第19話 人が消える家 後日談

「深山さん、昼食の時間ですよ」


 深山 佳代子かよこは介護施設のベッドで上半身を起こして窓の風景を眺めている。

 この老人ホーム兼介護施設は比較的軽度の老人達が入所しているが、佳代子は活発的ではない。

 排泄や食事は問題ないものの、積極的に自分から口にするまでに時間がかかる。


 食事が用意されても手をつけようとせず、ただゆっくりと視線を落とすだけだ。

 そこにあるものが食事だと認識したところで、彼女はなかなか箸をもたない。

 いつも介護職員がスプーンを持って最初の一口を食べさせるのだ。


「深山さん、どうぞ」

「……はい」


 蚊の鳴くような声で佳代子は返事をした。

 モソモソと一口だけ食べるものの、また次の一口までに時間がかかる。

 こんな状態だが意外にも認知症とは診断されておらず、この施設に入所している老人の中でも手がかからないほうだ。


 介護職員が食事のサポートをすると佳代子はようやく自分で食べ始める。

 それからはペースは遅いものの、ほとんど残すことがない。

 好き嫌いもなく、食べられないものもない。


 入所者の中には肉菌や野菜菌を受け付けない者も多く、個人ごとに食事を変化させなければいけない。

 また飲み込みやすいように細かく切ったり柔らかくする必要がある。

 そんな中で佳代子の食事は至って変化がなかった。


 彼女は施設の個室で暮らしているものの、一日中何をするともなくベッドから動かない。

 話しかければ受け答えはするが、必要以上に職員や他の入所者と会話をすることがなかった。

 介護職員は佳代子の食事を終えるのを見届けた後、食器を片付ける。


「では何かあったら呼んでくださいね」


 介護職員がいなくなった後、佳代子は壁を見つめていた。

 彼女は弱々しく両手を見つめてから握る。

 そしてグーのまま布団に叩きつけた。

 ただ無言でひたすらに、まるで何かを握って刺すように。


「深山佳代子さんだね」

「えっ……!」


 佳代子が声に反応すると、長い黒髪の少女が立っていた。

 自分の身内の誰かかと思った佳代子だが心当たりはない。

 少女は部屋の椅子に勝手に座って佳代子の皺だらけの顔を覗き込む。


 そして佳代子の手を両手を重ねた。


「あなたが30年前に出所した後の行方がわからなくて苦労したよ。今も苦しいよね」

「あなた誰?」

「その手に刺した感触が残っているよね」

「……え」


 佳代子は少女に手を重ねられているうちに体の芯が温められているような感覚を覚えた。

 胸の奥につっかえたものが少しずつ溶けていく。


「あなたの時間は夫を殺した時から止まったままだった。ずっと夫の幻影を刺し続けた」

「あなたは一体……」

「ずっと怖かったから何もできなかった。どこにいても夫がそこにいるような気がしてならなかった」

「あ、あぁ……」


 佳代子は自分に重ねる透子の手をさすった。

 そして目尻に涙を溜めてベッドに視線を落とす。

 透子に触れているうちに佳代子の中に何かが流れ込んできた。


 夫の魂がとっくにこの世にはいないこと。

 自分を見守ってくれた一匹の動物のこと。

 佳代子は透子の心地いい温かさと共に次第に理解していった。


「タヌちゃん……ずっと、ずっと……見守って……う、うっ、ごめん、ごめんね……」

「うゆぅーー」

「タヌキちゃん!?」

「うゆっ!」


 透子の影からタヌキがぴょんと出てくる。

 ベッドの上に飛び乗って佳代子に頭を撫でられた。


「どうしてここに……」

「佳代子さん。時間がかかったけど、これからはあなたの好きに生きていいんだよ」

「私の好きに……この私が……人を殺した私が……」


 タヌキを撫でながら佳代子は手を震わせた。

 夫のせいで出かけるのも苦労したこと。

 帰るたびに浮気を疑われて叩かれたこと。

 友達から貰った誕生日プレンゼントのネックレスを売りに出されたこと。


 沸々と煮え滾る感情は夫への憎しみではない。

 これからの生にぶつけることによって、夫への復讐を果たす。

 佳代子の凍り付いていた心が氷解して何十年ぶりに笑顔を作った。


「私ったら……こんなにまでしてもらって、がんばらないとダメよね。お嬢さん、ありがとね……」


 佳代子はベッドから下りて床に足をつけた。

 介護職員に促されずに初めて自分の意思で立っている。


「うゆぅ! うゆー!」

「タヌキちゃんもありがとね……私、まだまだがんばるわ」


 佳代子がタヌキの頭を撫でる。

 そして透子に向けて頭を深々と下げた。


「ありがと、ありがと……」

「深山さん?」


 部屋に介護職員が入ってきて、頭を下げている佳代子を不思議そうに見ていた。


「あら?」

「深山さん、さっきからずっと誰と話していたんですか?」

「黒髪の女の子がね、いたのよ。日本人形みたいに綺麗な子よ。あら?」


 佳代子が部屋の中を見渡しても、そこには自分と介護職員しかいない。

 窓も閉まったままで何よりここは三階だ。

 飛び降りれば無事では済まない。


「黒髪の女の子ですか? 誰ともすれ違ってませんが……」

「た、確かにいたのよ。いたの……」


 介護職員は一瞬だけ佳代子の頭のほうを心配した。

 しかし彼女はこの道十七年のベテランだ。

 長く勤めていれば先輩達から怪談話をよく聞く。


 直接見たことはないものの、無暗に否定することもしない。

 それより先程とは違って佳代子の様子が明らかに違うことに驚いている。


「深山さん、何だか随分と顔色がよくなりましたね」

「うふふふ、そう? 今日は天気がいいから少しお散歩でもしようかしら」

「いいですねぇ!」

「それからね、ずっとやっていなかったテニスもしたいの」


 夫のせいでろくに外も出られなかった佳代子だが、本来は活動的だ。

 やる気が漲っており、ラケットの素振りをする真似をしている。

 この歳で大丈夫かと介護職員は思わなくもなかったが、野暮なことは言わなかった。


「では念のため、付き添いますね」

「えぇ、ずっとお世話をしてくださったあなたともたくさんお話がしたいわ」


 佳代子は介護職員に付き添われて部屋を出る。

 その表情には漲るような生気で満ちていた。

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