2, 白と (2)

「――おじいー、ただいまー」

 ガラガラと引き戸を開けて声を上げると、深い茶色のレジカウンターの向こう側でダンボール箱を開けていた祖父の肇が、ヒョコッと顔を出した。

「おかえり、栞ちゃん」

 肇はきれいに整えられた口ひげをなでながら、跳ね上げ戸を通って、栞の方にゆっくりと歩いてきた。栞も汗をハンドタオルでぬぐいながら肇に駆け寄り、青瀬のメモ書きを差し出した。

「ねえ、おじい。バーナードの『星が落ちる前に』って本ある? 欲しいってクラスメイトがいるんだ」

「ふむ。バーナードの本は一通り置いておくようにしてるからな。たぶんあると思うよ。あっちの本棚を探してみるか」

「あ、自分で探すから良いよ。新しい古書開けてるところでしょ」

「そうか。それじゃあ頼むよ」

 栞はカウンターの後ろの椅子にカバンを置き、壁の釘にかかっている茶色いエプロンを取った。胸には「白枝古書店」と銀色の糸で書かれている、栞専用のエプロンだ。

「それにしてもうれしいねえ。こんなに古い詩集を、初衣と同い年の子が欲しがるなんて」

 肇は段ボール箱の前に座り込むと、微笑みを浮かべながらメモ書きを眺めた。

「わたしも驚いたよ。自分以外にも読んでる人がいるなんて、考えたこともなかった。しかもそのクラスメイト、野球部なんだよ。本なんて興味ないかと思ってた」

「いやあ、それはそんなに驚かないな。野球に精を出しながら、読書熱心な友人は私もいたからね。常連の藤なんかがそうさ」

 藤とは一か月に二、三回は古書店へやってくる肇の友人だ。今は仕事を引退して、伴侶とのんびり過ごしているそうで、そのお供に古書を大量に買っていってくれるのだ。

「へえ! 藤さんも野球を! 人は見かけによらないなあ」

 栞がエプロンの紐を背中でリボン結にすると、肇は「チッチッチッ」と言いながら、人差し指を振った。

「人は誰しも様々な顔を持っているからね」

「……でもそう言われてみると、青瀬、あ、この本を欲しがってるのが青瀬って言うんだけど。青瀬が野球をやってるところの方が想像できないかも」

 栞は肇に教えられた本棚に向かい、本を探し始めた。

「ほう。どうして?」

「青瀬ってどっちかって言うと、教室だと落ち着いてる方なんだ。他の野球部はみんな元気いっぱいでうるさい人が多いんだけど、青瀬は静かなんだ。もちろんちゃんと友達いるし、楽しそうに話してるけど、休み時間は自分の席で机に突っ伏したり、友達に寄りかかってボーッとしたり、それこそ何かを読んだりしてるんだよね」

 バーナードの詩集がまとまって並んでいる区画を見つけると、栞は背表紙に人差し指を当てて、ゆっくりと右に動かしていく。

「去年も今年も同じクラスなんだけど、遠足とか文化祭とかでも派手な役割をやらないんだ。大声出して盛り上げたりとかもしないし。青瀬が大声出して、ボール投げたり、バット振ってるとことか、全然想像できないかも」

「部活の様子を見たこともないのかい?」

「うん。でも、見たことはなくても青瀬は野球部に入ってるんだから、大声出してボール投げてるって面と、のんびりした面と、詩集をたしなむ面と、他にも知らない面がいろいろあるんだろうね。人は見かけによらないって本当だなあ」

 栞の指が「星が落ちる前に」の背表紙に触れた。

 指を立てて背表紙をつかみ、抜き出す。サラサラした青色の紙に、白色のインクでタイトルが書かれたシンプルな装丁の本だ。表紙が破けたり、紙が日に焼けているようすもなく、状態はかなり良い。

「あったよ、おじい」

「おおっ。よかった、よかった」

 栞は本を胸に抱え、カウンターの跳ね上げ戸を超えて、木製の椅子に座った。

「わたしもこの詩集は読んだことなかったなあ」

「それは青瀬くんに売って、栞の分はまた探してあげるよ。栞のところの野球部は、今年甲子園初出場だろう。お祝いということで、先に読ませてあげなさい」

「えっ! おじいも甲子園のこと知ってるの!」

 栞が椅子から飛び降りて肇の前に座り込むと、肇はあごひげを触りながらうなずいた。

「うちからも立派な横断幕が少し見えるよ。栞、まさか知らなかったのかい?」

 ゆっくりと肇から目をそらして、小さくうなずくと、肇の失笑が聞こえてきた。

「栞はこの古書店を手伝ってくれる優しい面もあるが、自分の興味があること以外にはとことん無頓着だねえ。それもまた栞を形作るひとつの面だ」

「……あんまりよくない一面だよね。相手にショックを受けさせる可能性があるもん。実際、青瀬にも気使わせちゃったし」

「誰にだって良い面も悪い面もあるもんだ。その詩集を渡す時に、おめでとうと言えば良いじゃないか」

「……そうかな」

「そうさ」

 肇はズボンで手のホコリを払って、栞の頭をそっとなでた。



 白枝古書店の紙袋に本を入れ封をすると、栞はエプロンを付けたまま、店の外に出た。

 セミの大合唱とムワッとした熱気が襲い掛かってくる。しかし、夕方の風は少しだけ微かな冷たさを帯びている。風が吹くと、いくらか過ごしやすく感じられた。

 栞はその風を浴びながら、真後ろに見えるネット越しのグラウンドの方を見た。

 耳を澄ませると、野球部の他にもサッカー部、陸上部など、様々な運動部の声や音がかなりはっきりと聞こえてくる。

 校舎にかかった横断幕も見えると、これまで自分がどれだけスポーツに関心を持っていなかったのかがよくわかった。

「あ、そうだ。今いたら渡せないかな」

 栞は雑草が生い茂る店の横道を通り抜けて、ネットの前まで進んでいった。この辺りはグラウンドにも少し雑草が生えているせいか虫が多く、洋服から出ている肌のあちこちがかゆいような気がした。

 腕を手でこすりながら目を凝らす。しかし、みんな同じユニフォームに野球帽をかぶっているせいで、誰が誰なのかまったく見分けがつかない。

「……まあ、明日渡せば良いか」

 五時の鐘が鳴ると、栞は店の中に戻った。

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