第32話
◆
沈黙の中で、何かが僕をひたすらけしかけてくる。
あの男は殺せ。許してはならない。存在を許すな。
殺せ。殺してしまえ。
それがこの山のため、お前のため、過去にここへ来た全ての人間のためだ。
殺すのだ。
殺せ。
殺せ。
僕はそう繰り返す姿なきもの、僕のうちに存在する僕ではないものの声に、ひたすら沈黙を貫き通した。
どれくらいが過ぎたか、感覚が麻痺するほどの反復の中で、僕もやはり無言という反発を繰り返し、抵抗を続けた。
グレイルを殺すことはできる。
いつの間にかそう思っている自分がいる。殺せるか、殺せないかはもはや議論の対象ではなく、殺していいのか、いけないのか、そこが意志のぶつかる戦場だった。
グレイルもただでは死なないだろう。僕も五体満足で切り抜けられるかはわからない。
それなのに勝利を確信できるのは、あるいは僕自身が、もはや生とも死とも無縁だと、自分を解釈しているせいか。
そうだ。
頭の中で声だけの何かが唱える。
お前はもはや死ぬことはない。すでに死んでいると言っていい。
お前が私であるということは、そういうことなのだ。
生も死もない、ということは、どういう状況だろう。生とは? 死とは?
僕はこうして思考し、論理によって自己を表現している。それが生きているということなのではないか?
死者も思考するものだ。肉体がないだけで、その霊魂は未来永劫、誰にも認知されることもなく、思考し続ける。言葉にできず、表現できず、ただ空転し続ける思考。霊魂とは思考だけの存在なのだ。
なら、神もやはり死んでいるのか。
神の生死を問うのか? それは生に執着し、生にのみ意味を見出す、人間の本能による解釈だ。神は生死など意に介さない。純粋なる思考、太古から続く思想、概念と化したかつて生あるものだった存在、それが神だろう。
神は死者に限りなく近く、しかし死を克服したということか?
死を克服する、などという発想が人間の弱さに過ぎない。生も死もないのだ。両者は表裏一体の一つのもの。生は死であり、死は生であり、どちらも思考の外部要因に過ぎない。お前たちは生を克服することがあるか? 死した状態でい続けることが生を克服することだと思うか? 思わないだろう?
僕は沈黙した。
この山では確かに、生も死も意味を持たないだろう。
僕はトナリと出会った。霊魂に過ぎない彼と。
僕はツリナと出会った。人間として出会い、彼女は霊魂へと変わった。
それはスラギも同様だ。
トナリもツリナもスラギも、僕の中では、生身の人間の友人と何も違うところはない。生きている人間のそれと同じように友人であり、信頼のおける仲間だ。
人間の友人と同等の、霊魂の友人。
肉体があろうがなかろうが、何も変わりはない。
(ハヴェル様)
声が聞こえて、僕は瞼を上げた。
周囲は依然、霧が立ち込め、緩慢に流れている。その霧の濃淡の中から、スラギが現れた。霊魂であることを示す、ぼんやりとした輪郭の、半透明の肉体。
しかしその挙動には生きているもののそれがあり、表情にも人間らしさがある。
スラギは僕の前まで来ると、膝をついた。
(グレイルの所在を確かめることは、できませなんだ)
「何があった?」
僕は問いかけながら、スラギの表情に切迫した緊張があるのを見た。
(血痕は確かにありました。追うこともできました。しかし、途中で途切れているのです。そこには二振りの古い剣が捨てられ、その剣は血で汚れているのですが、周囲のどこへも血痕が続いていないのです)
その時にはトナリもツリナもすぐそばに来ている。トナリがスラギに問いかけた。
(それはつまり、止血をしたということか?)
(それが最もありそうなことですが、おかしなことがあるのです)
声にやや恐怖をにじませながら、スラギが続ける。
(二本の剣はグレイルの腹部を貫き通したはずです。決して軽い怪我ではありませぬ。そして剣を抜いた以上、傷から血が溢れるのは必定。そのはずなのに、あの場には、その、血が少ないのです)
血が、少ない?
(いや、拙者も何度か人を切ったことがございます。その時、一撃の元に打ち倒せずに、苦しむ相手を見たことがあるのです。人間とは、信じられないほどの血液を持っておりまして、それはそれは、周囲がまさしく血の海になり申した。その時と比べると、おかしいのです)
僕は何も言わずに、トナリを見た。彼が一番、経験が豊富だろうと思ったのだ。トナリはトナリで、顎の辺りに手をやりながら、思案していた。
「どう思う?」
(止血した、ってところでしょうよ。常識的に考えればね)
トナリは言いながら、しかし納得はできていないようだった。
「僕は、あの人は常識の埒外にあると思うけど?」
(俺もそう思いますね。だから、答えが出ないのです)
ツリナは一人でハラハラした顔をしており、スラギはまだ、自分で報告していながら、実際に見た光景が信じられない、という顔をしている。
僕とトナリは、どうやら同じ結論に達しつつあるらしい。
「しかし、ありえるかな、致命的な負傷を無視するなんてこと」
(あの男は、霊体であるはずのこの山の亡霊を素手で押しのけたのを、ハヴェルも見ていただろう。あの時点で、普通の肉体の持ち主ではないのはわかっていた。そういうことだろう)
かもしれない。
そう僕が答えようとした時だった、すぐそばで唐突に物音がした。
トナリが剣を手に振り向き、ツリナが僕の前に盾になるように立った。スラギは低い姿勢で、片手に剣を手にしている。
音がしたのは、すぐそばの木立のようだ。小さな音だったが、何の音だ。
トナリと目配せしたスラギがゆっくりと立ち上がりながら、そちらへ近づいていく。
僕もそちらを注視したが、何も見えない。霧が濃すぎるが、人間の姿を隠すほどではない。
その瞬間。
逆方向でまた物音がした。スラギが、ツリナが、トナリが振り向いた。
僕だけは、違った。
影が差したのに、気づいたのだ。
落ちてきたものが、僕の目の前に音もなく舞い降りる。
最低限の動作で、しかし強烈な蹴りでツリナを弾き飛ばしたのは、グレイルだった。
あの野生動物を、それも獰猛な野生動物を思わせる笑みが、すぐそこにあり。
その両手の剣が同時に受けることが至難な位置から僕に襲いかかる。
僕の右手が、腰にある短剣を抜いた。
統一王家の紋章が鍔にあしらわれた短剣が、激しい火花を上げ、押し込まれながらも斬撃の一つを受け止める。
左手は、もう一方の斬撃を手のひらで受け止めていた。
左手、左腕は僕が動かしたわけではない。一人でに動いた。
横合いからトナリが剣を突き込んだ事で、グレイルは大きく跳ね、間合いを取って着地した。
その着物は血に塗れているが、怪我を負っている人間の動きではない。
覇気が僕を押しつつみ、まるで強烈な波濤に晒されているようだ。
それでも僕は立ち上がった。
彼は僕を倒すと決めたと、見えたからだ。
僕には、逃げる理由がない。
(続く)
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