五章 記憶と力

第34話 忠臣の秘密

「……い」


 声が、聞こえた。


「……ぱい……せん……ぱい……」


 呼ばれている。誰かが俺を呼んでいる。

 起きなければ。瞼を開かなければ。今は、気絶している場合じゃなかったはずだ。

 意識が、一気に浮上する。


「起きてくださいです、先輩!」


 鮮明に聞こえた呼び声と共に、俺の意識は覚醒した。

 最初に見えたのは、気を失う直前までいた学校の教室――ではなく、毎日一度は必ず見ている我が家の天井だった。芸術的な配置のシミはいつも俺の心を穏やかにさせてくれるのに、今はざわつきが収まらない。

 俺は、自分のベッドに寝かされてるみたいだな。


「なんで……? 俺は、確か」


 学校の教室でアンネリーゼを連れ去ろうとしたロロットにボッコボコにされたはずだ。

 病院ならわかる。でも、どうして家に?


「先輩、よかったです。目が覚めて……ぐす」


 嗚咽の混じった声に顔を向けると、目尻に涙を滲ませた紗那が俺の手を包み込むように握っていた。その手は淡く白い光に包まれていて、温かい。まるでぬるま湯に浸かったような心地よさだ。


「紗那が、助けてくれたのか?」

「そうです!? 先輩、紗那があと数分遅かったら死んでたかもしんねえんですよ!?」


 ロロットにやられた怪我は陽光魔術で治療してくれたんだな。この温かい光がたぶんそれだ。……副作用とかないよね?

 体を起こす。驚いたな。あれだけ滅多打ちにされたのに全く痛みを感じないぞ。

 これが魔術による治療か。


「なんで俺は家にいるんだ?」

「紗那が連れて帰ったです。学校の保健室でもよかったですが、事情を聞くならこっちの方が都合はいいと思ったです」


 小さい体で俺を背負って家まで運ぶ姿が目に浮かんだ。確かに間違って誰かに聞かれてもまずいからな。


「クラスのみんなは?」

「そっちも心配いらねえです。教会の人たちが上手いことやってんです」


 ロロットの暗黒魔術で眠らされていたようだが、紗那がそう言うのならきっと大丈夫だ。


「先輩、学校でなにがあったんですか?」


 目尻の涙を拭った紗那が真剣な表情になって訊いてきた。


「ああ、実は……」


 俺は学校であったことを、一つずつ現実だったと確認しながら説明する。

 アンネリーゼがクラスメイトの前で日光を浴びて燃えたこと。そのせいでロロットによって強制送還されたこと。そして俺の体から放出された謎の光についても全部包み隠さず話した。

 ロロットは、もう二度とアンネリーゼをこちらの世界に関わらせないと言いやがった。

 あのいつも以上に冷徹な瞳は、本気だった。

 今度ばかりは退かないという意思を感じた。


「強力な暗黒魔術の気配があったので何事かと思ったですが、紗那が考えていた最悪のシナリオじゃなくてちょっと安心したです」


 全てを聞き終えた紗那は短く息を吐いて肩を落とした。


「最悪のシナリオって?」

「アンネリーゼが悪魔の心に支配されて大暴れしたんじゃねえかと」

「あいつは悪魔じゃない!」


 つい、反射的に怒鳴ってしまった。いつもならおふざけの一つも入れてるところなのに、自分で思ってる以上に余裕がないみたいだな。今の俺は。


「はい、そうです。紗那だってもうわかってんです。だから頑張って教会と騎士団を説得してたんです。その矢先にこの事態ですよ」

「それはなんというか、すまん」


 素直に頭を下げる。今回の件は、曇りだからと楽観していた俺に全責任があるんだ。


「それと先輩が放ったっていう灰色の光ですが……」

「なにか知ってるのか!?」

「……」


 思わず身を乗り出すようにして詰め寄るが、紗那はどこか苦い顔をして視線を逸らした。ぎゅっと唇を引き結んで沈黙している。

 話すべきか、話さないべきか。それを葛藤しているんだってことはなんとなく察した。

 紗那が話したくなければ――とは考えない。話してもらわなければ困る。これは俺自身のことなんだ。


「……もう、ここまで来ちまったらしょうがねえです」


 やがて、紗那は覚悟を決めた顔になって俺を真っ直ぐ見詰めた。


「紗那が監視してたのは、アンネリーゼたち暗黒魔界人だけじゃねえんです」

「?」


 なんだそれ? 答えになってないぞ。


「紗那は、ずっと昔から……先輩を監視するように騎士団から命じられていたんです」

「……………………はい?」


 意味がわからなかった。


「先輩は中学の時に紗那と知り合ったって思ってんですよね? でも紗那は、小学校低学年の頃からずっと先輩を見てたんです」

「え? いや、んん? 小学校から? なんで?」


 意味不明すぎるぞ。紗那とは中学の時に教会のボランティア活動で知り合ったんだ。それは間違いない。ハッキリと覚えている。でも、それよりもずっと前から俺は紗那に監視されていた?

 なぜ?

 どうして?


「まあ、そうなるですよね。先輩、落ち着いて聞いてほしいです」


 紗那は当然の反応だと言うように苦笑を浮かべ、粛々と言葉を続ける。


「当時の先輩はとんでもねえ量の暗黒の力――暗素をその身に宿してやがったんです」


 あまりに荒唐無稽すぎる言葉。

 思わず頭を抱えた。


「いや待てそれはおかしい。俺は暗黒魔界人じゃないぞ?」

「そうです。先輩は悪魔でもなんでもなく普通の人間です。だから異常だったです」

「でもそんなの、俺は知らな――」

「先輩は覚えてねえはずですよ。だって、当時この街の常駐騎士だった今の陽光騎士団長が、先輩の暗黒の力を強力な陽光魔術で記憶ごと封印したんですから」

「封印……?」


 今の陽光騎士団長ってことは、紗那の義理の父親みたいな人だよな。その人が俺に接触し、なぜか宿していた暗黒の力を記憶ごと……ダメだ。やはり思い出そうとして思い出せるもんじゃない。

 だが、紗那がここで嘘をつく意味もない。全て本当の話だとしたら、この靄がかった気持ちの悪い感じの理由はわかった気がする。

 文字通り、記憶に蓋がされていたんだ。


「取り除くんじゃなく封印だったのは、それほど先輩の力が強大だったからです。なのでいつ封印が解けてしまうかわかんねえですから、怪しまれないように歳の近かった紗那が監視を命じられたんです。極力接触はしないように任務を全うしてたですのに……まさか先輩の方から紗那に近づいてくるとは思わなかったです」

「もしかして、紗那が人を見つけるのやたら上手いのは……」

「先輩限定です。先輩にかけられている封印は発信機のような役割もあって、ぶっちゃけ紗那には手に取るように居場所がわかんです」

「あぁ……」


 だから今回も逸早く駆けつけられたんだな。ところで俺のプライベードはどうなってるんでしょうか? 聞くのが怖すぎる。


「ここからが、本題です」

「え? まだなんかあんの?」


 今までの事実でさえ頭がパンクしそうなのに、まだなにかとんでもない秘密が?

 紗那は自分の胸元に手をあてるようにして――


「もし先輩が記憶を取り戻したいと言うなら……紗那の独断で封印を解除してあげんです」


 真剣に、真摯に、そう提案してきた。


「え? いいのか? でもそれだと」


 俺にとっちゃありがたいことだが、それは陽光騎士団を裏切るようなものだろ?


「まあ、間違いなく怒られんですね。厳しい処分を下されるかもしんねえです。でも、それでも紗那は先輩が望むなら封印を解くです」


 紗那は強い意志を宿した瞳をして告げる。


「なんで、そこまで……?」

「これは先輩をずっと騙していた紗那の贖罪です。封印を解くことで力が暴走したりするかもしんねえですが、その時は紗那が責任もって再封印すんです」


 暴走。

 そうか、封印されてるのは記憶だけじゃないんだ。


「それにさっき先輩が気を失っている間に調べたですが、どうも封印は解けかかってるみてえです。どの道、このまま放置するわけにもいかねえんです」

「じゃあ、あの灰色の光が封印されていた暗黒の力ってことなのか?」

「その可能性はあんです。『灰色』ってところが気がかりですが」


 アンネリーゼやロロットが使う暗黒魔術はほとんどが闇かそれに近い色をしていた。もし俺の放った力が全くの別物なのだとしたら……余計に謎が増えちまうな。

 だから、今は力の正体について考えない。大事なのは、記憶の方だ。


「紗那には誰よりも先輩を見てきた自負があんです。封印を解いても、先輩なら大丈夫だと紗那は信じてるです」


 恐らく……いや間違いなく、封印された力と記憶はアンネリーゼも関わっている。だったら、封印を解かなければなにも始まらない。始められない。

 力はともかく、記憶はちゃんと思い出さないと再びあいつに会う権利すらない。そんな気がした。


「わかった。頼む。やってくれ」

「……いいんですね?」

「ああ、もし上司に怒られるようなことになったら俺も一緒に頭を下げるよ」


 覚悟は決まった。いや、最初から断るつもりなんて微塵もなかった。

 紗那は立ち上がると、両手を重ねるようにして俺の頭に触れる。


「力を抜いてくださいです。今、封印を解くです!」


 紗那が封印解除の陽光魔術を発動させた瞬間、純白の輝きが俺の視界を埋め尽くした。

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