第4話

 郁奈ふみなとの関係が深まったのは去年の夏休みだった。バスケ部は午前から昼頃までの練習をしていたのだが、郁奈の様子がおかしかった。どこか思い詰めたような顔をしている上に、練習に身が入っていなかった。

 誰にも相談していないのか、片桐や他の部員たちは気遣わしげに時折を声を掛けるだけだった。本人が言わないことをあえて聞き出すこともできないのだろうと判断した。

 片桐にさえ話していないところが引っかかった。

 夏休み中に生徒がトラブルを抱えることは毎年のようにあるが、郁奈の性格を考えるとただならぬことのように思えた。

「倉井さん、なにかトラブルでもあった? 話しづらいかもしれないけれど、先生で力になれることがあるかもしれない。聞かなかったことにして欲しいなら、そうすることもできるから」

 その日の体育館の鍵の返却がちょうど郁奈だったから、それとなく彼女に尋ねた。

 郁奈にとっては不意打ちのようなものだったのかもしれない。驚いたように身体を硬直させると、次第に目元に赤みがさしていった。白い肌に赤が映えて、そこを涙が伝っていくのが、思いがけず美しいと思った。

 郁奈には彼氏がいたのだそうだ。その彼氏から関係を迫られ、断っていたが、無理に乱暴をされてしまったのだという。

 郁奈に了承を取ると、私はすぐさまスクールカウンセラーに連絡を入れた。

 郁奈の状態によっては精神科とも連携を取る必要が出てくるかもしれない。

 しかし、事を大きくすると郁奈にどう影響が出るのかわからない。特に両親に知られたくないと郁奈自身も言っていた。ひとまず、スクールカウンセラーに繋ぐ。郁奈に約束したから、詳しい事情は伝えなかった。郁奈の方からカウンセラーに事情を話すだろう。私と違ってカウンセラーはプロだ。

 担任の教員ができることはここまでだ。

 そのはずなのに、郁奈はたびたび私に相談をするようになった。

 私たちが恋人になるまで、それほど時間は掛からなかった。

 葛藤がなかったわけではない。何度も考え直そうとしたが、郁奈のどこかもろさを抱えた美しさを目の前にすると、そんな理性はどこかへと吹き飛んでしまった。

 これまでひとりの生徒として見てきたはずなのに、いつのまにかそれができなくなっていたのだった。

 朝、教室に入ると自然に視線は郁奈へと吸い込まれ、私の視線を期待していた郁奈が、かすかに笑顔をにじませる。それから郁奈は、大好きな垂れ耳のキャラクターのペンケースで自分の口元を隠すのだ。

 誰にも悟られることのない、私たちだけのわずかな交感だった。

「先生」

 郁奈は私を名前で呼ばない。もし学校でうっかり名前を呼んでしまったら、そこから関係がバレてしまうかもしれないからだ。提案したのは郁奈だった。

 私も郁奈のことを「倉井さん」と呼んでいた。バレてしまったら、私の教員としての人生は終わってしまう。けれど、そうした他人行儀な呼び方は、実際の関係性と乖離かいりしていて、妙に寂しさを感じてしまう。だから心のなかだけでも郁奈と呼ぶことに決めたのだった。

 一方、郁奈はどこか秘密を楽しんでいるようでもあった。

 私たちはおおっぴらにデートなんかできない。学校とは三駅離れた私のアパートに郁奈が来て、一緒に過ごす。それだけの、不自由で簡素なデートだった。

 ある日、そろそろ夕方になろうかという頃だった。

 二DKのリビングで、私はソファで持ち帰りの仕事していて、郁奈は隣で課題を片付けていた。

 郁奈がこんなことを言った。

「私と先生だけの秘密が増えていきますね」

 頬を緩ませる郁奈の横顔は、自分だけの宝箱を開けて眺めるような、少女らしさがあった。

「私は誰にはばかることなく倉井さんと外を歩きたいけれどね」

「秘密があるのは嫌ですか?」

「そんなこと、ないけど」

「私、嬉しいです」

 それから見つめ合って、キスをした。

 はじめてだった。郁奈とのキスだけでなく、人生ではじめてキスをした。

「私もよ」

 郁奈の頬に触れた。白磁みたいな肌なのに、しっとりとやわらかで彼女の熱が指に伝わってきた。ああ、こんなに美しい子も私と同じ人間なのか。そんなことをぼんやりと考えていた。

 身体を重ねるようになったのは、意外にも郁奈から誘ってきたからだった。もう彼女のなかで色々なものが振り切れたのだろうと思った。


 体育倉庫の幽霊騒ぎは、嘘ではあるけれど、すべてが嘘というわけではない。ボール磨きをしていたのは本当だし、部員たちの意見を聞いていたのは本当だった。

 メンバーのほとんどは試合に出る子たちで、不定期ではあるけれど時々こうした意見交換をやっていた。

 郁奈になにがあったのか、今でも詳しくはわからない。大学で心理学に触れたこともあるが、専門家ではない。だから突然郁奈が叫びだしたとき、他の部員と同じように驚いたし、同じように混乱した。

 目の前に恐ろしいものが今まさに迫ってきているかのように、恐慌状態に陥る郁奈は、顔を腕で守るように覆って、足をばたつかせていた。

 真っ白になった頭のなかで、ふいに去年、郁奈に相談されたことを思い出した。

 倉庫の外には、下級生や体育館を共用しているバレー部の生徒たちもいた。

 これだけ騒いでいれば、扉の向こうに響いているはずだ。

 こうしたことが起きれば、郁奈には妙な噂がつきまとうだろう。誰も口に出さなかったとしても、遠巻きにされれば、自分が腫れ物として扱われていると感じるに違いない。

 周囲が悪いというわけではない。近しくない人間に、なにか奇妙な噂があれば、優しくしようと意識していてさえ、腫れ物扱いはにじみ出る。

 郁奈の恥をが問題なのだ。

 だから、この体育倉庫の一件を、幽霊騒ぎという嘘の話で上書きした。

 体育倉庫にはどこの学校にでもある怪談話があったのも好都合だった。

 部員たちにも、片桐を通して協力してもらった。

 試合に出るメンバーたちは団結力が高い。特に郁奈はみんなから好かれていた。なんの説明もしなかったのに、みんな深く追及することはしなかった。

 郁奈が死んで警察が来ることになったとき、故人とはいえ、まだ私のなかに生々しく存在する彼女の名誉を傷付けたくなかった。わがままだとはわかっているが、警察にも郁奈の件は幽霊騒ぎとして話すよう、片桐を通してお願いしていた。


 あれだけ帰りたかったのに、朽縄くちなわから解放されたあと、帰宅する気分ではなくなってしまった。まだ残業をしている先生たちもいることに甘えて、私は暗くなった教室にいた。

 郁奈に思いを伝えられたのは教室でのことだった。もちろん、一年前は今とは違う教室だけれど。

 郁奈が使っていた机に触れると、当然だけれどひんやりと冷たかった。

 ――動機です。倉井郁奈さんに自殺する動機がないんですよ。

 朽縄の言っていたことを思い出す。体育倉庫の一件があったとき、ひとまずその場しのぎで嘘をついた。怪談話として生徒たちの間で語られているのを耳に挟んだときは、うまくやれたと思った。

 私はあの一件で、郁奈が想像以上に傷ついていて、ずっと心に血を流しながら生きてきたのだとようやく知った。だから、郁奈は自殺なのだと思っていた。

 ところが、あの刑事からしてみれば、体育倉庫の一件が隠されてしまうと、動機のない唐突な自殺に見えてしまう。

 そこに幽霊騒ぎだったと偽証するバスケ部顧問いたとすれば、郁奈の死に関与していると疑われてしまうだろう。いや、それだけじゃない。部員たちも偽証に関わってしまっている。最悪、ありもしないいじめ問題に発展してしまうだろう。

 もう一度郁奈の机に触れた。

 机の天板は、硬くてつるつるしていて、冷えていた。指から熱が抜けていく。頭にのぼりかけた血が、ゆっくりと降りていった。

 すべてを話すことはできない。

 私と郁奈の関係を語れば、私の教員人生が終わってしまう。

 幸い、彼女との関係は、誰にも知られていない。

 つまり、体育倉庫の一件だけを正直に話せばいいはずだ。私たちの関係について話す必要はない。

 それでこの件は終わりだ。

 来週には予選が始まる。刑事がうろちょろしていては、差し障りが出るだろうし、なにより警察に対して嘘をついているという引け目もあるはずだ。

 さっぱりした気分で、みんなにブーブー文句を言われながら中間テストを実施するのだ。

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