3, 青と (1)

「青瀬、おはよう」

 朝の練習を終えた野球部員たちが教室に入ってくると、栞は真っ先に青瀬に向かっていった。まだ少し汗をかいている青瀬は、茶色い髪袋を見ると、首にかけたタオルで汗をぬぐいながら「えっ」と目を輝かせた。

「ひょっとして、昨日聞いた本?」

「そうそう。おじいが早く渡してあげてっていうから、持ってきたんだ。お代はある時で良いよ」

「ちょ、ちょっと待ってっ。今、たぶんある」

 青瀬は大きなスポーツバッグを床にドサッと下ろし、大きなチャックを開けて中をあさり始めた。

「今じゃなくても良いよ」

「いや、昼休みとか放課後に渡せないと困るから」

 「あった!」と青瀬にしては大きな声を上げて財布を取り出す。鮮やかな青色の財布だ。

「いくらだった?」

「千円かな。状態が良いからちょっと高いって」

「全然いいよ。それじゃあこれ」

 財布の中で一番きれいな千円札を渡されると、栞はそれをポケットに入れて、青瀬には紙袋を渡した。

「本当にありがとう、白枝。これでもっとがんばれそう」

 青瀬は日に焼けた肌に映える白い歯を見せて、にっこりと笑った。きれいな笑顔に、また栞の心臓がドキッとはねる。栞は半そでのシャツの袖を触りながら、「それならよかった」と答えた。

「……あと、昨日、失礼なこと言ってごめんね。改めて、甲子園出場、おめでとう」

「まだ気にしてたんだ、いいのに」

 突然廊下が騒がしくなった。教師たちが階段を上ってきて、生徒たちが大急ぎで教室に戻っているようだ。

 栞と青瀬の周りの生徒も席に戻り始めると、ふたりも自分の席の方に体を向けた。

「でも、わたしのおじいでも知ってたんだよ、甲子園行くって」

「俺はもう全然気にしてなかったけど……」

 ガラッとドアが開いて、担任の教師が入ってくる。栞と青瀬も目を合わせたままゆっくりと歩き出す。

「出るって知ってくれた白枝が、甲子園見て、応援してくれたらうれしい」

 青瀬の言葉は、担任の「ホームルーム始めるぞー。席つけー」という不愛想な声と重なった。それでも微かに聞き取ることができた。栞が走り出しながら「わかった!」と答えると、青瀬はまた歯を見せて笑ってうなずいた。



 青瀬の言う通り、その日の昼休みと放課後、栞と青瀬が顔を合わせる時間は一切なく、そのまま夏休みが始まった。

 最初の一日か二日は、古書店にいると野球部が練習している声や音が聞こえてきた。しかしやがてその音はピタリと止んだ。


「ーー兵庫に出発したんだろうね」

 入口の引き戸に寄り掛かっていた栞は、ビクッと肩を震わせて肇の方を見た。肇は優しい笑顔を浮かべている。

「こんなに静かな夏は初めてだから、私も少し物足りないよ」

 肇はゆっくりと立ち上がり、カウンターの向こう側にある小さなテレビを主電源で付けた。

「だから、明日からは甲子園を見ようかと思ってる。野球の音、聞き放題だ。栞もどうだい?」

「……見ようかな。青瀬にも、見てくれたらって言われたんだ」

 肇は満足げな笑顔でうなずいた。

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