第35話
◆
「マダ奴ヲ殺シテイナイ」
「もういい」
僕はそう声にして、一歩、二歩と下がった。
グレイルはさすがに汗まみれで声を発する余裕はないようだ。左腕が力なく垂れ下がっている。
「もう勝負はついた。そうだろう?」
僕は自分の前に掲げられている自分の左手に語りかけた。
「彼は負けた。それが現実だ」
「死ンデイナイ。マダ死ンデイナイ」
自分の喉から出る引きつったような声に、僕は根気強く答える。
「殺す必要はない。もう終わりだ」
「終わっちゃいねぇ!」
いきなり声を張り上げたのはグレイルだった。そう言うなり、彼は右手で保持していた剣を地面に突き立てると、自由になった手で自分の左腕を掴むと、ぐっと力を込めた。
気分が悪くなるような音を立てて、彼の左肩の関節が嵌った。それでもすぐには動かせないだろうが、グレイルなら例外だろうか。どんな回復力があろうと左腕は二箇所で骨折し、筋肉が断裂しているのだから、まだ使えないのは間違いない。
「終わりですよ、グレイルさん。今は、痛み分けでもいい」
僕の言葉に、蒼白な顔に明確な怒りを覗かせて、グレイルが応じる。
「痛み分けだど! そんな結果、欲しくもないな! 俺は生きるか死ぬかで生きているんだ! つまり、お前が死ぬか、俺が死ぬかだ!」
愚かしい、と言うことはできた。命知らずなら、そこらにいる子どもでも、そうグレイルに声をかけただろう。
しかし、僕は彼の言葉の奥に、彼の中の強い意志の根幹が見えた気がした。
生きるか死ぬか。
その極限状態に身を置き続けることで、彼は強くなったはずだ。そして今では、生死の狭間にいることが、彼の支えなのだ。
彼はもう、平穏の中では生きられない。
戦いの中でしか生きられない、強くいられない人間なのだろう。
それはあるいは愚かで、別の言葉を探せば、救いがないのだろうが、それは個人の価値観による。
強さを求めるものは彼に憧れ、弱さを認めたものは、彼を憐れむのかもしれない。
「まだ終わっちゃいねぇ。そうだろう。違うなんて言わせねぇぞ」
グレイルの右手が剣を握り直す。
僕の左腕が勝手に戦闘態勢をとる。
「ダメだ」
静かに、しかし僕はきっぱりと、宣言した。グレイルは目を吊り上げ、僕の左手はわずかに震え、その声を受け取った。
「終わりにしよう。これ以上は無意味だ」
歯ぎしりをするグレイルよりも、こちらに手から滲み出した液体を剣に変えた左腕が向いているのが問題だ。鋭すぎる切っ先は僕の目と鼻の先にあり、それを防ぐことはできない。
「殺スベキダ」
「殺さない」
「殺サナクテハナラナイ」
「殺してはいけない」
自分の声に自分ではない声で自分で答える、というのは奇妙な上に奇妙だったが、内容は単純で、直線的な問答だった。それに左腕は納得するわけもなく、切っ先が翻った次にはグレイルの方に向いている。
「やめろ。もう戦いは終わりだ」
「終ワッテイナイ。コレカラダ。怖気ヅイタカ、くーんず伯爵」
「勝てるということはわかっているんだ。それでいいだろう」
僕の喉は、僕ではない存在の声を返さなかった。
グレイルの瞳には殺気がみなぎり、今にも飛びかかってきそうだった。
「勝負はついた。そうじゃないか、剣聖グレイル」
「俺は、お前を切らなきゃ剣聖じゃねぇ!」
「でもあなたは、死んではいない。なら剣聖だ」
「理屈じゃねぇ! 俺が負けだと思っている間は、俺が勝ったと思うまでは、この戦いは続く!」
「僕はあなたを殺したくない」
不意に喉が引きつり、左腕の声が漏れる。
「殺ス。絶対ニ殺ス。今カラ殺ス」
「殺しちゃいけない。わかっているはずだ」
「何ノコトダ?」
僕は僕の中にある意思、おそらく神であろう何者かに、自分なりの言葉を向けた。
「彼の剣技は、失われていいものではない。彼の剣技もまた、この山のようなものだ。そう、あなたと同じものなんだと思う」
僕は左腕に語りかけた。
「この山の神が多くの剣士の死の上にあるように、剣聖の剣技も、多くの剣士の死の上にある。同じじゃないか。もちろん、この極端な両者のどちらかが相手を飲み込めば、より強力になれるかもしれない。しかしそれは虚しいと僕は思う。今までに倒れてきたもののことを思えば」
「詭弁ダ。口先ダケノ言葉ニスギナイ」
「人間なんて、そんなものだ。まさか、何事も剣を抜いて決めるわけにもいかないしね」
喉が引きつり、唸るような声を漏らす。左腕の握る剣の切っ先が揺れる。
グレイルはグレイルで、歯ぎしりしならが、機をうかがっているようだ。
場の緊張は張り詰めているが、一触即発という形ではなくなった。
はずだった。
「知ったことかよ、理屈など」
声は、ほとんど聞こえなかった。
理解した時には遅かった。
鋭い閃光の斬撃は、僕の左腕の反応よりも早かった。その点、左腕も、僕の意思に流されていたのだ。
しかしこれでは、僕が死ぬ。
体が反応したのは、何故だったか。
右腕が、跳ね上がる。
統一王陛下から下賜された短剣が、一度だけ、グレイルの斬撃を受け止めた。あまりの衝撃に肩まで痺れが走り、短剣は僕の手からすっ飛んで少し離れたところの地面に突き立った。
僕の目と鼻の先で、グレイルの切っ先が最低限の動きで翻り、僕の首を抉りに来る。
左腕は、グレイルを倒すことを優先した。
僕が死ぬのと、グレイルが死ぬのと。
どちらが早いかの勝負になった。
ただしその勝負は、結局、結果はわからなかった。
僕とグレイルの間には一歩程度の距離しかなかったが、その中間、虚空で光が爆ぜ、僕もグレイルも弾き飛ばされていた。お互いに全くの予想外だったので、背中から地面に落ち、転がり、それでも起き上がったのはグレイルが先だった。
僕が起き上がったときにはグレイルは驚きの中でも剣を構えようとしており、僕は尻餅をついたまま、目の前の光景を見ていた。
全く見ず知らずの女性が、すぐそこに立っていた。
(何をしているのですか、剣聖グレイル)
思念が、そう、声ではなく、霊体が発する思念が僕の頭にも響いた。グレイルに呼びかけているのだから、彼にも届いただろう。
女性が僕の方を見て、穏やかに微笑む。女神の化身のように美しい女性だった。
(手間をかけさせて、相すみません、クーンズ伯)
僕はどう答えていいかわからず、ただ、目の前の女性を見ていた。
(続く)
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