第40話
◆
時間はゆっくりと過ぎていった。
僕はトナリに剣術を教わり始めた。スラバが自分も教えて欲しいと申し出たが、トナリはスラバには「ツリナを相手にしていろ」と突っぱねていた。ツリナはツリナで、スラバの相手なんてしたくない、という姿勢がありありと見て取れた。
カズーがどこまで約束を守ってくれるかはわからなかったけど、ツリナの次の供犠はやってこない。信仰の形がそうそう変わるとも思えないけれど、そこが統一王の威光のなせる業なのか、全く別の理由かは僕には想像もつかない。
ツリナはそのことに安堵したようだけど、毎日、朝になると朝日が上る方に向かって両手を合わせているようだ。そちらに彼女を送り出した集落があるのだろうと勝手に僕は想像していた。何を祈っているのかは、ツリナのみが知るところだ。
幸いというべきか、グレイルが戻ってくることはなかった。山の神が遠くに転移させたのだろうと思うけど、あまりに遠くに放り出しすぎるとそれはそれで、あの男の神経を逆なでしたかもしれない。対抗意識で意地でもここへ戻ってくる、などと決心していないといいのだけど。
武芸者が山に紛れ込んでくることは、少なくなったとはいえ、ないわけではない。
そういう武芸者に謝罪し、事情を説明する役目を僕は自らに課した。この山に入るということは、確実に死ぬということで、そのことを僕は解決できていない。
話を聞く武芸者もいれば、突っぱねる武芸者もいる。そして剣を抜く武芸者も。
もし剣を向けられれば、僕も剣を抜いた。
最初の頃は僕の拙い剣術では相手を抑え込めずに、左腕が反応しそうになることもあった。
そう、左腕はおとなしくなったが、まだ漆黒に染まったままでそこにある。ただし、時間の経過とともに僕の自由には動かせなくなり、今では大抵はブラブラと力なく揺れている。少し邪魔だが仕方がない。
武芸者を相手に僕が死にそうになると、そんな左腕が例外的に反応するけれど、そうなると僕がすることは左腕が武芸者を殺さないように抑え込むことに変わる。
祟り神にかなう武芸者がいるわけもなく、その深い深い負の感情は、ともすると僕を飲み込みそうになる。
誰も死なない、ということが、僕の唯一の目標であり、ただ、あまり果たせているとは言えない。
僕の剣術が少しずつ上達し、武芸者と拮抗し、やがて相手にしない腕前に達する頃には、左腕は暴れ出すこともなくなっていた。あるいはそれは、剣術の修練を積んでひとかどの剣士の腕前になるまでの間、繰り返し繰り返し、左腕と格闘し続けたからかもしれない。
山の神の元には定期的に赴いていた。
あのうろに入り、洞窟に入っていくのだけど、山の神は気まぐれで、僕と会いたい時にはすぐにあの地面に突き立つ剣の前へ案内するが、僕を拒否するときは、どこまで歩いてもどこにも辿り着かないことになる。洞窟がどこまでも続いているのだ。僕が諦めて引き返すと、今度はあっという間に外に出る。不思議な環境だ。
山の神との対話の内容は観念的で、生死にまつわる問答、人間とは何かという問答が多くて、僕は本能のままに応じるのだけど、山の神は僕の理屈をやり込めてくることもあれば、ただ聞いていることもある。
理解し合おうとしている形に見えるけれど、実際のところ、僕には何の手応えもなかった。
どうすればこの神と本当の意味で分かり合えるのかは、見当もつかなかった。
何人もの武芸者が、僕の前で次々と肉体を失い、幽霊となった。そしてあるものは発狂してどこかへ消え、あるものは僕やトナリのそばについて、幽霊になっても剣術を学ぶか、他の幽霊たちと意思疎通して何やら学問のようなことを始めたりしていた。それはそれで奇妙に思えたが。
まるでこの山、ルセス山は、幽霊たちの王国と化している。
そしてどうやら、その王の位置に立つのは僕、ということになるらしい。
(ハヴェル様も苦労が絶えませぬなぁ)
いつの間にか古株になったスラバが、時折、そんな思念を僕に向けてくる。
(人の身でありながら、このような粗暴な幽霊どもを統率しなくてはならぬとは、拙者にはとてもできません。まぁ、今はもう拙者も人ではないのですがな。うわははは)
そばにいた幽霊が数人、スラバを睨みつけていたが、この隻腕の幽霊はまだ笑い続けていた。
アルコの元へも、僕は何度か通っていたが、いつからか、その姿は見えなくなった。
最後に話した時、老人の幽霊はどこか感心したように、どこか諦めたように、言っていた。
(ハヴェル殿のやり方など、私には想像もつかなかった。しかし真似することもできなかっただろう。それこそが私という人間の器の小ささであり、あなたというお方の器の大きさなのでしょうね)
僕はどう答えたか、忘れてしまった。アルコをかばったはずだけど、アルコにとってはそれは屈辱だったかもしれない。僕のような若造に慰められるのでは、たまらないだろうと後になって思った。謝罪するには遅すぎて、結局、アルコはどこかへ消えてしまった。
そうして日常は過ぎていき、僕の周りには幽霊が溢れ、どれくらいが過ぎただろう。
その日も僕は一人で、あの巨木の前に立ち、うろを見ていた。
うろの中にはほとんど光もなく、どこか、獣が口を開けているように見える。
神がいつ、僕に心を開き、僕と共存してくれるかはわからない。僕の体には祟り神が宿り、それがもしかしたら、神と僕との間で如何ともしがたい壁となっている可能性もある。
ただ、それはこの山で人が肉体を失うことを受け入れ難いと思っている僕が、少しだけ譲歩したように、神の方が譲歩してくれるかもしれない。
際限のない犠牲を僕が内心、必死の思いで耐えるように。
神もまた、人間に対する憎悪や嫌悪、否定的な感情から、目をつむってくれるのではないか。
高望みだろうか。
自分勝手だろうか。
僕はゆっくりとうろへ近づいていく。
いずれにせよ、僕はすぐに、神との理解についての見通しを考えるのはやめた。
今では僕と神は、対話の相手、話友達のようになっている。幽霊と友人になれるのだから、神とも友人になれるのかもしれない。そんな友人がいたところで、この山を下りてしまえば、誰も信じてくれないだろうけれど。
神や幽霊が友人だなんて、頭のおかしい人間の妄言だな。
それがこの山では真実なのだけど、荒唐無稽か。
うろをくぐり、少し傾斜を降りる。洞窟に入り込むと、やっぱり天井の割れ目から光がいくつか、点々と差し込んでいた。
僕は歩を進める。
偉大なる神は、いつの間にか、僕には畏怖の対象ではなくなった。
慣れというのは、恐ろしいものだ。
そうでなければ、理解というのは恐怖を忘れさせるのだろう。
僕はただこれからの対話を考えて、先へ進む。
来るか、と予感した時、鋭い光が僕の目を焼く。
真っ白く染まった視野の向こうに、錆びた剣が見えてくる。
僕は神の言葉を待ち構えた。
堂々と。
この山の、領主として。
そして神の友人のつもりで。
(続く)
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