第3話

 朝のHRで、生徒にあまり気にするなと言ったくせに、ずっと頭のなかで郁奈ふみなのことを考えていた。全部正直に言うべきかもしれない。でも決めたことだと何度も自問自答してしまう。

 仕事に集中できないばかりか、考えることにくたびれてしまう。

 職員室での事務作業に一段落ついて、腕時計を見るとちょうど十八時を指したところだった。それと同時にチャイムが鳴った。下校時刻だ。

 そこにちょうど片桐が入ってきた。体育館の鍵を返しに来たのだろう。

 去年、鍵の紛失があったことから、部員が顧問に鍵を返却して、顧問が責任を持ってキーボックスに保管するというルールになった。他の先生たちには不評なようだが、私には好都合だった。鍵の返却は片桐か、郁奈の役割だったので、毎回部活終わりに部の様子を共有することができるからだ。

「先生、顔色悪いですよ」

「そう?」と、とぼけてみたけれど、生徒に心配されるのはさすがにいただけない。

「みんなの様子はどう?」

「ちゃんと集中できているみたいです」

「そう。それならよかった。帰り、気をつけて」

 はい、と片桐が答えたのを聞いて、机に向き直り、残りの仕事を片付けようとしたのだが、一向に彼女が帰る気配を感じない。

 見ると、やはり片桐はそこにいた。なにかを言おうとして躊躇ためらって、かといって立ち去るにはタイミングを逃したような、どこか寄る辺のない様子に見えた。

「どうしたの」

 こちらが尋ねたのに、片桐が「いえ」と言って立ち去ろうとするのを、腕を掴んで引き留めた。

「いいから話しなさい。ここで言いづらいなら場所を変えてもいいから」

「場所まで変えなくていいです」

 完全に追い込んでようやく片桐は話す気になったらしい。

「先生、やっぱり辛いです」

 堪えきれなくなったような、重石に潰されたか細い悲鳴のような声だった。

 郁奈が死んでから、自分がしっかりしなきゃと思っていたが、そうやって気張っているのに疲れてしまったらしい。郁奈の死をどう受け止めればいいのか自分でもわからない。ふわふわした気持ちのままで、整理がつけられず、そんな状態が苦しいのだという。

 涙をこぼさずに話しているのが、とても健気に見えた。

 ああ、まったく私はまだダメだ。想像がつきそうなものなのに、片桐のメンタルのことをまるで考えていなかった。

「片桐さんは、倉井さんと仲良かったよね。倉井さんとの思い出を聞かせてくれないかしら。少しは気が楽になるかもしれない」

 ぽつぽつと、片桐は思い出を語り始めた。出会いがあって、同じ部活に入り、バスケ部での話、プライベートで遊びに行った話、話し始めると片桐から郁奈の話がするすると出てきた。さすがにいつも一緒にいただけあって、思い出がたくさんある。なにより片桐は郁奈についてよく観察しているようだった。

「いざとなったら郁奈って大胆なんです。なんというか、大っぴらな大胆さじゃないんですけど、よく考えたらすごいことをやっちゃうんです」

 片桐がそう話したときには、もう彼女は笑顔になっていた。

「そういえば、たまにS駅で郁奈に会うんですよ。なんか用事? って尋ねてもはぐらかされちゃったな」

 思い出を語るうちに、ふいに思い出したように片桐は言う。S駅は学校の最寄り駅から三駅ほど離れた場所だ。私の住んでいるアパートの最寄り駅でもある。

 時計を見ると十八時半になっていた。下校時刻から三十分も過ぎていた。職員室の他の先生たちは事情を察してくれたのか、私たちをそっとしておいてくれたらしい。

「もうこんな時間ね。片桐さん、もしも辛かったスクールカウンセラーに行きなさい。こういうときのために、学校が雇ってるんだから」

 今度こそ片桐ははい、と答えて職員室を出て行った。

 今朝、片桐もまだまだ子供だと苦笑したが、そのことを自分でもきちんと考えていなかった。高校三年生というのは、十八歳になる学年で、誕生日が来れば選挙権を持つようになる。法律上は成人だ。けれど、それでも子供なのだ。

 だからといって私にできることなんて、ほとんどない。

 カウンセラーの出勤日を確認して、片桐が行こうと行くまいと、このことは共有しておこうとメモしておいた。

 私がしっかりしないといけない。クラスメイトや部活仲間が死んでしまったというのは、子供たちにとってはショッキングなできごとのはずだ。疲れた状態で、ちゃんと指導することなんかできるわけがない。

 今日のところは残業をせずに帰ろうと決めた。早めに寝て英気を養うのだ。

 帰る前に、体育館の施錠を確認しようと外に出た。職員室用の出口から、すぐそこに体育館がある。正面口の鉄扉をガタガタ揺らしていると、背後から声を掛けられた。

「どうも、先生」

 ねばついたような、今日は五月晴れだったのに、一気に梅雨がきたような湿気のある声だ。

 見ると、夜の闇のなかから、朽縄くちなわの顔だけが浮かび上がっていた。黒いスーツを着ているせいで、生首の化け物に見える。ただでさえ、不気味で不吉なのに、余計に厭だ。

「朽縄さん。今帰るところなんです。アポイントもなかったですよね」

「いやぁ、すいません」

 謝っているが、悪びれる様子がまるでない。にやにやと笑った顔を思い切り殴りつけてやりたくなった。

「先生も生徒さんのについては気になるだろうと思いましてね」

 どきり、と心臓がはねた。事件とはっきり言い放ったということは、朽縄は自殺ではないと考えているのだろうか。

 いや、そんなまさか。自分にそう言い聞かせて冷静さを取り戻す。

「事件なのですか」

「いえ、まだわかりません」

 なんなのだ、この刑事は。

「まぎらわしい言い方はやめてください」

 そしてふたたび、謝る気のない「すいません」を言われて、さらに疲れた。この刑事と話すと調子が狂う。

 ただでさえ疲れているのに、調子を乱されるのは勘弁してもらいたい。

「新しい証言が出てきましてね」

「それならさっさと言ってください」

 もう早く家に帰りたい。

「倉井郁奈さんは、数日前から様子がおかしかったそうなんです」

 数日前というと、体育倉庫での一件を思い出す。部員たちが話したわけではないだろう。あの子たちは片桐が中心になってまとめてくれている。

 もしかすると、クラスの生徒かもしれない。バスケ部以外ではいくら担任の私でもどうすることもできない。

「そうなんですか」

 なげやりに答えた。とにかく話をすすめたかった。それなのに、朽縄はなにかに気付いたように片方の眉をぐいっとつり上げた。

「ご存じなかったんですか」

 責めるような口調だと思った。まるで私がなにか過失をしたように聞こえる。

「いけませんか」

「いえ、いけないことはありませんが――」朽縄はわざとらしく一呼吸を置き「倉井郁奈さんは、あなたのクラスの生徒で、あなたが顧問の部活をしていたのでは?」と尋ねてきた。

「刑事さん、教員といっても生徒のことをなんでも知っているわけではないんですよ」

「あなたは教育熱心で、生徒とも距離が近いそうですね。部活でも面倒を見ている生徒さんの様子をご存じなかったんですか」

 朽縄の迂遠うえんな話を聞くのはもう限界だった。この状況からさっさと脱して家に帰るには自分から話の核心に触れるしかない。

「体育倉庫の件とは関係ありませんよ」

「体育倉庫――ああ、幽霊騒ぎのことですか。どうして幽霊騒ぎの話を?」

「あなたが倉井さんの話を幽霊騒ぎと結びつけたがっているのではと思ったんです」

 自分から核心に触れたのに、妙なかわし方をされたように感じて、さらに疲れた。もうやっていられない。

「すいませんが、私、今日疲れているんです。早く帰りたいので、もう遠慮してください」

 さすがの朽縄も私の懇願こんがんを受け容れてくれたらしい。

「失礼しました」と応じてくれた。

 やっと解放された。安堵あんどの息が出たそのときだった。

「ああ、最後にもうひとつよろしいですか」

 これで最後ならいいだろうと思った。

「なんでしょう」

「閉じこめられたあと、どうやって出られたんです」

「えっ」

 頭が真っ白になった。後になってみれば、しばらくして開いたとでも答えておけばよかったのだ。疲れ切った頭は思考停止してしまい、文字通り絶句してしまった。

「それでは私はこれで」

 私の返答を待つことなく、朽縄は去って行った。


 朽縄の目的はいったいなんなのだろうか。新しい証言があったと言っていたが、そんなもの私に報告する理由はないだろう。そもそも刑事が捜査状況を、関係者とはいえ一般人の私に話すのはおかしい。

 ではなんのためなのか。

 多分、私の嘘を確認するためなのだろう。当然あの刑事は郁奈の死を幽霊騒ぎと結びつけているはずだ。では、その先はどうなる。

 まさか、私が郁奈を殺したとでも思っているのだろうか。

 弁解するタイミングを完全に失ったまま、帰してしまった。

 どうすればいい。

 刑事は郁奈のことは殺人だと考えているかもしれない。

 けれども、郁奈は自殺なのだ。

 私はやっていない。できるはずがない。

 恋人の郁奈を殺せるはずがない。

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