『はらぺこあなたと』
恒南茜(流星の民)
第一章 「それだけ、アタシはこれに懸けてるんだ」
#1 「から」
つつかれたら、殻に籠る。
だから、いつまで経っても触れ合えない。
「もう、いいから──」
それだけで済んだら世話ないのだろう。
なまじ隙間から顔を出すから干からびる。触れなきゃいいのに身を傷つける羽目になる。
「俺は、一人でやるんだ──」
ドアを閉めた時の感触、腕に伝わった痺れ。
だからこそ、閉じたのだ──自身の殻を。
その感触が、忘れられない。
* * *
駅の外へ出て一歩。
俺──”
抜けるように高かった──であろう夏空は、びっしりと空を覆い尽くす雲の上。後に残ったのはこの大雨というわけだ。
転居よくない、と。いつぞや引いたおみくじと違わぬ結果だ。
傘は持っているものの、この土砂降りの中じゃ完全に濡れないまま、というのは無理だろう。
引っ越し早々、幸先の悪い出だしにため息を一つ。意を決して傘を開くと、ボストンバッグを再度持ち直して、俺は屋根の外へと歩を進めた。
──『横浜・山手』
雨中、レンガに広がる水溜まり。
湿気った空気に混ざる潮の香は海に近いことの証左だ。
昔は外交官が住んでいたことも相まって、立ち並ぶ建物はレンガ造り、外国人墓地まであるという。
新居の内見は親戚に任せてしまった。自分の足で直接来るのは初めてだったけれど、こういう浮いた町並みは嫌いじゃない。
差し掛かった小高い丘、跳ねた水滴が靴を濡らす。
残念ながら替えの靴は持ってきていない。これは乾かさなきゃいけないな、なんて。
到着早々やらなきゃいけないことに気落ちしつつも階段を上り切った、その時だった。
土砂降りの中、少女が佇んでいた──傘すら、差さずに。
絶え間なく落ちてくる雨粒を受け止めるように、上げられた顔。
じっとりと水分を含んだ髪が、頬に張り付いていた。
雨を受けては瞳が瞬く、ただ、それも一瞬。すぐさまきっと目を見開くと、彼女は雨粒が絶え間なく落ちてくる天を真っ直ぐに見つめる。
「……何、してるんだ」
思わず漏れた疑問に反応はない。声を掛けても、少女は未だ空を見上げたまま。
雨音にかき消されたのか、聞こえていないようだった。
それ以上、彼女に干渉するべきか──はっきり言って、憚られる。
こんな妙なことをしている以上、彼女なりに理由があるのかもしれない。
だとしたら、そうやってわざわざ踏み込んでいくのはきっと、彼女にとってすれば、気分の良いものではないだろう。
だから無視して素通りしよう、と。そう考えていたというのに。
俺は、立ち止まってしまった。
傘を持つ指先が僅かに震える。いくら夏とはいえどこうも雨が降りしきっていれば──凍えてしまう。
そして、最後に背を押したのは一抹の好奇心だったのだろう。
どうしてここに立っているのか、と。
「──え?」
丸く、見開かれた瞳が俺を捉えた。
何をしたのか、と。まるでそう問いてくるように。
見ればわかるだろうに、傘を差し出したのだ。
俺よりも彼女は幾分か小柄だったから、その影はすっぽりと傘に収まった。
「……傘。差さなきゃ濡れるだろ?」
ぱちくりと瞳が瞬く。
目の端から溢れた雫は雨粒だったか。
「……ほんとだね。あたし、濡れちゃってた」
もう一度、ぱちくり。
頬を掻きながら、彼女はそう口にする。
「濡れちゃってた……って。そりゃ、雨の中立ってたら当然じゃないのか」
「……まあ。それは、もちろんそうだよ?」
何がそうだと言うのか。
返ってきた要領を得ない答えに、頭痛がしてくる。
「そもそも、何でそんなこと……」
──そんなこと、しようと思ったんだ。
それが、完全に言葉になることはなかった。
なぜなら、ひらりと彼女が身を翻したから。
「──とにかくっ! まだ足りないのっ!」
弾丸のごとく、小さな影が──彼女が、傘から飛び出して行ってしまったから。
「なっ!?」
待てよ、と呼び止める前に足が動いていた。
何もわからないまま、俺を突き動かしたのは大半が好奇心だっただろう。
胸に燻った問いを、このまま放り投げることはできなさそうだったのだから。
強い好奇心が一時的にでも殻を打ち砕いた──そんな感覚を覚えた。
駆ける。滑る足、沈み込んだ体を再度地面を蹴り上げて、無理くり体制を整える。
その時、一際強い向かい風が吹いた。ちょうど手を握り直そうとしていたところで、視界が陰る。
風に煽られた傘が宙を舞った。
取ろうとする間もなく遠ざかる、傘は後ろ向きに、僕は前向きに。もう諦めるしかない。
半ばやけくそ気味に、すれ違ったまま足を前に運ぶ。
視界に飛び込んでは消えていく街灯、端では過ぎ去る車が光を象る。
全部が視界を濡らす水滴に射し込み、煌めいていた。
「っ、はぁっ」
外に出たのすら久しぶりだったから、脇腹に攣ったような痛みが走る。
それをシャットアウトするために、なおさら強く踏み込んだ地、上向く。
一身に雨を浴びながらも、前を行く少女を追って、俺は腕を振り上げた。
* * *
どれくらい、走っていただろうか。
少女が立ち止まったのは一軒の洋館の前だった。
全体的に横長な四角張った建物、屋根を正面から支える柱は以前教科書で見たギリシャの神殿と似ているように見える。
そして、ずっと追っていた少女はというと──。
「──のそのそと、大変だねぇ」
建物の正面、花壇の前でしゃがみ込んでいた。ブツブツと呟いていた。
何をしているのだろう、今だって彼女は土砂降りの中、全身を濡らしている。
髪も、着込んだカーディガンも、全身がぐっしょりと。
走ったせいだ、心拍は早い、絶え間なく全身に送り出される血液。
きっと、彼女への興味もそんなものだった。
一種の興奮状態にあるまま、一過的に駆け巡ったもの。
走った末の深呼吸。きっと、そうやってワンクッション敷いてしまったからこそ、不意に気づいてしまったのだ。
このまま彼女に話しかけたところで、恐らくは望ましくない結果になるのだろう、と。
考えてもみれば、こんなところまで自分を追いかけていた男に対して、彼女が警戒心を抱かないわけがない。好奇心に突き動かされた身とは言え、ストーカーと大差ないのだ。
好奇心と保身、天秤にかけた時、どちらが勝るか。
違いない、保身に走るべきだ。呆気なく答えは出た。
静かに足を運ぶ。その場からさっさと離れなければと、先行するそんな意識に焦れつつ駆け出そうとした時だった。
「あ」
と、そこで目が合った。
ぱちくりと、三回目の瞬き。
今度は彼女の方が不思議そうに俺を見つめている。
逃げるか弁明するか、嫌な二択だ。ただ、踏み出そうとしていた足は最早言うことを聞かなくて。
視界が大きく揺れる。更に運の悪いことに、足元は濡れていて──。
「ちょっとっ!」
その瞬間に、咄嗟に掴まれた腕。
「危ないっ! でしょっ!?」
大声を浴びせかけながらも、彼女がすんでのところで俺の体を引っ張り上げてくれていた。
お礼でも口にしようとして、それでも、あまりにも急なことに頭がついて行かない。
多分、俺がただ口をパクパクとさせている様は割と滑稽なものだったのだろうけど。
腕組みと共に、ジトッとした視線を彼女はこちらへ向けてきていた。
「あなた、高校生ぐらい?」
「まあ……はい」
後を付けてきていたのがバレたのだろうか。
弁明なんて慣れたものじゃない。それでも、お縄になるのはもっと御免だ。
必死に言葉を練り上げようとして──。
「雨の日に、あんまりはしゃいでたらダメだよ? もう子供でもないんだから」
その口から放たれた言葉に込み上げてきたもの、驚きと呆れ。
先ほど水に浸かった歩道橋を駆け抜けていったのはどこの誰だ。
そして、異様なまでに吹き荒ぶ先輩風。彼女の小柄な見た目からすると、背伸びをしているようにしか映らなかった。
というか、俺が追ってきていたことに対してはノーコメントなのだろうか。
弁明の必要がないのならそれに越したことはないのだけれど、と。安堵感に息を吐いて。
「あ、あとさ。一つ、聞きたいことがあるんだけど」
彼女の言葉に俺は凍りついた。
「あなた、さっきの傘は?」
「……え?」
今度こそ、はっきりと口にしてしまった。
困惑を。流石にそろそろ誤魔化すことができない、彼女に抱き続けていた感情を。
90度ズレた疑問が飛んできたわけだ、仕方のないことだった。
「……飛んでいったんだよ。走ってる途中で」
「どうして走ってたの? さっきみたいに滑っちゃうし、危ないよ?」
本当に頭が痛くなる。
最初は質問がしたくて彼女を追いかけていたというのに、どう捩じ曲がったら俺がこんな質問攻めに遭うのか。
不思議ちゃんなのか、それとも度が過ぎた天然なのか。
ともかく、それはどうでもいい。ただ、気が引けただけなのだ。
そんな彼女の前で適当な言い訳をして、誤魔化すことが。
だからこそ、口を衝いて出たのは、事実だった。
「……君を、追いかけてたんだ」
また、ぱちくりと彼女は瞬きをした。
それから、ほんの僅かにだけ口元を緩めた。
「へぇ。そっか」
咎めるものとは真逆。むしろ、僅かに弧を描いた唇は微笑んでいるようにも見えた。
「……思わないのか? 気持ち悪いって」
普通はそう思うはず。だというのに、彼女は首を横に振る。
「……別に? 思うにね、嬉しいことだよ。人に知ってもらえる──触れてもらえることっていうのはさ」
今度こそ、はっきりと笑顔が湛えられた。
どこか違和感があると思っていたけれど。そうだ、先程から彼女はどこか嬉しげなのだ。
だとしても──きっと、それは俺には理解できない感覚で。
「というかあなた、濡れ過ぎだよ? 傘差してたってことは、濡れたくなかったんじゃないの?」
呆気にとられたまま声も出せない俺を尻目に、彼女は疑問を口にする。
濡れたくない。そんなの当然だ。理由なんてない。妙なのは彼女の感覚だ。
ともすれば、いつの間にか彼女のペースに巻き込まれていた。
誤魔化すことも、話を打ち切ることも、彼女の前では不可能に等しかった。
「まあいいや、取り敢えずついてきてよ。シャワーぐらいなら貸せるから」
絶対に、そういうことじゃない。
そんな簡単に男を家に入れて良いのか。というか、もっと聞くべきこととかないのか。
「ああ、そういえば。どうして、あたしを追いかけてきたの?」
思い出したように彼女は口にするけれど、本来なら真っ先に聞くようなことだろう。
「……気になったから。どうして、土砂降りの中で傘も差さずに立ってたのかって」
「もちろん、普段は差すよ? ただ、今日に限っては傘を差さないことの方が価値あることだったってだけ」
また捉えどころがないことを口にする。
それだけじゃ、結局何がしたかったのかわからない。
とはいえ、不満げな顔にでも映ったのだろうか、彼女は俺の顔を見ると思案げに唇に指を当てて。
何か思いついたかのように、ぱっと顔を綻ばせた。
「じゃあ、やっぱりついてきてもらうのが一番だと思う。さ、行こ?」
「……どうしてそうなる……」
「御託を並べない。理屈っぽいのはあたし、苦手だし」
そうして俺に背を向けると、彼女はちょうど正面にあった建物に向けて歩き出した。
話の流れからして、ここが彼女の家なのだろう。
小洒落ている──なんて感想はさておき、そうだとすれば、家まで追いかけてしまったわけだ。
完全な不審者。そうなってしまった構図に罪悪感を覚えてしまって、いまいちついて行く気にはならなかった。
「あ、そうだ」
そんな風に固まったままの俺に痺れを切らしたのか、少女は急に立ち止まるとこちらに顔を向けた。
「”
「……どうして、名乗るんだ?」
「どうしてって……あなたも追いかけてた相手のことぐらい、知ってた方が良くない?」
少し悪戯っぽい笑みを浮かべながら、少女は──鴨目は口にする。
一応は正論だろう。彼女の名前を知りたかった、というわけではないけれど。
互いに名前を知らないまま、というのもどうにも気まずい。
「……まあ、そうか」
「そういうこと。というわけで、あなたの名前も聞かせて? あたしも知りたいし。どんな子に追いかけられてたのかって」
自分を追いかけていた相手のことを知りたい、というのはよくわからないままだ。
それでも、名前を聞いた以上はこちらも名乗っておくのが筋というものだろう。
「……井ノ花、浜音。浜に音って書いて、浜音だ」
「なるほど。浜音くん。うん、ちょっと変わってるからすぐに覚えられそう。まあ、何はともあれ、これでお互いに知り合い。知り合いだから、家に入れた。これでオーケー?」
……なるほど。多少屁理屈にも聞こえるが、それならば確かに多少なりとも気が楽だ。
「ね、お互い知ってたらウィンウィンでしょ?」
「……まあ、そうだな」
ウィンウィンの誤用はさておき、鴨目にも彼女なりの論理があって、それに沿って上手くやっていく術があるのだ。
全く意図が汲み取れないその言動とは対照的に、一瞬だけ彼女の生き方が垣間見えた気がした。
「それじゃあ、行こっか」
例えるならば、自分から殻を開き、その上で相手の殻をこじ開けるタイプ。それも、かなり強引に。
どうにも俺とは相性が悪そうに思えてしまって仕方がない。
とはいえども、今だけの関係性だ。彼女の行動、その理由を知って、場合によってはシャワーを借りて、雨宿りが終わったら帰る。同じ町に住んでいても、接点はきっとそれだけになるから。
こじ開けられた殻は、もう一度閉じれば良い。
「あと、家に入れる前に一つだけ注意喚起しとく」
人差し指を一本立て、唇を尖らせながら、鴨目は何かを念押ししようとする。
独特な価値観だけれど、比較的寛容な彼女が気にすること──それは、何か。
「何か勘違いしてるみたいだけど、一応あたし美大生だから」
そこはかとないドヤ顔。
先程から事あるごとに先輩風を吹かしていたのは、そういうことだったのか。
どこか合点がいった。
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