#4 「ゆめ」

「それに、意味はあるの?」


そんなこと、知るわけもなかった。

四角く縁取られたマス目、そこに幾度も幾度も文字を刻んでいく行為。

それで、たまたま穴が空いた場所にピタリとはまるものが見つかると、頬が緩む。


「……やってて、楽しいよ」


言うなれば、その喜びのために続けていただけだから。


「ただ楽しいだけなら、我慢できるでしょう?」


絶たれたとて、死にはしなかった。

ならば、それには──本当に、意味があったのだろうか。


* * *


目が覚めると、白い天井があった。

天井だけじゃない、自身を取り囲む壁も、真っ白な壁紙で覆われていて、何より俺自身は固いフローリングの上で寝ていた。


そういえば引っ越してきたんだったな、と。

意識が明瞭になるにつれ、思い出す。


それにしても、昨晩はよっぽど疲れていたせいか、そこまで良くない夢を見ていた気もする。

寝覚めの悪さに欠伸を一つ、午前中は家具の搬入、午後からはマリーさんのところでバイトだ。


一人暮らしを始めるのだからしゃんとしなければ、と。

洗面所に赴き、蛇口をひねる。

水は出てこない。どうやら水道の開通が終わっていないようだった。


* * *


* *



「こんにちは、マリーさん」

「おう、ハマ。早いな、殊勝な心掛けだ」


マリーさんのところで迎えたバイト二日目。

まだ瑠璃は来ていないようで、部屋に上がって出迎えてくれたのはマリーさん一人だった。

そして、その様子はと言うと──やはりというべきか、昨日よりも悪化しているようだった。


メイクは剥げて半ばすっぴん、クマは相変わらずで、顔色に至っては昨日よりも悪く見える。


「……昨日、ちゃんと寝れたんですか?」

「いや……締め切りにうなされて……どうにも、アタシはこれを終わらせなきゃいけないみたいだ」


こちらに一瞥くれただけ、マリーさんはすぐに作業に戻ってしまう。

カリカリと、ペンが紙面を行き来する音が木霊する。

その勢いは昨日からちっとも衰えていない。相当に集中しているようだ。


邪魔しないように、物音を極力抑えつつ、俺も頼まれていた食料を戸棚に詰める。

引っ越し作業で疲れた体が悲鳴を上げた。


「そうだ、瑠璃のやつ呼んできてくれないか? 本当ならそろそろ来るはずなんだが……」


ふと時計を見やると、既に瑠璃が来る予定だった時間を過ぎてしまっている。


「まあ、寝ているようだったらやんわりと起こしてやってくれ」

「もう午後ですよ……?」

「ものづくりの最中ってのはな、そういうことが往々にしてあるんだよ」


こちらに視線を向けるマリーさんの口元は、僅かに緩んでいる。どこか訳知り顔だ。


「……わかりました」


短く答えると、机に向かうマリーさんに背を向けて俺は部屋を出た。

寝ていたら厄介だな、なんて。どこか他人事のように考えながら。


* * *


「……出ない……」


案の定、というべきか。マリーさんの予想は当たってしまったようだった。

先ほどから何回もノックを続けているけれど、瑠璃が部屋から出てくる様子はない。

それに、留守でもないのはわかっていた。かすかな寝息が、ドア越しにでも聞こえてくるから。


ゴクリ、と唾を呑む。

寝ていたら起こせとマリーさんに言われたわけだけれど、女子が寝ている部屋に単身乗り込むのだ。

どうにも恐ろしさを感じつつも、気が立っているマリーさんのところに収穫無しで帰る方がよっぽど怖い。


意を決してドアを開ける。

と、そこには──机に突っ伏して眠る瑠璃がいた。

どうやら作業の途中で寝落ちしてしまったらしい。

机の上には画材が散乱し、スケッチブックは開きっぱなしだ。

絵本作家は皆、夜を徹して仕事に明け暮れるものなのだろうか。


顔が乗ったスケッチブックには前に見なかったカタツムリが増えている。殻に閉じこもったカタツムリとそれを覗き込むカタツムリ、二匹だ。


この間見たのは全部一匹ずつだったはず──と。

そんなことを考えつつも。


「瑠璃さーん、朝ですよ」


耳元でそこそこ大きく声を出してみる。


「むにゃ……」


ちっとも起きる気配はない。

それどころか、嬉しそうに口元が緩む。

口の端から垂れたよだれが紙に付かないか見ていて不安で仕方がない。


「マリーさんが呼んでるぞ」


軽く体を揺らしてみる。

思いの外軽いもので、力を入れてしまったら倒れてしまいそうだ。やはり、大学生にしては小柄なものだと思う。


「……ん」


ようやく反応が見られた。

ぱちくりと瞬き、薄っすらと瞳が開く。


「おかー、さん……?」

「……違うわ」


今度こそ、ぱっちりと瞳が開いた。

瞳の奥、湛えられた光が揺れる。

目の端に溜まった涙が、浮き上がって零れた。


「……なんだ、浜音くんか」


その表情には、笑顔の残滓が残っていて。


「甘えようとして、損した」


だけれど、冗談めかしてそう口にした割に、目元まではちっとも笑っていない。

瞬き一回、浮く雫。どこか、悲しげな表情だった。


* * *


「うっわぁ……悪化してる……」


マリーさんの部屋に辿り着いて真っ先に瑠璃はそう漏らす。

実際、昨日よりも悪化しているのは俺も自分の目で見た後なので、思わず納得してしまう。


「ああっ、くそっ! 戻っちまったんだ、保留してた分に……!」

「それで。今朝から机に向かって何ページ進んだの?」

「……まだ、一ページ……」


有無を言わさぬ口調で瑠璃は聞く。

マリーさんの返答も、徐々に尻すぼみしていっていた。


「ねえ、マリーさんが今書いてたのって、海の話だったよね?」

「……ああ。人魚の話、だな」

「よし。決めたっ! 出かけよう、マリーさん」


それを聞いてすぐに、案の定と言うべきか。マリーさんの顔は顰められた。


「……出かけるって、現状を知ってて言ってるのか……?」

「知ってるに決まってるでしょ。あたし、マリーさんのアシスタントなんだから。だからね、もう一つ。このままじゃ絶対に終わらないでしょ」


それはどうやら当たっていたようで、マリーさんはうぐっとばかりにのけぞった。


「……いつも妥協しないんだもん。アナログとデジタルで二度書きして、ただでさえ時間かかってるのに、ずっと原稿と向き合ってるから、余計に頭が回らなくなる──豊かな創作は豊かな生活から、だよ?」


しどろもどろとした様子で、視線を泳がせながらも。

それでも、マリーさんは必死に反論しようとしていた。


「で、でも……っ、こんな状態で出かけたら、アタシはアタシのことを……」

「……許せなくなる、でしょ? だったら、取材ってことにすればいいじゃん」


まあ、実際になにか課題を残したまま出かけた時の罪悪感というのは、俺にもわかる。

ただ、そういう時ほど気分転換が大事なのだ、と。瑠璃が言っているのはそういうことだ。


「あたしに、アテがあるんだよね」


口元を吊り上げ、にっこりと瑠璃は微笑む。

端から見ればいい笑顔なのだろうけど、その奥にはどこか薄ら寒くなるものを感じる。


「……わかった。……行こう」


流石のマリーさんも、これには頷かざるを得ないようだった。


* * *


「……本当に、早いな。若いもんってのは」


汗を拭い、やたらといい表情でマリーさんは言い切った。


「……いや、マリーさんだって十分若いじゃないですか……」


──『港の見える丘公園』。


ここは『クリザリッド』からそう遠くない。

小高い丘は緑に覆われ、木漏れ日が道を照らす中で。

鬼門は、その手前の階段だった。


夏の蒸し暑い空気の中、足をひたすら上へ上へと運ぶ。

階段如き、と言わんばかりに瑠璃はものともしない様子で駆け上がっていき、運動不足の俺はひいこら言いながら汗べっとり。


予想外だったのは、マリーさんだった。


「アタシにしてみりゃ、こういうところを上るっていうのは中々難儀なもんだ」


俺よりも更に数歩遅れて、休み休み上っている様子。

連日徹夜を繰り返しているだけに体力はあるものだと思っていたのだけれど、案外運動は苦手なのだろうか。


「あ、二人とも! やっと来た!」


腰に手を当て、てっぺんから瑠璃は俺たちを急かす。

全く、頑張って上っている身にもなってほしい。

自業自得だと言われればそれまでだが。


「さ、こっちこっち!」


上りきって早々、瑠璃は駆け出す。

何がそこまで彼女を駆り立てているのかと、半信半疑でついて行って──。


「おお……」


思わず、感嘆の声が漏れる。


海が広がっていた。

展望台から見下ろすようにして眼下いっぱいに視界を埋め尽くす青。

それを瞳に取り込むために、目を見開く。

遠くに見えるのはコンビナート、ところどころぽつぽつと貨物船が海を往き、手前には高速道路がかかっている。


そんな景色を一望できる展望台で、手すりにしがみついて身を乗り出しながらも。


「”さざめく水面、揺れる木の葉。青と緑にそれと白、もくもく雲が浮かんでました”──どうかな? こういうの」


瑠璃は、そう口ずさんだ。

玲瓏に紡がれた言葉は瑞々しさすら感じさせるもの。


「……それ、なんなんだ?」

「トレーニング。情緒豊かに情景を紡ぐのは絵本作家の必須テクだもん」


確かに俺の琴線にも触れる部分はあった。

瑠璃はいつもどこか浮いている。ともすれば、そんな彼女が口にする言葉だって然り、目の前にある景色から綺麗なものを切り取って、それだけを詰めて、瓶詰めにしたようなものだ。

雑多なものが並ぶ中で、その瓶だけが浮いている。そういう感性を彼女は持っているのだろう。


「ね、浜音くんもなんかやってみてよ」


不意にされた、そんな提案。一瞬身が強張る。

言葉を紡ぐ、記す。ひたすらに模索する──表現を。

その過程が、俺は──。


「……いや、俺には……」

「世界を捉えて、それを自分の中にもう一度作り直す──それはね、誰にだってできることだって、あたしは思う。どういう風に作り直すかは人によって違うんだけどね」


はにかみながら、瑠璃は言う。

どんなに俺が殻にこもろうと、首を振ろうと、そんなものはお構いなしに。


「だからね、浜音くんがどんな風に作り直すか──あなたの表現、それをあたしは聞きたいんだ」


殻をこじ開け、頷かせ、彼女は無理やり腕を引っ掴み、連れ出すのだ。


「……わかったよ」


どうにも、断るのが憚れるような、そんな瞳でこちらを見つめてくるのだ。


とはいえども、言葉を紡ぐこと──この景色を表現すること。

久しぶりだったがゆえに、どこを起点に世界を再構築するか。そんな感覚がどうにも掴めない。

だからこそ、ただただ指針にすべきは自分。

ふと世界を見つめて、どこに目が留まったか、その一点にある。


「”自動車、船、コンビナート、水面は静かに波打つけれど、人々は忙しなく──”」


そうだ、人の営みだった。

俺がどれだけここで立ち止まっていても、目的を見失っていても、周りは決して待ってくれない。

こうして展望台から眺めた海に意味は見いだせなくて。

逃げ出した先でどうにも一人になって、俺は──。


「……寂しい」


その言葉が、口を衝いて出た。


「……海を見てても、景色じゃなくて。言葉になるのは自分の感情──浜音くんって、正直なんだ」


思わず漏らしてしまった言葉の意味に気がつくまでに一拍遅れて、顔が赤くなっていくのを感じる。

瑠璃にからかわれたっておかしくない、と。そうとまで思っていたのに。


「大体、わかったよ」


真面目くさった顔で瑠璃はそう呟いた。


「……そうか」


表現すること、それは自分を晒すことだ。

どこか気恥ずかしくて、顔を背けてしまう。


「それにしても、浜音くんってこなれてるね。昔、結構こういうことしてたの?」


痛いところを突かれてしまった。

しかし、今更誤魔化したところでもう仕方がない。


「……昔はさ、小説、書いてたんだよ。……一年前にやめちゃったけど」

「何か、あったの?」


瑠璃には鋭い上に容赦ない部分があること。

このたった二日間でもそれぐらいはわかる。

その通りだ。彼女の言う通り、『何かあった』のだ。


「……やめるように言われたんだ。母さん、所謂『教育ママ』でさ、受験には不要だから──って」


不要だと、そう断じられた瞬間が忘れられない。

書くのは確かに楽しい。……あくまでも、楽しいだけだった。

失っても生きてはいけるし、時間を奪っていたのは事実だから、もっと時間的効率の良い趣味を見つければ良い──母が言う通りかもしれないと思った。


つまるところ、きっと俺にとっての執筆というのは、そんなもので。

だから、隠れて書くとか、反論し続けるとか、そんなことすらいつしかやめて、諦めてしまったのだ。


「……でも、浜音くんはここにいるよ? 受験は──」


──どうなったの?


きっと、そんな言葉でも続けようとしていたのだろう。

だけれど、瑠璃の声は遮られた。


「……そう、だったのか」


隣にマリーさんがいた。

俺を見つめて、初めて聞く、優しげな声音で。

ただ俺の頭をわしわしと撫で続けていた。


「……諦めて、やめて。体裁だけはそうやって整えたところで、そうすぐに心変わりするわけでもない。どうにも、きっぱりとは行かないもんだ」


帰るぞ、と。

そう口にして振り返ったその背中。

広場にぽつんと立ち尽くすその姿は、どこか淋しげだった。


* * *


「上げるぞ、瑠璃! 次頼む!」

「任されたっ! 浜音くん、そこの資料回してっ!」

「わかった、今持ってく!」


今日の昼までが嘘のように、外出から帰ってきたマリーさんは作業を進めていった。

すぐに保留していたページを絵で埋め、文字を刻み、みるみるうちに一ページが出来上がっていく。


「これならギリ、締切に間に合う……!」


仕事明け、眉間のあたりを押さえながらマリーさんが呟いた言葉は、確かに希望に満ちたものだった。


「……確かに、今日見た海はイメージを固めてくれた。ウチの主人公が揉まれているのは、ああいう忙しない海だ」


マリーさんが書こうとしている絵本。

その内容を端的に言い表すならば、『人魚によるもの探し』だ。


主人公の少女が母が大切にしていた指輪を海に落としてしまったことから話は始まる。

悲しむ母を想像して泣きじゃくる主人公に海が差し出したのは、人魚になる薬だった。

それを飲み、ヒレを生やして潜水能力を得た主人公は海の奥深くまで指輪を探しに行く──。


その中でも、マリーさんが真っ先に保留にしたのは人の手が入ってしまった海を主人公が苦しみながら進んでいくシーンだった。


結末は既に出来上がっている。結局、指輪は貝がその殻の中に飲み込んでしまっていたのだ。

ただ、問題はそこに至るまでの過程。


「……まあ、まだ三日ある。そこまでには終わるはずだ」


ただ、予定していたものよりもずっと早いペースで今の仕事が終わったことは大きい。

残った期間があれば、十分にもう一つの保留していた部分は書き切れるはず。


この絵本が完成するまでの五日間、それが、マリーさんの雑用としての肩書を持っている期間だ。

それが終わった時、マリーさんはきっとすぐに次の作品を書き始めるのだろう。

彼女はきっと、この仕事にそれぐらい入れ込んでいる。


「今回はあたしの大手柄だね。感謝してよ? マリーさん」


そして、その隣には瑠璃がいる。

本当にその通りだ。彼女はここで上手いことやっていっている。


だとするならば、俺は。


諦めて、逃げてきた俺は──次は、何をすれば良いのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る