#3 「かける」

「……あ、これこれ! ケースで買ってこいって、前にマリーさん言ってたやつ!」


歩道橋下のドラッグストア。

数あるケースを素通りして、瑠璃が立ち止まったのは、『眠気突破』と派手な文字が並ぶ真っ黒なケースの前だった。


「……何というか、相当なインパクトだな」

「でしょ? でも、これじゃないと効かないっていっつも言うんだ」


よっぽどカフェイン耐性が強いのか、それとも、飲みすぎたがゆえに、後天的に身についたのか。

知る由もないことだったけれど、震えが止まらない。


「……それで、これをケース二つ?」

「そうそう。前はあたし一人で持ってたんだよ? ……全く、貴重な絵本作家の卵にとって指先がどれほど大切か。あの人は……」


愚痴を聞きながらも、ケースを持ち上げる。


「……っ!」


なるほど、これは確かに重い。

一瞬、よろめきつつも何とか胸に抱く。

まずは会計まで──手提げ袋を貰えるまでが関門か。


「よく、味わっといた方が、いい、よ……。それが絵本作家になることの重みぃ……」

「いや……別に俺は絵本作家になりたいわけじゃないし」


瑠璃は顔を真っ赤にしてケースを抱きかかえている。

明らかに持つだけで必死そうだ。それなら喋るなよと言いたいところではあったけれど、それで気が紛れるなら仕方がない。


「これから、持ち帰るの……?」

「……なんでそっちが疑問形なんだよ」


会計を済ませて、ケースは手提げ袋に。

ただ、この先は坂道が続く。持ち帰る前の仕切り直しとして、俺と瑠璃はベンチに腰掛けていた。


「まあ、絵本作家は体力勝負だから。これでも案外前進してる……のかもしれないんだけどね」


道中で買ってきたソフトクリームを舐めつつ、瑠璃は呟く。

あながち間違ってはいなさそうなのが恐ろしい。

俺達の脇にある強めのカフェインドリンク、先程見てしまった深いクマ。きっと徹夜をしてまでマリーさんは作業をしていた。

酒を飲まされた、接待した、その後だろうと。


「そこまで絵本に懸けなきゃいけないのか……?」


体力勝負というか、徹夜が続けば精神面にも影響は出るだろう。それに、絵本というと子供の時に読んだものしか浮かばない。

シンプルな絵、やさしい言葉遣い。子供に読み聞かせるためのあの薄い背表紙。

そのために、心身あそこまで削りながら作業する──そもそも、そこまでかかるものなのか。どうしてそこまでやるのかって、どうにも想像が付かなかった。


「懸けてなきゃ、ここにいないよ」


何でもないような感じで瑠璃は口にした。

当たり前だとでも言うように、あっさりと。


「さ、そろそろ戻らなきゃ。マリーさん、今日が修羅場みたいだし」


コーンを一口で飲み込むと、弾みをつけて瑠璃は立ち上がる。


「浜音くんとあたしで一ケースずつ、ほんとに助かるよ。ありがとね」


ありがとう。

どこかこそばゆい言葉だと毎々思う。

感謝されるのはどうにも慣れていない。


「……別に。これぐらい、大したことないし」


だから、誤魔化すように、そう口にした。


「大したことないって……こないだのあたしが聞いたらすごい怒りそう……というか、今怒りそう」

「どれだけ沸点低いんだよ……」


射し込む斜陽、オレンジ色に染まる坂。

軽口を叩きあいながら、二人して登っていく。

どうにも果てしなく思える道を。

ぶら下げた手提げ袋に足を引っぱられながら。


* * *


「……お、戻ってきたか」


『クリザリッド』に戻って早々、死にかけているかのような掠れた声でマリーさんは迎えてくれた。

彼女の部屋があったのは瑠璃とは違って二階。


瑠璃の部屋とは違って目立つ本棚は一つ、詰められた絵本も少ない、けれど。その代わりにと言うべきか。


「マリーさん……週末に片付けるって言ってたよね?」

「それは……ほら、希望的観測……」


最初は誤魔化そうとしていたのだろうけど、瑠璃と話している間に段々と尻すぼみしていく。

それだけに、瑠璃の圧力は凄まじいものがあって。彼女がそんな態度を取るのも納得できてしまうような光景が目の前には広がっていた。


床に散乱する紙くず、缶、空になったカップ麺の入れ物etc……。

とにかく、汚い部屋だった。


「……つっても、締切がヤバいんだよ……」


髪を掻きむしりながらも、マリーさんは唸る。

と、その時。彼女の視線は俺の方に向いた。


「そうだった。坊主、ドリンク一本くれ」


ケースから取り出した瓶を手渡すと、その場で開栓。


「ぷはぁ……っ、やっぱ、こいつが一番キマるなぁ……」


一息に飲み干すと、マリーさんは息を吐いた。

キマると言っている割には、相変わらず声は疲れているようだったが。


「にしても、部屋か……。瑠璃、掃除を……」

「ダメだよ。今日はアシスタントが必要なんでしょ? 言ってたのマリーさんじゃん」

「ああ……そうだった……」


どうにも、そういったことを忘れるぐらいにはマリーさんは疲れ切ってしまっているらしい。

とはいえども、瑠璃がアシスタントとして仕事をしなければならないのならば、誰も掃除をする人間はいない、ということになる。

それなら、このまま放置しておくしか──。


「おい、坊主。掃除してくれないか」

「……え?」


なんて、他人事みたいに考えていたら、いつの間にやら俺も巻き込まれていたようだった。

……いや。流石にそろそろお暇させていただこうと思っていたところだ。

首を振る勇気、拒否。それを示す時が来たようで。


「ちなみに、給料は出す。特別に時給1300円でどうだ?」


あっさりと、その決意は揺らいだ。

つい数ヶ月前までは中学生、バイトすら許されなかった身にしてみれば、その誘いはあまりにも魅力的だったから。


「……わかり、ました」


結果として、俺は頷いてしまった。


「よし、決まりだ。瑠璃も準備頼む!」

「はいな!」


ただ、自分が足を踏み入れた場所。それがどんなものか、気づくこともないままに。


* * *


「坊主、瑠璃が使ってた色、こっちにも頼む!」

「浜音くん、真ん中の筆お願い!」


ちっとも、片付けは進まないままに。

ともすれば、部屋は作業が始まる前よりも床に落ちた画材やら、ボツになった紙やらで余計に散らかっていた。

そして、俺はというと──今のところは、瑠璃とマリーさん、まさしく修羅場にいる二人の机の間を行き来していた。


「それじゃないっ! 隣のだっ!」

「オーケー! 次、そこのデザイン画貰える!?」


まさしくてんてこまい、ようやくマリーさんの瞼にくっきりと刻まれたクマの意味を俺は理解した。

アシスタント・雑用アリでもここまで忙しいのだ。それを一人でやったらどうなるか──想像もしたくない。


「マリーさん、それ上がらない!?」

「いい表現が思いつかないんだ! 引き続き保留、次のページ行くぞ!」


飛び交う怒声、宙を舞うボツ原稿。

保留という言葉は、先程から何度も聞こえてくる。

これで進んでいるのかと思った矢先、マリーさんの悲痛な声が響いた。


「次で、最終ページ……! また、保留ページに戻っちまう……」

「でも、やるしかないでしょ!? よこして、マリーさん!」


頭を抱えていたのもつかの間、パチンと自身の頬を叩くと、マリーさんは再び原稿に向かう。


「坊主! ドリンクもう一本頼む!」

「は、はいっ!」


その迫力に、思わず声がすぼんでしまって。

渡した矢先、見えた横顔。


疲れているのか、瞼はピクピクと痙攣していて。

刻まれたクマはドス黒い。

それでも、漏れかけたであろう欠伸を噛み殺した。唇に犬歯が突き刺さる。


マリーさんは疲れている、わかりやすいぐらいに。だというのに──。


「まだ、行ける……っ!」


その瞳だけは爛々と、光を湛えていた。


* * *


「はぁ……沁みるぅ……」


目を細めて和む瑠璃。その隣でひたすら麺に息を吹きかけ冷まそうとするマリーさん。

そして、俺もまた深夜に食べるカップ麺の美味さに打ちひしがれていた。


結局、作業は日付が変わってもなお続いた。

その時間になると流石に腹も減ってくるもので、マリーさんが三人分のカップ麺を用意してくれた、というわけである。

マリーさんも一旦仮眠を取る、ということで、俺と瑠璃の仕事はここまでだ。


「にしても……締切まであと五日……重いなあ」


そのパンクなファッションとは裏腹、マリーさんのぼやきはあまりにも弱々しい。

先程の苛烈な作業工数を見てしまっただけに、納得はできるが。


「それはマリーさんが手をかけすぎてるからでしょ。ラフ、何枚描いてるの」

「手抜きはできない。アタシ如きの新人、気を抜いたらすぐに吹き飛ばされちまう」


ただ、何となく彼女がそこまで苦労している理由、というのもわかってきた。

ひとえにきっと、拘りすぎなのだろう。

シンプルな絵一枚、やさしい表現一つ、時には保留、時には案を何枚も書き散らして。

どれをとっても、膨大な時間が注ぎ込まれていること。

それは、この道のことを全く知らない俺でも理解はできた。


「なあ、坊主。結構手際良いじゃねえか。助かったぜ」


そう口にして、マリーさんは微笑みかけて──少しばかりメイクが濃すぎてわからなかったけれど──くれているらしかった。

まあ、今日限りとは言え、引っ越し早々仕事があったのは良いことだ。


「ところで、明日から五日間、締切まで引き続き雑用として働く気はないか?」

「えっ、浜音くんも!?」


驚いたかのように瑠璃が目を見開くけれど。

いかんせん、俺も驚いていた。


確かに、今晩は修羅場だった。

それがあと五日間も続くとなれば──よっぽど厳しいことは想像に難くない。


それでも、だ。

結局こっちに来たらすぐにバイトを探さなければならなかったのも事実。

少しでも早く仕送りを絶つために、必要だったこと。

それが向こうから舞い込んできたのだ。断らない手はなかった。


「……わかりました。是非、受けさせてください」

「よしっ! じゃあ坊主の仲間入りを祝って──!」

「坊主じゃないでしょ? しばらくの間一緒にやってくんだから」

「……確かに。それじゃあ……ハマの仲間入りを祝って──!」


キッチンの方からマリーさんが持ってきたのは、三本の缶だった。

赤いパッケージ、コーラに似てはいるが、見たことがないものだ。


「ルートビア! 祝いはこれに限る!」


名も知らぬドリンクがやってきてしまったことに俺が困惑している反面、瑠璃の表情はげんなりとしていた。


「ほら、遠慮せずに飲め飲め!」


昨日は自分が飲まされてダウンしたんじゃなかったのかよ……とばかりに、心中若干毒づきつつ、栓を開ける。その瞬間、鼻を突いたのは形容しがたい──いや、自分が知っているものに照らし合わせるならば、湿布臭だった。


一瞬、何か理由でも付けて断ろうとして。

それでも、瑠璃は顔を顰めながらも飲んでおり、それを笑顔で見つめるマリーさんがいる。


覚悟を決めてチビリ、と。口に含んだ。


「……あれ」


真っ先に舌に感じたのは甘ったるさ。

だけれど、炭酸がパチパチと弾け、鼻を抜ける湿布臭。後に残ったのは妙な爽快感だった。

もう一口、口に含んでみる。


「……いける……」


この感覚、いやに癖になる。ルートビア、恐ろしや……。


そんな未知のドリンクとの邂逅。

それをもって、今日の食事会はお開きとなった。


一応、雑用としてマリーさんが寝れる最低限のスペースを作ってから部屋を出る。

労力以上の感謝をされたのがこそばゆかった。


「浜音くん、そういえば、家は大丈夫なの?」

「……ああ。今日から一人暮らしだし、場所もそう遠くはないから」

「あれ……? もしかして、引っ越ししてきたばかり……?」


そういえば、伝え忘れていた。

ただ、駅からは近い場所だ。途中で道草を食ってしまったってだけで。

その結果、一日目からやたらと濃いものになってしまったわけだが。


「ごめん! 駅あたりまで案内するよ!」


パチンと手を合わせて、瑠璃は謝るような仕草を見せる。

とはいえども、こんな時間に帰りは女の子一人、というのも良くない。

押し問答の結果、丘を下りるところまでは案内してもらうことにした。


「それにしても、マリーさんって本名なのか?」


夜とは言えども、湿気を纏った空気は生ぬるい。

丘を下り汗ばむ中、ふと俺はずっと気になっていたことを聞いてみることにした。


「あだ名だよ。ほんとは茉莉さんっていうの。それに、ね」


顔を上げ、瑠璃は口にする。

その先に、星はない。予報では明日も雨だった。夜のうちから雲が空を覆っていた。


「入居してきたばかりの時はあんなにパンクな感じじゃなかったんだって。むしろ、もっとメルヘンな感じだったらしいよ?」

「……そりゃ意外だ」

「でしょ? でもね、絵本作家志望から絵本作家になって、そしたら、耐えられなくなったって──接待に編集の対応、締切は厳守、先輩作家さんには頭が上がらない──そうもなるよ」


その瞳が、僅かに細められる。

瑠璃もまた、マリーさんの姿に未来の自分を重ねてしまっていたのかも知れない。


「だから、立ち向かうことにした。今のパンクファッションは舐められないため、なんだって。これ、本人の前でいうと大分気にしちゃうから内緒だよ?」


今日の作業中、マリーさんが見せた爛々とした目。

ただ、その瞬間にだけ。彼女の表情からは疲れが吹き飛んでいた。

アタシはこれがやりたいんだ──と。そんな意志が迸っていた。


それに、どこか当てられた節もあったのかもしれない。

だからこそ、今書いている絵本が完成するまで見守りたくなった。


「それじゃあ、ここまででいい?」

「ああ。後はわかるから」

「うん。それじゃあ、おやすみ。それから──」


その過程に、僅かな期間でも──関わってみたくなった。


「──よろしくね。浜音くんっ!」


火照った体を潮風が冷ます。途端に、高揚までもが風に吹かれてしまった気がした。


仕事先は決まった。ひとまずはやりたいことも決まった。

ただ、その先は? 五日後、俺はどうしている?


あまりにも先行きは不透明だ。

転居良くない、引っ越したところで問題は解決しない。


そんな中で、ただ、一旦の居場所だけは得たのだ。それでいいじゃないか。


地を踏む、縮んだ筋肉には、まだ確かな疲労が残っていたけれど。

纏わりつく考えを振り払うため、夜道、俺は駆け出した。

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