#2 「さなぎ」
「……うおっ」
体の水分を拭き取り、着替えは──幸い、自分で持っていたから、トイレを借りてさっさと着替えた。
そして、部屋に入って真っ先に漏れた声、驚嘆が滲んだもの。
そんな俺の様子にか、ふふんとばかりに鼻息荒く、鴨目は聞いてきた。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「……じゃあ、コーヒーで」
「まあ、好みを聞いただけでうちには紅茶しかないんだけど。苦いのが好きだったらストレートにしとくよ」
年上の余裕、というやつだろうか。
玄関口でタオルを渡してくれた時は非常にありがたかったものだけれど、これでプラマイゼロになってしまった。
……いや、そんなことよりも。
ずっと俺の興味を捉え続けていたのは、目の前の光景だった。
──絵本。
内装自体は最低限だ。調度品や家具意外は生活のためにギリギリ必要なライン。
ただ一つ、変わった部分があるとすれば、それは壁一面に敷き詰められた棚。
その全てを絵本が埋め尽くしていた。薄い背表紙が作り出したカラフルな壁面。
数える気すら起きないほどの冊数に、開いた口が塞がらない。
「はい、コーヒー。ガムシロがないのはご愛嬌、ということで」
だからこそ、すっと鴨目がコーヒーを差し出してきたことに気づくまでもワンテンポ遅れてしまった。
「いやー、苦労したんだよ? 棚の奥に貰い物があったことに気づいて、コーヒー粉取り出すの。全く、感謝してよね」
「……あ、ありがとう、ございます……? それで……この絵本は……?」
彼女がマイペースなのはいい加減理解したから、それはともかくとして。
先ほど彼女が年上だということを聞いたからだろうか。妙に話しかけづらい。
「別に、あたしが年上だからってかしこまらなくてもいいんだよ? まあ、敬う分には結構だけど」
こうも先輩風を吹かせてくると、こちらも一周回ってくる。
かしこまらなくてもいいというのならば、その通り、かしこまらないで行かせてもらおう。
「……わかった。それで、鴨目……さん。この絵本は?」
「あー、距離感っ! やっぱり……呼び捨てでいいからっ!」
「じゃあ、鴨目……?」
「……まあ、良いんだけど。どうせなら、名前で呼んでくれていいよ」
折れたと思えば、一気に縮まる距離感。
自分から呼び捨てにして良いと言ったくせに、どこかしょぼくれているように見えるのは気のせいだろうか。
だとしたら、どれだけ年上扱いして欲しかったんだ。
そんな駆け引きを他所に、彼女自身は勝手に立ち直ったらしい。
「……さて。それじゃあ、本題に入ろうか」
「……早くしてくれよ」
やっとのことでの本題。
大分待たされたわけだけれど、そんなことなんてお構いなし。
「あたし、鴨目瑠璃が目指しているのは──絵本作家!!」
むんとばかりに胸を張り、突き上げられた拳。
力強く、鴨目──瑠璃は宣言した。
「……絵本って、この……?」
「もちろん。浜音くんの目の前に、いっぱいあるでしょ?」
彼女はどこか抜けている。この宣言だって、少しばかり冗談めかしたような口調で。
それでも、この光景ははっきりと示していた。彼女は本気なのだろう、と。
この部屋をプラスすることで彼女が口にしたことは異様な説得力を持ったのだ。
「……それで、雨の中立ってた理由は……?」
「ああ、それはね──」
棚の最下段、ふと視線を向けると、そこだけは一色に染まっていた。
びっしりと並ぶくすんだ白。その中から一番隅に置いてあったもの──スケッチブックを取り出すと、瑠璃は俺の前でそれを広げてみせた。
「この子を描くためっ!」
雨を浴びていた。
体を伸ばして、一心に水を求めるカタツムリが、そこには描かれていた。
とはいえども、観察に観察を重ねて写実的に描いたもの──という風には見えない。
殻は大きくて目はつぶら、デフォルメの効いたマスコットキャラクター的なカタツムリだ。
パラパラと、瑠璃は他のページも見せてくる。
雨を気にせず這うカタツムリ、顔を控えめに出すカタツムリ──雨を恐れてか、殻に引っ込むカタツムリ。
ありとあらゆる表情で雨に相対するカタツムリ──それが、何ページにも渡って詰め込まれている。
「美大の課題、『雨中の浪漫』。あたしのテーマ、『カタツムリ』──それを表現するために、知らなきゃいけなかったの」
胸にスケッチブックを抱き直し、瑠璃ははにかんでみせる。
「ぽつぽつ雨はまだ恵み、ざあざあ降ったら進みやすい、土砂降りは少し怖いかな──って。そうやって、被写体の気持ちをね」
彼女の言葉を信じるのならば、その課題のために、それを描くために、あんな土砂降りの中、立っていたことになる。
「……そのために、わざわざ雨の中……?」
「もちろん。今のあたしには大事なことだから」
「でも、風邪を引いたら課題が出せなくなるかも、とか。そういうことは考えなかったのか……?」
「別に。そしたら寝込めばいいよ。課題なんて二の次だから、最悪間に合わなくたっていいの」
恐ろしくチグハグ、入れ替わっているように思える目的。
つまるところ、彼女はカタツムリを描く──ただ、その一点のためだけに、あんなことをしていたのだ。
「あなたにしてみればそれだけのことかもしれないけど、あたしにとっては大きいこと。ここにいるのはね、そういう人達ばかりだから」
人達。
そういえば、この建物に入ってから、まだ瑠璃以外の相手と顔を合わせていない。
てっきり、彼女の家族が出かけてしまっただけなのだと思っていたけれど。
家族をそんな風に表現するだろうか。
そう思っていた矢先だった。
「……なあ、瑠璃──ドリンクの買いだめ、頼めるか……?」
しゃがれたような声が、真後ろから聞こえてきた。
振り返ると、部屋のドアは開きっぱなし。そして、そこに立っていたのは──。
「……ん、誰だ? この坊主は」
パンク系ファッション、とでも言うのだろうか。
破れたような跡が入った黒いシャツ、厚い化粧で縁取られた瞳がギロリと俺を捉え、細められる。
そして、背は俺よりも高い。強面の女性がそこに立っていた。
「もう、マリーさん。あんまり初対面の人を睨まないの」
「……いや、睨むつもりはなかったんだが……昨日、飲み行くことになって……二日酔いで、頭が痛くて、つい……」
「それで二日酔い? マリーさん、お酒弱いんだからちゃんと断らなきゃ」
「……注がれたんだよ。しかも相手は出版社のお偉いさん、接待だから断れない。瑠璃、デビューしたらじきにお前も知ることになるぞ……あー、クソっ、締切も近いってのに……」
痛むという頭を抱えながら、マリーと呼ばれた女性は呻く。
姉──というには、少し遠すぎる。そういう距離感じゃない。
だとすれば、どんな関係性なのか、と。疑問が膨らんでいく中で、また、マリーさんは俺を睨──見つめてきた。
「んで、アンタは? 瑠璃とはどういう関係だ?」
不味い。どうにも適切な言葉が見つからない。
「あー、えーっと……」
「彼は浜音くん、あたしの友達。今は雨宿りさせてるの」
そんな風にしどろもどろしていたからか、瑠璃が助け舟を出してくれた。
というか、友達という表現も瑠璃だったら案外、本気でそう捉えているのかもしれないって。
そう思えてくるから、彼女のペースは奇妙なものだ。
きっとよくあることなのだろう、俺の方を見て一瞬、ふんと鼻を鳴らすと、マリーさんは瑠璃の方に視線を戻す。
「それで、瑠璃。ドリンクのことなんだが、いつものを箱で頼む」
「……『眠気突破』だっけ。あれ、重すぎて、肩外れるかと思ったんだけど……あ、そうだ」
俺の方を向く瑠璃。
その口元が不敵に吊り上げられる。
もう、彼女が何を言わんとしているのかは大体察しがついてしまっていた。
「浜音くんも一緒なら行こうかな」
「……坊主もか。まあいい。じゃあ、お駄賃は二人分出してやるよ、行って来い」
いつの間にやら、俺もついて行くことになってしまっていた。
とはいえども、何だかんだ言いつつ瑠璃にはかなり世話になってしまっている。
断れる雰囲気ではなかった。
「……わかりました。俺も行きます」
* * *
外に出て真っ先に、視界に射す日差し。
すっかり上がった雨と交代するように、雲間から陽が顔を覗かせていた。
「……なあ、さっきの人──マリーさんとは、どういう関係なんだ?」
「ん? 雇い主とアシスタントの関係性。マリーさんも絵本作家なんだ」
「ってことは……この家は、誰の……?」
だとしたら、住み込みだとか?
いや。しかし、マリーさんがここを丸々持っているようには思えない。
「シェアハウスだよ。あたし含めて住人は四人」
確かに、色々と辻褄は合う。
家族、というよりも同居者。家賃を折半してる分、二階建ての、そこそこ大きい家に住んでいる。
「それにしても、絵本作家が住人にいたなんて、結構ツイてるんだな」
それなら、彼女にとっては都合がいい環境だったわけだ。
絵本作家志望で、同居人が絵本作家だったのだから、運が良い。
そんなつもりで口にしたのだけれど、何故か彼女はくすくすと笑い出した。
そんな風にひとしきり笑って、体を支えるように下駄箱に手を置く。
その指先が撫ぜる、積もった埃を掬った。
「ここはね、言うなれば絵本作家を包み込む
雨粒を滴らせる紫陽花、空の青、潮の香が鼻腔をくすぐる。
梅雨が通り過ぎた七月の陽だまり、その中で、彼女はくるりと身を翻し、微笑んでみせた。
「ようこそ──『クリザリッド山手』へ」
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