第18話 人が消える家 4

 男の悪霊がごぼりという音と共に口から血まみれの刃を放つ。

 しかし刃は透子の目の前で急停止して空中に留まったままだ。

 サヨはその様子を固唾をのんで見守る。


「よっわ」

「お、んなの、くせに、かなこォォッ!」


 透子が空中で停止している刃物に手をかざすと、ものすごい勢いで錆びていく。

 まるで一瞬で年月が経過したように、その刃物は数十年の時を経たかのような様相になっていた。

 タヌキはそんな透子の様子を目を丸くして見ている。


 タヌキが生まれた時代にも、このレベルの霊力を持つ人間は存在しなかった。

 人は怪異に怯えて、夜を恐れる。

 明かりを灯して夜の闇に対抗するも、その揺らめきは無駄な抵抗のごとく微々たるものだ。


 最初こそタヌキはそんな人間をバカにしていた。

 偉そうに動物を狩る癖に本当は弱い。

 熊にでも襲われたら成すすべもなく殺される。


 時代が流れて飛び道具を作った人間だが、それでも依然として熊に殺される人間はいる。

 人間は弱い、強がっているだけ。

 そんなタヌキも一人の男によって救われたが、弱いという認識は変わらなかった。


 自分が守ってやらなければ、その一心で今日までこの場所を守り抜いてきた。

 それが今、透子という異質な存在を前にしてタヌキは何も理解できなくなっている。

 そこにいるのが人であるかどうかすらも疑っていた。


 昔からタヌキをどうにかしようと退魔師がやってきたが、すべて化かされてきた。

 人間は化かされる生物だ。そんな認識が透子によってガラスのように砕け散る。

 この人間は何なのだ。いや、人ではない。人が持つ霊力を遥かに超えているのだから。


「かよ、かよ、かよかよかよよよここここぉォォ……!」


 悪霊の腐敗した体から更に刃が飛び出した。

 ぶちゅりという音を立てて目や股間、膝や手に至るまでハリネズミのように生え散らかしている。

 依然として嘲笑している透子を見て、サヨは疑問を持った。


(私の時はすごい怖かったのに今の透子ちゃんは……)


 サヨはそこで気づく。透子はまだヘアゴムを取っていない。

 透子が本格的に戦う時はヘアゴムを取るのだが、それがルーティーンなのかそうではないのか。

 サヨは理解していなかった。


 いずれにしてもヘアゴムをつけたままの透子は戦っていないという認識になる。

 いや、戦いにすらならないと彼女はわかっていた。

 それでもなぜ透子は不気味に佇んだままなのか、サヨにはわからない。


 そこで玄関のドアが開く音が聞こえた。


「おい、透子ちゃん。オヤジの奴、まだ帰ってこないから一度外に……」


 与一が様子を見に来た。

 その途端、悪霊はすぐ様ターゲットを変える。

 理性がほぼない悪霊といえど、薄々気づいていたのだ。


 そこにいる異質は自分の手には負えない。

 ならばせめて別の何かに憎しみをぶつける。

 透子が言っていた通り、悪霊の本質は弱いものいじめだった。


 自分より立場や力がない妻をいたぶり、会社でも横柄に振る舞っていた。

 何人の部下を退職や自殺に追い込んだかわからない。

 コンプライアンスもへったくれもない時代が生んだ怪物が死して更に化け物となってしまった。


「ユユルルさぁぁァァァンん!」

「うわぁぁぁ!?」


 悪霊が与一に向かって手と足を使って走り出した。

 霊力を高めて具現化した悪霊は一般の人間にも見える。

 ホラー映画などで、姿は見えないもののそこにいるという状態はまだ霊が本気を出してない状態だ。


 今の悪霊の姿は与一の瞳にも映っており、恐怖で次の動作ができない。

 悪霊が与一に向けて刃物を発射したが――


「ガ、ヒアァァッ!」


 刃物が空中に落ちて、悪霊の四肢があらぬ方向へ捻じ曲げられる。

 ドアを背にして腰を抜かす寸前の与一は呼吸を荒げてその様子を見ていた。


「な、なんだってんだ……」


 悪霊は首をギリギリと曲げて透子を白濁した瞳で捉える。

 ここで悪霊は完全に理解した。

 これはやはり自分の敵う相手ではない、と。


「イギギ、ア、ギ、ギアァ……!」

「今まで散々怖がらせたんだからさ。最後くらい怖い思いをしてね」


 悪霊の体に長い髪がするすると巻き付く。

 それは透子の髪であり、とてつもない力で悪霊を締め付けていった。

 ゴキリと鈍い音を立てながら、悪霊は髪の隙間から手を伸ばそうとする。


 その手もやがて折れて髪に引きずり込まれてしまった。

 透子はしゃがんで膝を抱えたまま悪霊を見つめる。


「私は成仏とかさせられない。できるのは浄化」

「ケ、デ、スケ、デ……ダス、ゲェ、デェ……」


 悪霊が髪の中でかすかに呻く。

 その声もやがて聞こえなくなり、髪がふぁさりと床に散らばった。

 すでにそこに悪霊の姿はない。


 与一は気がつけば腰を抜かしていた。

 幼少の頃から父親に鍛えられていて、幼稚園にして小学生にケンカで勝っている。

 中学生ですでに隣町含めて学校を三つも支配した上に高校生にも挑んで病院送りにしてきた。

 高校生になると彼にケンカを売る者はほぼいなくなり、その情け容赦のなさから悪鬼と恐れられるようになる。

 時には田舎を爆走する暴走族を一人で壊滅させたほどだ。


 青年となってからは丸くなったものの、胆力が衰えたわけではない。

 そんな彼が腰を抜かすなど、与一自身も信じられなかった。


「人じゃ……ない」


 樫馬村では昔からしばしば人ならざるものの言い伝えがあったが、与一自身は見たことがなかった。

 肝試しと称して心霊スポット巡りをしたものの、なしのつぶてだ。

 そんな与一は生まれて初めて人外に遭遇して、自分がいかにちっぽけな存在か思い知った。


「与一さん」

「わっ!」

「お掃除どうする?」

「い、いや、オヤジはたぶん戻ってこないから、お、俺から言っておくよ。きょ、きょきょ、今日は帰っていい」


 持前の胆力をもって与一は透子に答えたが、これが限界だった。

 いくらケンカが強かろうと、人が猛獣に勝てないのと同じだ。

 そこにいるのは明らかに人ではないものだと与一は背中を汗で濡らしている。


 悪霊を包んだ大量の黒髪はいつの間にか消えていた。

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