#5 「すすめ」
何もない一日というのは、退屈だ。
がんじがらめになった足。それが意味するのは褪せてしまった目標。
諦めてしまったのなら、後は何も残らなかった。
今まで積んできた努力も、褒められた経験も、出した結果も。
だから、もうアタシは終わったんだ、と。
そんな考えに囚われていたから。
「この本、今度の課題図書なんだけど、読んでみるのはどうかな──茉莉さん?」
手渡された絵本。
薄っぺらくて頼りなさすら感じたそれを、気まぐれで開いてみたこと。
巡り合わせというのは、往々にして不思議なものだ。
* * *
買い込んだドリンクのケースを両手で抱え、坂道を上っていく。
視界を滲ませる陽炎、額からは汗が吹き出す。鈍く息を吐いた。
マリーさんの絵本制作ももう佳境だ。
締切まで残り一日、残されているのはワンシーンだけだったから、どうにかなるものなのだと思っていたけれど。
『……あぁっ!』
昨日の作業終了時、苛立たしげにペンを置いたマリーさんの姿をふと思い出す。
ここ二日間進まないほどに、そのワンシーンというのは厄介なものだった。
人魚となった主人公はあまりにも見つからない指輪を前にして諦めようとする。
それでも、苦悩の末にどれだけ困難だろうと前進していくことを選び取る。指輪を見つけること、その一点の目標のために。
作中でも大きな意味を持つシーンだとマリーさんは言っていたものの、昨日は結局終わらずに、まだ保留としたまま今日も作業続行と相成ったのだ。
ようやく、特徴的な柱が見えてきた。やっとのことで『クリザリッド』に帰ってきた。
室内に入る前に、と。一旦下駄箱に荷物を置いて汗を拭く。
いくらマリーさんがなりふり構わずに作業に取り掛かっているとしても、最低限のマナーは守るべきだ。
「あなたが、ハマさん?」
と、その時、ふと後ろから声をかけられた。
振り返ると女性がいた。大体30代前半ぐらいだろうか、見た目自体はまだ若々しいけれど、笑った目元には僅かにシワができている。
「……井ノ花、浜音、です。ハマ、とも呼ばれてますけど……」
「聞いてるわよ。あなた、マリーちゃんのところで雑用をやってるんだって。あ、自己紹介がまだだったわね。私、”
実質的な大家、そもそも『クリザリッド』の提案者。
つまるところ、彼女がここを絵本作家が集う場所にした張本人なのだろう。
「……ということは、赤城さんも絵本作家なんですか?」
「でなければ、入居者を絵本作家か絵本作家志望だけなんて、固めたりしないわよ。ところで、浜音くんは一人暮らしをしているでしょう?」
「はい……その、一応は……」
「その若さで、凄いわね。本当、私の娘にも見習わせたいぐらいよ。あなたと二才ぐらいしか変わらないのに、ずっと私にベッタリで……」
しばらくの、当たり障りのない世間話。
ともすれば、それは探り合いにも近しいものだ。
なるべく距離感を取りながらも、一つでも多く相手のことを知るための、そんな儀礼的なもの。
「話しすぎちゃってごめんなさいね、最後に一つ、あなたに伝えなきゃいけないことがあるのよ」
早々にそれを切り上げたのは、赤城さんの方からだった。
俺も急いでいる頃だし丁度いい──と、思っていた矢先、ポンと手を叩くと、さも今思い出したかのように、彼女は口にした。
「マリーちゃんのことなんだけどね、彼女、体調が悪いみたいなのよ」
「……寝不足、とかじゃないんですか……?」
確かに、昨日もマリーさんは調子悪そうにしていた。
だけれど、それはあくまでも原稿が上手く行っていないからとか、そうだとばかり思っていたのだけれど。
「……昨日の晩、廊下を歩いている時に急に倒れてね。たまたまそこに私が居合わせていたの。本人ンは目眩だって言ってたんだけど……額、熱かったのよ」
それが意味することはただ一つだ。
疲労と、きっと、それに伴う──。
「……熱、まで。止めなかったんですか?」
「止めたところで、よ。ここまで本格的に体調を崩したのは今回が初めてだけど、作業に打ち込みすぎてマリーちゃんが体調を崩したことは前にもあったわ。その度に注意するんだけど……」
その先に続く言葉は、何となく予想できてしまった。
きっと、マリーさんのことだから、大丈夫だって言い張って強がって、そしてまた作業に戻ってしまうんだろう。
「……なまじ、気持ちがわかる分、私には強く止めることができないから。良かったら、浜音くん、あなたが気にかけてあげてね?」
瑠璃ならきっと、こういう時に上手くやるのだろう。
ただ、俺には、そこまで自分が器用だって。そう言い張れるほど、自信がない。
* * *
「……はい。はい、間に合うかと思います。……ええ。今回もよろしくお願いします」
部屋に入って真っ先に見たのは、電話越しに頭を下げるマリーさんだった。
謝っているのに近しい形だったけれど、ただ、それはきっと、体調が悪いから締め切りを引き伸ばしてくれ、と。そう伝えるための電話じゃない。
「……おう、ハマ。そろそろ瑠璃も来るはずだ。今日もよろしく頼む」
締め切りには間に合うから、と。退路を絶つためのものだ。
実際、話に聞いていた通り、明らかにマリーさんの体調は悪いように映った。
呼吸も荒ければ、顔色もさほど良くない。そのうえで、目元には相変わらずクマが深く刻まれている。
そして、机には資料と原稿。体調が悪いくせして休んでいなくて、しかも、俺に話しかけるとすぐに作業に戻ってしまう。
「……体調、悪いんじゃないんですか……?」
その顔を見た瞬間、上手くやろうとか、どうフォローしようかとか、考えていた言葉は全て吹き飛んだ。ただ、危なっかしかった。このまま俺が放っておいたら、マリーさんがどんなことをしでかすか、ちっともわからなかったから。
「なに。これぐらい、いつもの……」
「……熱、出てるんでしょ」
ピタリと作業に勤しんでいたその手が止まる。
その瞳が、俺の方を向いた。
「……誰から聞いた?」
「赤城さんからです。一度、倒れたって……」
そう言った途端、マリーさんは背もたれに体を預けて、バレたか、と。
眉間のあたりを揉みながらも、そうぼやいた。
「……どうして、そこまで拘るんですか?」
──締め切りにも、作品にも。
金を稼ぐだけだったら、他にやりようはある。
編集にだって、嘘を吐かずに素直に体調を崩しただけだ、とそう伝えれば良い。
だというのに、何故そうしないのか。
逃げ出したって良いぐらい追い詰められているのに、どうして、逃げようとしないのか。
「……少しぐらい、休んだほうが……」
強く、紙とペンが擦れた。
熱が出ようと、肩が震えていようと──まだ、光を失わない。
その瞳は、爛々と熱を灯したまま、再び原稿に向く。
「──休んで、どうなる」
もう、こちらには一瞥もくれないままで。強い語気だった。
「信用ってのは、貯金みたいなもんだ。今回締め切りを守れなかったとすれば、確実に編集からは悪印象を抱かれる。そうしたら、仕事が次はもらえないかもしれない。まだ、アタシはそれぐらいちっぽけなんだよ」
前もそんなことを言っていた。
アタシ如きは、と。風にでも吹かれたら、自分はすぐにでも飛んでいってしまうぐらいに弱いから。それでも、ここに居続けるために書くのだと言った。
「だから、これぐらいの熱、なんてことない。ぶっ倒れるのは終わってからでいい──」
きっと、マリーさんを突き動かしていたものは、激情は、ここで倒れるのをよしとしなかった。
しなかったから、こうして机に向かい続けているのだ。
「それだけ──」
環境に流されるまま、諦めた俺と違って。
「それだけ、私はこれに懸けてんだ。生き残るために、こいつを完成させるんだ……!」
マリーさんは──決して諦めないのだ。
「こんにちは、浜音くん。それと──」
その横顔を眺めることしかできないまま、立ち尽くす俺の後ろから、瑠璃が顔を覗かせた。
まだ状況を知らない彼女がいつも通り、自分の机に座ろうとして──。
「……あれ? マリーさ」
その時、異変は起きた。
──カラン。
その手から滑り落ちて、転がったペン。
途端に、その背中から力が抜ける。
「──え」
マリーさんの体が、その場で崩れ落ちた。
* * *
* *
*
「……熱、39度越えてた。どれだけ、無理してたの……」
何とかスペースを用意して敷いた布団。そこに体を横たえるマリーさんの顔を見て、瑠璃はそう口にした。
その顔色は、倒れて作業を無理やり中断せざるを得なくなった時から余計悪くなったように見える。
何かにうなされているのか、時々うわ言を口にしては、その表情が歪む。
「これ、締め切りに間に合うのか……?」
気になったのはその一点だった。
先ほどまでのマリーさんの語りを聞いてしまったから、その熱の一端に触れてしまったから。
彼女の望みが叶うのか、気になっていたのだろう。
「……間に合わないよ」
だけれど、瑠璃は首を振った。
「……最悪、ラフは上がってる。仕上げはあたしがしたとして……それでも、文字を埋められない……」
絵と文字の両方がなければ、絵本は成立し得ない。
だからこそ、それが意味するのは、完成しないということ。
マリーさんの絵本は完成しないのだ、締め切りまでには。
「……もう」
だというのに、マリーさんの瞳は開いた。
幾度もの瞬き、俺達を捉える視線はどこか虚ろで、焦点は合わないままで、体調が尚更悪化しているのはひしひしと伝わってきた、けれど。
「……もう、諦めるのはたくさんだってんだ……」
起き上がろうとしていたマリーさんの体が再び崩れ落ちる。
支えるために伸ばした手、その体はあまりにも熱い。とても書ける状態だとは思えなかった。
それでも、彼女が悔しげに吐いた言葉が何を意味していたのか。
「……もう、諦めるのはたくさん……?」
「……アタシもさ、ハマ。お前みたいに一度、何かを諦めなきゃいけない状況に追われたことが……ある、んだよ……」
咳き込みながらもマリーさんは言う。
何かを諦めなきゃいけない状況──環境だった。母親に咎められて、俺は小説を書くのをやめた。
「……小学生の時はさ、アタシ、陸上やってたんだ。でも、一度事故って、足やって、そのまんまやめるしかなくなった」
事故で足をやった。
ふと以前、公園に行った時のことを思い出す。その時も確かマリーさんは歩きづらそうにしていた。
そして、展望台で彼女が口にした言葉。それは、確かに一度何かを諦めてきたような口ぶりで。
「……だけど、手は動いた。色々あったよ……ほぼ奇跡みたいな巡り合わせで、アタシはまた打ち込めるものに出会えた……」
だとすれば、彼女が口にしていたことは繋がった。
一度、何かを諦めた先。その先で、俺は何にも出会えなかった。
一年間、どこか胸にぽっかりと穴が空いたかのように過ごして、その末に──手痛い目にあった。
だからこそ、もしもその時に出会えたものがあったとしたら、俺は……いや。その時なんて、過去の話じゃない。
「……だから、今度こそこいつを……捨てたく、ないんだ」
今、出会ったのだ。
「……マリーさん、一つ、提案させてください」
「……なんだ、ハマ」
睨みつけてくるマリーさん。
それは敵意すらはらんだもので、もしかしたら、俺が止めようとしているとでも考えたのかもしれない。
──それに、意味はあるの?
間違っているかも知れない。
結果的にはマリーさんを休ませる方が後々を見据えれば優先するべきことで、ここで俺が出しゃばる理由だってないのかもしれない。
ただ──今は、意味なんてどうでもいい。
『世界を捉えて、それを自分の中にもう一度作り直す──それはね、誰にだってできることだって、あたしは思う』
やりたい、諦めたくない。
そうしたいからやる、それ以上の意味なんてない。
「……マリーさんのストーリーライン、それに沿って、俺に言葉を紡がせてください」
頭を下げる。
先程まで俺を睨みつけていた瞳が、大きく見開かれた。
「……なるほど。そう来たか」
顎に手を当てると、マリーさんは考え込むような仕草を見せる。
彼女が精魂込めて練り上げてきた作品。そこにまだ出会って四日ほどしか経っていない俺が手を加えるというのだ。
むしろ、断られて当然だったとでも言うべきだったかもしれない。
「……わかった」
それでも、マリーさんは頷いた。
「資料は……机にある。絵は、瑠璃に回せ。アタシも、できる範囲で手を貸す……。だから……」
俺の手を握ると、祈るように目を閉じた。
「……頼んだ。アタシの、大切な
* * *
マリーさんの絵本。その中でも、今から俺が書いていくのは保留となっていた部分。
人魚となった主人公の”メイ”が如何にして、前進することを選び取るか。
「……他者の介入は無し、か」
それは誰かに諭されて、そうするのだと決めたことじゃない。
自分の中で葛藤した末に待っていた、自らの選択。
だとすれば、注力するべきは心情描写だ。メイの内面を切り取って、どう表現するか。そこに、勝負はかかっている。
「あの、マリーさん。この作品のテーマって……」
先程からマリーさんは、何度も寝ては覚めてを繰り返している。
そうして熱に苦しんでいる中でも、端的に彼女は答えてくれた。
「──『諦めないこと』。それが……アタシの表現したかったことだ」
返ってきた答えは、マリーさんらしいもの。
指輪──今の状況に置き換えるならば、それを手に入れることが目標の達成──つまり、作品の完成。
マリーさん自身と重なる部分もあった。
それならば、直情的に。
ストレートな表現で、この先の言葉は記す。
『”けれど、メイは戻ろうとはしませんでした”』
この先は深海、引き返したほうが良いかもしれない。
さらなる困難だってきっと、待ち受けている。それでも、主人公は進むのだ。
ただ自分が望むもののために。リスクは顧みずに。
『”わたしがここで引き返したら、もう指輪は戻ってこないわ”』
諦めてしまうこと、そちらの方がよっぽど辛いことだから。
それを、俺は知っているから。
『”そんなのはいやです。今までずっと探してきて”』
決して、諦めて欲しくないから。
『”探してきて、探してきて、探してきて。頑張ってきたことを、なかったことにはしたくないのです”』
だからこそ。
『”わたしは、進むの”』
彼女は、前に進むべきなのだ。
* * *
「……なるほど。こう仕上がったか……」
欠けていた一ページ。
完成したそれを眺めるのは、編集が来るというギリギリの時間まで寝ていたおかげで、昨日よりは幾分か熱の下がったマリーさんだ。
「……どうですか」
原稿を渡した後から強張ったままでいる手。
どうにも、目の前で今、自分が書いたものを誰かが読んでいる──どうにも久しぶりだったから。
その事実が、俺を緊張させていた。
マリーさんの反応一つ一つが気になって仕方がない。
眉を潜めたか、瞬きの回数が多くなっているか、どんな表情で、どういう風に俺の作品を読んでいるのか──知らなかった。自分の作品を読んでもらう、というのがここまで緊張するものだということを。
「……ふむ。瑠璃はどう思った? 昨日、これを読んだだんだろう?」
「正直で、自分の内面を描き出したもの──浜音くんらしい表現で、あたしは好きだと思った。ただ、ね──」
そうして、瑠璃が何かを言いかけた時だった。
「こんにちは、千寿さん。それに……鴨目さんも」
不意に開いた後ろのドア。
そこから現れたのは、三十代半ばぐらいの男性だった。
にこやかな笑みを湛えていて、礼儀正しく、部屋に入ってくる時の所作も整っている。
その歩幅が揃っているのも、今がちょうど到着すると言っていた時間の5分前なのも、彼のきっちりとした性格が目に見えるようだった。
「ところで、あなたは?」
けれど、俺を見つめたその目。
それだけは笑っていなかった。
「……井ノ花浜音。マリーさんに雑用として雇われています」
「おや、これは失礼。挨拶がまだでしたね」
名刺と共に、俺に向けられたもの。
その笑みはどこか薄ら寒いものだった。
「才田と申します。こちらの──千住茉莉さんの、担当編集をしております」
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