第38話
◆
静寂。
沈黙。
それを乱すことのない、不可思議な声が呼びかけてくる。
「今まで、多くのクーンズ伯爵を見てきましたが、あなたは少し違う」
僕は動けぬまま、意識を彷徨わせ、声の主を捉えようとした。
「居丈高に命令する者もいれば、平伏して乞い願う者もいた。しかしあなたはどちらでもないようだ。もっとも、状況はあっという間に切迫し、あなたには選択の余地はなかったけれど」
(あなたは、その)
僕の声はあっという間に拡散してしまう。
(あなたは、僕の左腕ですか?)
「それが不規則の最たるものですね。はっきり言えば、私はあなたの左腕ではない」
だけれど、と姿を見せぬ相手は続けた。
「だけれど、あなたの左腕は私の一部ではあった。分かち難く結びつき、私自身と言ってもよかた。あなたは、祟り神の全てを引き受けたのですよ。本来の人の身でできることではありませんが、今の世の人を統べるものは紛れもない慧眼の持ち主ということでしょう」
僕の左腕が、祟り神? 引き受けた?
「あなたの左腕はいずれあなたを飲み込み、そのまま受肉し、この世に生まれ直そうとするでしょう。そうなれば、その存在は怒りと憎悪で、大きな厄災となる。あなたにもう一つ、役目ができましたね。左腕を封じ続けること。できない、とは言えません。いいですね?」
答えることができないのは、今、交わされている言葉が現実離れしているからだ。
相手が神を名乗り、僕の左腕は祟り神だという。
どこまでが本当のことだろう。
どこまでが事実で、現実なのか。
すべては夢なのか。
「クーンズ伯爵。私はあなたに従うことはできない。あなたにはまだ力が足りない。しかし、あなたに宿る祟り神の力は、あるいは使い道があるかもしれない。例外的に、あなたをこの山から下ろしましょう」
僕の意識は漂い、浮遊しながらその言葉を聞いた。
「そこにいる剣士が言うことに答えられぬあなたには、私の力は使えない。人を殺せるのか。それも他人任せの殺人の責任を、受け入れられるのか。どう受け入れるのか。その答えを出せないあなたには、私とその麾下は荷が勝ちすぎる。もしその答えを見つけたら、またここへ来るといい。それまで私は、そこにいる剣士の相手でもしていましょう」
待ってください、と思わず、声が漏れていた。
「なんですか? クーンズ伯爵」
(一人だけ、山を下りられるなら、グレイルを、そこにいる剣士を山から下ろしてください)
「自分が何を言っているか、わかっているのですか? クーンズ伯爵。あなたがこの山で、いつまでも問いを探したところで、おそらく答えなど出ないでしょう」
(どこにいても、答えは出ません)
僕の意識はいよいよ拡散を始めていた。完全に輪郭を失った時、僕の意識は肉体に戻り、時間が動き出すことは自然とわかっていた。
対話に残された時間は、あとわずかだ。
(僕は僕の左腕を、支配するまで、ここにいます)
「あなたはあなたではなくなるかもしれませんよ。あなた自身が、祟り神になるということです」
(それでも)
僕の心にこれほどの強さがあることを、僕自身、考えたこともなかった。
言葉は、すんなりと出た。
(僕は、クーンズ伯爵ですから、領地を離れるわけにはいきません)
神は、すぐに返答しなかった。あるいはそれは、呆れ返ったからかもしれなかった。
「答えは出ましたか、クーンズ伯爵」
神が何を問いかけているか。
グレイルの言葉に対する答えは出たか、そう問いかけてるのだ。
(僕は、きっとこの手を汚す機会がありません。だから、代わりのものが剣を取り、誰かを切るでしょう。僕はきっと、僕自身がきっと祟り神みたいなものなんです。誰かに、死と破壊を命じ、強制するような存在が、僕なんです)
「それはただ、クーンズ伯爵に与えられる役目に過ぎないでしょう。本来のあなたは別のはずだ。違うのですか?」
(表と裏です。僕は僕であり、僕はクーンズ伯である。だから、僕は、人間であって、祟り神なんです)
「祟り神だとして、その手の汚れは、他人の手の汚れは、どうするのですか」
(全て、受け入れます。憎しみも恨みも、怒りも、殺意も、全て、受け入れます。きっと僕の左腕は、それを心の底から欲していると思いますし)
神はやはり、すぐには答えなかった。
「不思議な人物ですね、やはり。あなたは祟り神でいたいという。楽なことではないでしょう」
(でも、もう引き返せません)
そう、左腕を捧げたことも、そもそもこの山に来たことも、引き返せない道なのだ。
(人間は、何もやり直せないんです。過去は変えられない、ということですね。あなたのような存在には、わかりきっていることかもしれませんが)
「いいえ、興味深い対話でした」
神の調子が少し、変わる。
「もはや時は尽きました。あなたの言う通り、そこにいる剣士を山から出すことにしましょう。あとは何も変わりません」
あなたを調伏する方法はありますか、と聞こうかとも思ったけど、その前に僕の意識は弾け、気づくと体に戻っており、目と鼻の先ででグレイルと僕の左手が衝突するところだった。
グレイルの剣が僕の左腕が握る剣を絡め取り、跳ね上げ。
グレイルの手首の捻りで動いた切っ先が、僕の左腕に食い込み。
光が爆発した。
跳ね飛ばされた僕が倒れこみ、起き上がり、確認した時にはグレイルの姿は影も形もなかった。ただ洞窟がそこにあり、どこまでも続いてくようだ。
念入りに周囲を見たが、もうグレイルがいた痕跡はない。
神が言った通り、グレイルは、山を下りたということだろう。
まったく、神の御業といっても乱暴じゃないか。
僕の左腕が敵を求めて動いたが、敵はいないと理解したのか、僕の方へ縮まって戻り、元の大きさになると形状も人間の腕のそれに変化した。
僕は一度、洞窟の奥の方を見たが、今はどれだけ進んでも、神の元へはたどり着けそうもなかった。
右手に握りしめたままだった短剣に気づき、腰の鞘に差し込んだ。
そして回れ右して、僕は洞窟を引き返した。時間の流れがこんがらがって、変な違和感があったが、神というのは時間を超越し、人間とは全く違う感覚で全てを捉える存在なのかもしれなかった。
それはそれで興味があるが、僕は僕だし、僕は人間をやめられない。
一歩、一歩、先へ進む足取りは、しかし久しぶりに軽い調子になった。
不思議な達成感がある。何を成し遂げたわけでもないけれど、でも問題は一つ、片付いたのだ。
今はそれで良しとしよう。
(続く)
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