第33話 夢の終わり

「は?」


 あまりに唐突で、意味不明な出来事に、クラスメイト全員が凍りついた。


「なん……で……?」


 青褪める。窓の外を見る。さっきまで隙間なく曇っていたはずの空には、僅かに切れ間が生じて日光が差し込んでいた。

 まるで世界が拒絶するかのように、この教室を狙い撃ちして。

 誰かが悲鳴を上げる。それを皮切りに教室中が騒然となる。


「忠臣どういうことだ!? アンネさんが燃え――」


 俺に詰め寄ってきた杉本だったが、突然糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。

 見ると、他のクラスメイトたちも同じように意識を失っている。


「今度はなんだ!? どうしたんだお前ら!?」

「喚いていないでアンネリーゼ様の炎を消してください生ゴミ! 太陽に邪魔されて私の暗黒魔術では消せないのです!」


 どこからともなく声が聞こえてきた。


「ロロットか!? くそっ」


 俺は言われるままに廊下に設置されている消火器を持って来てアンネリーゼの炎を鎮火させる。人に向けるなとか言ってる場合じゃない。今更だ。

 杉本たちはロロットが眠らせたのだろう。よくよく見れば小さな黒い魔法陣がそこらに展開されているな。


「アンネリーゼ、無事か?」


 幸いにも雲の切れ間はすぐに埋まった。だが、炎は消えても黒焦げのアンネリーゼはぐったりしたまま返事をしなかった。燃えなかったのはデート中に日焼け止めを試し塗りした右腕だけだ。


「ど、どうしたんだよ? いつもみたいにケロッと起き上がれよ」


 意識がないのは、もしかしてロロットがアンネリーゼまで眠らせたからだろうか? それならいいんだが……いや、そう思いたい俺がいるだけだ。


「やはり、こうなってしまいましたか」


 すぐそこの机の影から、濃紺髪のメイドが浮き上がってきた。


「ロロット、お前どうして……?」


 暗黒魔界に帰ってたんじゃ? まさか、帰ったフリしてずっとアンネリーゼか俺の影に潜んでいた?


「アンネリーゼ様をこちらへ。応急処置をします。あー、人目を気にする必要はありません。彼らは眠らせましたし、人払いの暗黒魔術を使用しておりますので我々に縁のない者は近づけません」


 だからこれだけ騒いだのに、誰も様子を見に来ないのか。

 言われるままにアンネリーゼをロロットに預ける。ロロットはそっと屈むと、魘されるように呻いている彼女に掌を翳し、暗黒の魔法陣を展開。黒焦げだったアンネリーゼが時を巻き戻すかのように治癒されていく。相変わらずすごいな、暗黒魔術の治療は。

 それでも、アンネリーゼは目を覚まさない。


「どうしてだ? この前は、平気だったのに」

「平気なわけないでしょう。アンネリーゼ様の体内の暗素が著しく欠乏しています。恐らく、太陽の光を浴びていた時間が長かったせいです」

「そんなに長い時間だったか? 最初は短期間に三回も燃えたはずだぞ」

「今回の話だけではありません。夜には多少回復するようですが、それでもこの数日間で徐々に減っていて、今回がトドメとなったのでしょう。……だから、言ったのです」


 そう言ってロロットはアンネリーゼをお姫様抱っこして立ち上がった。変態的に好いている主が瀕死の重傷を負ったというのに、ロロットは怖いくらい冷静であり、冷徹な目をしている。

 嫌な予感がした。


「アンネリーゼを、どうするつもりだ?」

「暗黒魔界へ連れて帰ります。二度とこちらの世界に関わることはないでしょう」


 淡々と冷酷に告げるロロットは、既に俺なんて眼中にないと言うように踵を返した。

 二度と、だって?

 そんなの、アンネリーゼが望むはずがない。今連れて行かれたら、せっかくアンネリーゼが手に入れかけていた大事なものを失ってしまう。本当に、もう少しだったんだ。

 昨日、いや、一昨日までの俺だったら喜んでいただろう。でも、今は違う。

 ここでロロットを行かせるわけにはいかない。


「待ってくれ! 今日は曇りだからって楽観していた俺のミスだ! お前の判断もわからなくはない! だがせめて、アンネリーゼの意識が戻るまで――」


 瞬間、振り向いたロロットの正面に掌サイズの魔法陣が出現。そこから射出された暗黒の弾丸が高速で俺の胸部に直撃した。


「がはっ!?」


 肺の中の空気が一気に押し出され、吹っ飛んで教室の壁にぶつかり、床に転がる。

 なんだこれ? 死ぬほど痛くて、苦しい。

 だが、意識はある。

 それを途切れさせてはならない。強く奥歯を噛み締め、重い体に鞭を打って、顔を上げようとし――ロロットに頭を踏みつけられた。


「その通りです、生ゴミ。あなたのミスです。あなたがアンネリーゼ様に余計なことを吹き込まなければ、このようなことにはなりませんでした」

「……なんだと?」


 俺が、吹き込んだ?

 なにを言ってるんだ、ロロットは?


「しかも当人は綺麗さっぱり忘れている、と。本来ならば塵芥一つ残さず消し去りたいところ、今回はアンネリーゼ様に免じて命までは奪わないでおきます」


 ぐりぐりと靴底で捩じられるが、俺は痛みを感じるどころではなかった。

 忘れている? 俺が? なにを?

 わからない。

 わからないわからないわからない。

 こんな時も記憶の底は靄がかっていて断片すら浚えない。ロロットが嘘をついているとも思えなかった。本当のことだからこそ、心にこれほど抉り込んでくる。


「いや……だ……」


 と、意識を失っているはずのアンネリーゼの口が微かに動いた。


「……やく……そく」


 その言葉が聞こえた途端、俺の脳内に電流に似たなにかが駆け巡った。


 ――あたしはアンネリーゼ・フィンスターニスよ。わかるでしょ?

 ――なんでわかんないのよ!

 ――……叩けば直るよね?


 初めてアンネリーゼと会った時、あいつは、俺のことを知っているようだった。

 じゃあ、なんで俺は知らないんだ?

 もしそれを、忘れているだけなんだとしたら――


「いけませんね。アンネリーゼ様がお目覚めになる前に暗黒魔界へと戻らねば」

「待て……」


 影移動で俺の家にある暗黒魔界の出入口まで戻るつもりだろう。足下の影に沈もうとするロロットに、俺は痛む体をどうにか起こして手を伸ばす。今、アンネリーゼを連れて行かれてはならない。

 本能的な危機感が、俺にそう訴えてくる。


「待てって」


 ピキリ、と。

 心の深い場所に亀裂が入るような音を聞いた気がした。


「言ってんだろッ!!」


 刹那、俺の体から光が放出された。


「えっ……?」


 白っぽい黒。黒っぽい白。

 冷たいけど暖かい。

 暗いけど明るい。


「なんだよコレっ!?」


 そんな『灰色の光』が今まさに影移動を行おうとしていたロロットを呑み込まんと迫る。暗黒でも陽光でもない。俺自身も自分から放たれた謎の光に驚愕する。

 だが、それを考えるのは後だ! 今は目の前に集中しろ!


「この力は……チッ!」


 だが、舌打ちしたロロットが高速で暗黒魔術を展開。周囲に闇の防御壁を張り、さらに俺の頭上から数多の弾丸をぶち込んだ。


「うがあッ!?」


 元々ダメージを受けていた俺に避けられるはずもなく、何発か直撃をくらって再び床に這いつくばってしまった。

 灰色の光が幻のようにフッと消える。


「少々驚きましたが……生ゴミ、あなたが何者なのかは問いません」


 ロロットは僅かに冷や汗を掻きつつも、アンネリーゼを抱えたまま影の中に片足を突っ込んだ。

 ロロットが影に沈んでいく。ダメだ。もう追いつけない。


「今後は暗黒魔界を開こうとなどせず、この世界で静かにくたばることをオススメしますよ。これ以上、アンネリーゼ様のお体とお心を傷つけないためにも」


 それだけ言い残すと、ロロットとアンネリーゼの姿は完全に影の中へと消えていった。


「アンネ……リーゼ……」


 残された俺は途切れそうになる意識で懸命に手を伸ばすが――

 届くはずもなく、掴むのは虚しくも空気だけだった。

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