第37話

       ◆



 薄暗い洞窟を駆けていく。

 浅い水たまりをいくつも蹴散らし、闇を透かし見る。

 グレイルは見えない。かなり先へ行っているのだろうか。

 不意に強い光が差して、視界を奪う。

 左腕がひとりでに跳ね上がり、何かを受け止めた。鈍い衝撃と、不自然な音。

 しかしそれは間違い無く、グレイルの斬撃を止めた手応えだった。

「しつこいんだよ! こいつ!」

 回復した視覚が、横薙ぎの斬撃を察知するが、避けられる姿勢ではない。

 またも左腕が勝手に動き、斬撃を跳ね返した。

 ついさっきまで人の腕の形をしていたのに、今は異形の、空想の中の怪物の腕のような形状と化している。

 グレイルは右手一本で剣を握りながら、こちらに向き直り、怒りで顔を赤黒くしている。

「どれだけ進んでも終わりがない洞窟だと? ふざけやがって。しかもこの小僧はあっという間に追いついてきやがる。どうなってんだ?」

 僕は答える言葉もなく、右手で短剣を握り、左腕は勝手に戦闘態勢をとっている。

「お前を殺せば神に会えるか? なぁ、そうなのか?」

 声と同時に斬撃。

 左腕が自動的にそれを打ち払い、逆襲するが、グレイルは余裕を持って回避していく。

 その回避の動きの中で左右に揺さぶろうとするグレイルだが、洞窟はあまりにも狭い。僕の左腕の最大の弱点、間合いが僕の左側に偏っているという一事も、今は運よく解消されていた。

 僕は左腕をグレイルに向ける半身の姿勢で、グレイルを観察する。こうしておけば、少なくとも僕の本来の肉体は安全だろうし、いざという時は左腕に割り込むこともできる。はずだ。

「お前、ふざけるなよ! そのおかしな腕の相手なんかしてられるか!」

「なら、洞窟を出てください」

 嫌だね、とすぐに返事があった。

「やっと神とやらを切る機会が来たんだ。ここで黙って帰れるかよ!」

 僕の左腕が反応した。

 それは左腕の独断ではないことが今、不意に理解できた。

 今、僕の左腕は、僕の意図を汲んだのだ。

 実際、動き出した左腕はグレイルに複雑な軌道で迫り、しかし致命傷を与えようとはしない。右腕を破壊して戦闘能力を奪うこと、両足を狙って動けなくすること、それが明白な連続攻撃だった。

 だが、明白ということは、防ぎやすいということだ。

 グレイルの剣が躍動し、僕の左腕の斬撃を、刺突を、全て打ち落としていく。

「なんだ、なんだ? その程度で俺を止められると、本気で思っていやがるのか!」

 怒声とともに、グレイルが間合いを潰してくる。

 僕の左腕が、それに反応する。

 一気に伸長すると、洞窟という限られた空間を面で制圧するように、吹き荒れる。

 グレイルはそれを、最低限しか受けなかった。

 致命傷ではないものを、かわさなかった。

 グレイルの全身から血しぶきが上がるが、動きは止まらない。

 僕の頭に激しい痛みが走った。

 その痛みに気を取られた時、左腕はグレイルを殺す一撃を、まったく自然に繰り出していた。

 もしグレイルが超一流の使い手でなければ、死んでいただろう。

 剣を立てて僕の左腕が握る異形の武器の刃を受け止め、跳ねるように距離をとりながらも、追いかけてくる斬撃に剣を合わせていく。火花と甲高い音が連続し、それが止むと、不自然なほどの静寂がやってきた。

「おいおい、おいおい」

 グレイルが剣を振りながら、笑っているのが見える。

「お前、クーンズ伯爵とやら。お前、本当に俺を殺す気がないのか?」

 僕は答えなかった。

 当たり前だと思ったからだ。

 殺すつもりなんて、ない。

 グレイルは引きつるように短く笑うと、剣をピタリと構えた。

「つまり、お前は何の覚悟もしてないってことか。そいつはお笑い草だぜ。なあ? そうじゃないか? 片方は殺す気満々なのに、それに対する方は殺す気もないまま、剣を振ってやがる。釣り合いが取れねぇこと、甚だしいな」

 何を言いたいのか、ということを僕が問いかけなかったのは、自分の中に沸き起こった、違和感のせいだった。

 グレイルが言っていることは、実は、正確なのではないか。

 僕はグレイルを切るつもりはない。だから、勝手に動き、勝手にグレイルを殺そうとする、自分でありながら自分ではない左腕を止めようとしている。

 その僕の矛盾が、状況の決着を遠ざけているのではないか。

「お前は俺を殺したいのか?」

 グレイルの問いかけは、すぐに洞窟の静寂に消えていく。

 しかし聞き逃すことはない。

「お前に、俺が殺せるか?」

 僕に、グレイルが殺せるのか。

「お前に人が殺せるか?」

 僕に、できるのか……。

 僕が返事をしないのに、愉快げにグレイルが笑う。

「どうやら図星みたいだな、伯爵様。あんたは最初からそうだもんな。あんた自身は剣を取らない。幽霊に代わりに戦わせたり、そのおかしな左腕に任せようとする。あんた、それで自分の手は汚れないって思っていたりするのか?」

 僕は、答えられない。

「他人に任せて、他人にやらせて、それで自分は平気なくちかい? それとも、誰もいないところで、仲間に手を汚させたことを悔やむ演技でもするのかい? 馬鹿馬鹿しいと思わないか?」

 一歩、グレイルが踏み出す。

 僕の左腕がひとりでに持ち上がり、剣を構える。

「他人に丸投げするくらいなら、自分の手を汚しやがれ。それができない奴の言うことなど、俺は聞く耳持たん!」

 グレイルが地面を蹴り低空で突っ込んでくる。

 僕は本能的に左腕を引いた。

 左腕が、グレイルを殺すと思ったからだ。

 しかしそれを読んでいたかのように、十分な速度で僕の左腕は一直線にグレイルに伸びていく。

 左腕が、グレイルを殺したら。

 それは僕が殺したも同じだけれど。

 そう、それはでも、本当に僕が手にかけたわけではない。

 僕は、何もかもから逃れようとしているのか?

 都合良く、仕方なかったとか、そんな言い訳をして?

 グレイルの動きが緩慢に見えてくる。僕の左腕も緩慢にそれを迎撃していく。

 僕の右手は、動かなかった。

 短剣を握りしめたまま、動かない。

 何が正しい? 何を選べばいい?

 激突寸前のグレイルと僕の左腕が完全に静止した時、不意に声がした。

「面白い人間もいるものだ」

 僕の体は動かず、意識だけがどうしてか、直感的に周囲の状況を把握できた。

 時間が、止まっている?

 極限状態の異常な集中が時間を伸ばしているわけではない。

 これは、人間の能力の域ではない。

(あなたは)

 僕の声は、音ではなく思念として漏れた。

 相手はそれに、確かな声で答える。

「私に名前はない。この山に住まう神、とされている存在だ」

 神は姿を見せない。

 しかし神はそこにいるようだった。



(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る