吉で不気味な顔をした男が教室にいるのは、妙に浮いていた。

「学校にいるときはいつだって仕事です」

 部活時間中に来るのでも、あるいは下校時刻を過ぎたあたりに来るのでも問題なかった。今この時間に来ることだけが、学校のどこにいてもダメなタイミングだったのだ。

 ふ、と視界の端に影が映った。見れば教室の奥の扉から、片桐が入ってきてこちらを伺っていた。

 鍵の返却は、顧問に返し、顧問がキーケースに保管する。

 部の様子がわかるからと好都合に思っていたルールが、今だけは煩わしい。生徒には朽縄と話しているところを見られたくなかった。大切な予選が目前に迫ったバスケ部員には特に気を付けたかった。

「ああ、片桐さん、鍵を返しにきたのね」

 話を差し向けると、片桐はこちらまでやってきて、鍵を差し出そうと手を伸ばした。

「ところで先生、倉井郁奈ふみなさんが亡くなった夜はどちらにいらしたんですか」

 朽縄が唐突に口を挟んできて、片桐の手が途中で止まる。

 怒鳴りたくなった。朽縄は生徒がいるのも構わず捜査をしようとしている。

「少し待っていてください」

 苛々した気分を抑えて、こちらから手を伸ばして鍵をもぎとった。

「片桐さん、今日はもういいから帰りなさい」

 部の様子についてはまた明日聞けばいい。とにかく今は朽縄のことを終わらせたい。

「それで先生、当日の夜はどこにいらしたんです」

 催促するような口ぶりに腹が立つ。

「先週、お話しましたが」

「いえ、もう一度お話していただきたいんです。申し訳ありませんね」

 朽縄は、眉をハの字にして謝るが、いかにも芝居がかっていてわざとらしい。

「部屋で寝ていました。でも、それを証明することはできません」

 帰宅したら外に出る用事なんてそうそうない。夜中に出かける用事ならなおさらだ。だから、近所の人に気付かれるわけもないし、そもそも私だってアパートの他の住人が家にいるかどうかなんて気にしたことがない。いわゆるアリバイの確認をしたいのだろうが、そんなものほとんどの人間が持っていないだろう。わざわざアリバイを作るのはそれこそ推理小説の犯人くらいなものだ。

 そこで、片桐がまだいるのに気付いた。

「片桐さん? どうしたの、帰りなさい」

「困ったことに近隣にお住まいの方たちは先生がいらっしゃったかどうかわからないそうなんです」

 横から朽縄が話を進める。この状況を見て、それでも話を続けるのか。

「ちょっと待ってください」

 片桐は無表情でこちらを眺めているだけで、帰るそぶりがまるでない。

「部活のことは明日でいいから、もう下校時刻を過ぎているし、なにか用事がないなら帰りなさい」

 片桐からの返答はない。明らかに片桐の様子がおかしい。

 片桐はなにがしたいのか。思い浮かぶのは昨日、片桐が辛いと吐露とろしたことだ。スクールカウンセラーは今日は来ていない。もしかするとそのことでまたなにか話したいことがあるのだろうか。

「なにか、話したいことがあるの」

 尋ねても、返事はない。まるで映画でも観ているように、片桐は私と朽縄を眺めているだけだった。

 違う、のだろうか。違うのかもしれない。それじゃあ、いったい片桐はどうしてここに居座るのだろうか。

「それで、こちらも確認なのですが」

 考えようとすると、また朽縄に邪魔をされる。

「また確認なの!」

「必要なことですから」

「そういうのは、捜査資料かなにかに書いてあるでしょう! いい加減にしつこいですよ」

「病院だと何度も名前を確認されるでしょう。ああしたものだと考えてください。それに――」

 朽縄の、よどんだ泥沼のような瞳が、私の目を捉えた。

「聞いてみたら、前と話していることが違った、なんてこともありますから」

 蛇に睨まれた蛙みたいに、身体が硬直して言葉に詰まった。

 私がなにも言い返せないうちに、さらに朽縄はその確認をする。

「それで、ですね。先生、倉井郁奈さんとはどんなご関係だったんです」

 あまりにも見ればわかることを聞いてきた。

 けれども、私の心臓はバクバクと強く鼓動し始めた。

 聞いてみたら、前と話していることが違ったなんてこともある。私の目を見て、朽縄は言ったのだ。そこでさらに郁奈との関係を尋ねてきた。

 もしかして、朽縄は私と郁奈の関係に気付いているのではないか。

 そんなバカな。あるわけがない。私と郁奈の関係は誰にも知られているわけがない。そうでなければ、私がまだ教員として働けているわけがない。

 頭ではわかっているのに、心がまったく納得していない。

「先生、大丈夫ですか。急に汗が――」

 朽縄の言葉で我に返った。汗がだらりと顎を伝う感覚が気持ち悪い。

 恋人だったと正直に話すべきだろうか。話す代わりに内密にして欲しいとお願いすれば聞いてもらえるだろうか。

 いや、まずい。少なくとも今ここで話すことはできない。

「あの、刑事さん、場所を変えましょう」

 仕事道具一式を持って移動しようとするが、朽縄が行く手を遮る。

「いえいえ、そんな大袈裟なことじゃありません。ちょっとした確認ですから。すぐに終わりますから」

 そういう話じゃない!

 けれども、ここで食い下がったら、それはそれでなにかがあると示すことになってしまう。

 どうすることもできない。

 横目で、片桐がこちらを見つめているのを確認する。

 仮に朽縄が内密にしてくれると約束してくれたとしても、ここに片桐がいたのでは意味がない。どれだけ信頼を築いてきたといっても教員と生徒という関係性には違いない。郁奈と付き合っていたということは、むしろその信頼を裏切ることでもある。生徒をそうした目で見ているということなのだから。なにより、同性同士の恋愛で、その上歳の差がある。嫌悪感のある人間もいるはずだ。ここで話せば、教師としての人生が終わってしまう。

 片桐はなぜだかここを動くつもりがない。だからこちらから場所を変えたかったのだが、今度は朽縄がそれを許してくれない。

「それで、先生、倉井郁奈さんとはどういった関係だったのですか」

「教師と生徒です。倉井さんのクラス担任で、部活動の顧問でした」

 偽証、というわけではない。嘘ではないからだ。けれども明らかに言わなければいけないことを私は言わなかった。

 締め付けられるような感覚だった。なにか答えるたびに、身体になにかが巻き付いて身動きができなくなるようだった。

 そうか。これは罠なのだ。

 考えてみれば、朽縄は私が嫌がるタイミングに現れた。まだ彼が捜査にやってきて三日目だが、初日は部活中、二日目は私がへとへとに疲れているタイミングにわざわざやってきた。そして今日は、生徒の目の前でこんな尋問めいたことを始めた。鍵の返却ルールを知っていてそこを狙ってやってきたとしか思えない。

 なにが目的で朽縄がそんなことをするのかというと、昨日のことを思い出す。あれだけへとへとだった私に、辟易するような質問を浴びせかけてボロが出るように差し向ける。今も朽縄はそうやって私を追い込んでいる。

 じゃあ、そうやって私を追い込んでなにをしたいのか。

 朽縄が学校に捜査にやってきた理由は、郁奈が自殺をする理由を見つけられなかったからだ。そこで、幽霊騒ぎの話を聞いてバスケ部にやってきた。けれども朽縄は幽霊騒ぎをはじめから疑っていたのだろう。私を攻めることで、昨日幽霊騒ぎが嘘だったと確信したはずだ。

 ――困ったことに近隣にお住まいの方たちは先生がいらっしゃったかどうかわからないそうなんです。

 最前、朽縄が言っていたことを思い出した。

 なぜ、この男はわざわざ私の在宅の証人を探していたのだろうか。

 まさか、本当に私が郁奈の死に関与していると考えているのか。

 私が郁奈を殺したと考えているのかもしれない。いや、それどころか、殺人を隠蔽するために部活の生徒たちにまで偽証させていると見られていてもおかしくない。

「わ、私のことを、疑っているのですか」

 声が震えた。

「いえ、そんなことはありません」

 あまりにも白々しい。

 なにか、私の疑いを晴らすものはないか。そう考えるけれども、頭は真っ白だし、なにを考えていいのかさえわからない。

「それで、こちらも確認なのですが、幽霊騒ぎのお話、もう一度お聞きしてもよろしいですか」

 ああ、そうか。慌てることはなかったのだ。幽霊騒ぎの話を正直に言えばよかったのだ。

 朽縄にとって、郁奈に自殺する理由が見当たらないのは、体育倉庫での一件が伏せられているからだ。

「あの、申し訳ないのですが、私、嘘をついてしまったんです」

「嘘、ですか」

「はい。幽霊騒ぎなんて実はありませんでした」

 体育倉庫の一件、郁奈が錯乱したあのときのことを話した。当時付き合っていた彼氏に乱暴されてしまった話、私がスクールカウンセラーに繋いだ話、そして、彼女の名誉のために幽霊騒ぎとして噂を広めたことまで。

 ここまで話せば、彼氏の一件が原因で郁奈は自殺したと解釈できるはずだ。

 そのはずなのに。

「先生、彼氏とおっしゃいましたか?」

 朽縄は妙なところに引っ掛かっているようだった。

「ええ、そうです」

「もう一度確認します。郁奈さんは、彼氏に乱暴された、と先生はそう仰るんですね」

 言いようのない不安がこみ上げてきた。

 見えないなにかのしめつけが、一層きつくなった気がした。

 なにかが、私と朽縄のあいだで決定的に噛み合っていない気がする。けれど、それがなんなのだか、わからない。

 どう考えても、朽縄はまだ私が郁奈を殺したのではないかと疑っているとしか思えない。

 いや、それどころか、もうそう決めつけているような気さえする。

 なにかを間違えた瞬間、一気にくびり殺されてしまう。

 そう思った。

 堪えられず、視線を朽縄から外した。

 どうしよう。私、やってない。犯人なんてことになったら、郁奈との思い出が嘘に塗り替えられてしまう。私と郁奈は恋人だった。それなのに、加害者と被害者の関係にされてしまう。

 助けを求めるように、郁奈の机を見た。あそこで郁奈はいつも私に笑顔を向けて、でもみんなにバレないようにペンケースで隠して――そう。垂れ耳のキャラクターのペンケースだった。

 郁奈から贈り物をしてもらった気がした。

くし――」

 気付けば言葉が口から漏れ出していた。

「なんです?」と朽縄が聞き返す。

「刑事さん、私のこと、疑ってますよね」と尋ねて「いえ、いいんです、わかっています」と答えようとする朽縄を遮った。

 白々しい答えが来るのはわかっている。朽縄は私が郁奈のことを殺したと疑っているのもはっきりわかっている。

「刑事さん、現場には櫛が落ちていたんですよね」

 朽縄の目が鋭くなった。

「ええ、そうですね。ありました」

 視界の端に動きがあって、見ると片桐がわらっていた。

「現場の廃墟は、普段から人が立ち入らない。そういう理解でいいですか?」

「ええ、合っています。廃墟の場所はちょうど道路のどん詰まりのところですから、まずほとんどの人の目に入りません」

 完璧な材料とは言いがたいかもしれない。けれども、私に郁奈を殺す動機がなかったと主張するには十分な材料のはずだ。

 そう、確信している、はずなのに。

 最前、思いついたときのような自信が、なぜだか急速になくなっていくのを感じる。

 なぜだ。なにかがおかしい。

 しかし、一度始めてしまったからには、最後までやるしかない。

「櫛には白猫のキャラクターが描かれているそうですね」

「ええ」

「倉井さんは白猫のキャラクターには興味がなかったはずです。だから、彼女の趣味が変わっていなければ、その櫛は彼女のものではないでしょう」

 朽縄は、片桐に確認すると、片桐は頷いた。

 これまで一切反応のなかった片桐が、まるで止まっていた時間が動き出したみたいに、刑事の質問に頷いた。

「まずはそれでいいでしょう」

 少し偉そうだが、男なんて大抵は高圧的だ。

「彼女のものでなく、ほとんど人が立ち入らないと廃墟にあったとしたら、それは犯人のものとして考えられます。刑事さん、キャラものの櫛は大抵は小学生から高校生くらいまでが使うものです。そうよね、片桐さん」

「そうですね。大人は持たないと思います」

 唐突に話を振られても、動揺せずに片桐は答えた。

「仮に、私を犯人と仮定します。櫛を私がうっかり落としたとするなら、それは不整合でしょう。大人は持っていないものです」

「では、あなたが犯人だとした場合、櫛を現場に残したのは意図的なものだったということですか?」

 私は頷く。

「そうなります――が、それはおかしいのです」

 そうそれじゃあ、おかしいはずなのだ。

「だって、そんな櫛なんかを残していく意味なんかありません。仮にあるとすれば、誰かに濡れ衣を着せるために残すというのもありますが、今まで私は誰かの犯行を示唆したつもりもありません。だから、櫛なんて残していくよりも、なにも残さずに現場を立ち去った方がよっぽどいい」

 朽縄は感心したように頷く。

 けれど、違和感は拭えない。

 なにかを間違えた。そんな気がしてならない。

「なるほど。あなたには櫛を残していく合理性はなく、なんらかのミスで落としていくこともない、ということですね」

「そうです」

 ぱちぱちと朽縄は拍手した。

 至極こちらをバカにしたように。

 なぜだ。なぜそんな態度なのだ。

「いやぁ、見事な推理です。合理性のなさによって自分が犯人でないとおっしゃるんですね」

 私はなにに対して違和感があったのだろう。

 なにがきっかけでそう思ったのだろう。

「ところで、お聞きするのですが――」

 ふいに片桐を見る。

 そこで気付いたのだ。

 ――どうして櫛のことをご存じなんですか?

 ああ、なるほど。あの子は笑っているのじゃなく、いる。嘲笑の笑顔だ。

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