第29話

       ◆


 倒れこんだ僕はあまりの激しい痛みに体が暴れるまま、のたうち回った。

 おいおい、と遠くから声が聞こえる。

「その程度で大げさな奴だな。ま、普通の人間じゃ、経験したこともないわな」

 僕は歯を食いしばろうとしたが、それさえもできない。

 右手で左肩の断面を抑えようとするが、手が大量の血で滑るばかりで止血などできない。それに傷口に手が触れるたびに、激しい痛みが走り、意識に電流が走る。

「ま、しばらくそこで痛みと戯れてな」

 グレイルの声が降ってくる。

 そして僕のすぐ横を歩いていく。

 神の力を借りるなどと言っておきながら、神と約束を取り付けておきながら、このざまか。

 そう思った次に僕を突き動かしたのは、何だったか。

 僕の右手が、すぐそこにあるグレイルの足首を掴んでいた。僕の手の中で、グレイルの足首がきしむ。

 足を止めたグレイルの視線が降ってくる。

「何のつもりだ? そんな状態で俺を止められると思っているのか? それともさっさと殺してくれ、ってことか?」

 僕は答えられなかった。

 脂汗にまみれ、細く呼吸しながら、グレイルを見上げるしかない。

 冷酷な視線を僕に向けたグレイルは、片手の剣を持ち上げ、切っ先を僕に向けた。

「じゃ、死んでくれ」

 切っ先が落ちてくるところが、見えた気がした。

 僕の喉が、勝手に動いた。

「大言壮語ヲ吐クノダナ」

 グレイルが一直線に突き下ろした剣の切っ先は、僕の頭を砕くはずだった。

 それを止めたのは、黒に近い赤の液体だった。

 その液体は、僕の血液だ。

 グレイルが剣を振って血を振り払うと、そこへ僕の血の塊が絡み付いていくので、グレイルは今度こそ距離をとった。

「なんだ、お前。妙なことをしやがる」

「何ガ妙ダト?」

 僕の声が僕の意思に逆らって出る。発音は平板で、軋むようだ。

 何が起こっている?

 僕の体が一人でに、一度、二度と震えた。

「くーんず伯爵、コノママ死ヌカ?」

 痛みがいつの間にか消えていた。全身を血流が駆け巡り、神経が存在を主張するようにピリピリと痛んだ。

 それだけだ。

 僕は自力で、ゆっくりと立ち上がった。

 左肩からぼたぼたと血液が流れるが、それはまるで液体ではないように、地面に落ちても染み込むことがない。地面に落ちる血液が生あるもののように蠢き始めていた。

「化け物ってことかい」

 グレイルが剣を構えながら、それでも笑っている。

「なら、退治してやったほうがいいな。化け物は倒すしかない」

「ソノヨウニ大口ヲ叩クコトガ、弱サノ証明ダナ」

 勝手に喉が動く不快感に戸惑う僕の左肩が不意に痙攣し大量の血を吐き出す。

 グレイルはすでに間合いを詰めていた。

 僕を両断する一撃が、落雷の如き速度で落ちてくる。

 そこに割り込んだのは、やはり僕の血液だった。

 受け止められるはずのない一撃を、血液でできた腕のようなものが完全に受け止めている。

 グレイルはまるで動じた様子もなく、強引に剣を押し込んでくる。対魔術武装の剣だ。今にも血液による防御は破綻するかと思ったが、そんなことはなかった。

 血液の腕は勝手に分岐すると、鋭い刃となってグレイルの腹部を薙ぎに行っている。ぱっと飛び退ったグレイルは、それでも間をおかずに再び肉薄してくる。

 僕の左肩から伸びる血液の腕は一瞬で形を整え、人間らしい形に落ち着いた。

 その握られた拳の中から溢れ出した血液が、形状を変え、一瞬で剣に変化した。

 グレイルの剣と、僕の左手の血の剣が噛み合う。

 もうグレイルは会話などに固執しなかった。

 一撃一撃が極端に重いのに、その身のこなしは身軽で、常に体を止めることがない。

 僕はそれに対抗したが、不自然だった。左腕だけが勝手に動き、勝手にグレイルの猛攻を防ぎとめていく。僕の体は左腕に引きずられるばかりだ。それでも転倒したりしないのは、左腕が受け止める斬撃の衝撃を左腕だけで流しているからだった。

 人間がいくら研鑽を積み、技を磨いても、そんなことができるわけもない。

 超常の力が、僕を動かしていた。

「ドウシタ、人間ヨ。コノ程度カ?」

「クソッタレの化け物め!」

 僕の喉が引きつるように声を発するのに対し、グレイルも罵声を返す。

 その間にも二人の間では激しい剣戟が交換されている。正確には、グレイルの剣は剣術と言えたが、僕の左腕が行使しているのは、剣術とは言い難い。

 血液からなる腕は物理的な限界を超え、構造的な限界を無視し、ただひたすら、グレイルの攻撃を防ぎ切り、その上でグレイルを切ろうとしていた。

 ぱっと何かが宙に散り、グレイルが間合いを取り直した。

 その左肩にじわじわと赤い染みが広がっていく。

「こんなデタラメなものを相手取るには、準備不足だな」

 常に隙のない構えを取りつつ、グレイルは軽口を止めない。

「こんな化け物が出てくるとは、思わなかったぜ。山の神を殺す準備はあっても、山の神の宿った人間を切るのは想定外だ」

「逃スト思ウカ?」

 僕の左手が振り回された。

 最初、何も起こらないかと思った。

 だが、そんなことはない。

 ほんの刹那の沈黙の後、風を切る音が無数に重なり、それがあっという間に僕たちを包んだ。

 甲高い音をたてて飛んできたのは、剣だった。

 血の剣ではない。

 古びて、錆び、朽ちかけた数え切れないほどの剣。

 どこからか飛来した無数の剣が全方位から、グレイルに遅いかかかる。

 舌打ちした剣聖が両手の剣を高速で打ち振るい、次々と剣を迎撃していく。

「コノ山ニ来タ武芸者ノ数ダケ剣ハアル。防ギキレルカナ」

 刃こぼれし、ボロボロの剣の雨を、グレイルは全て防ぎきったかに見えた。

 しかし一振り、そしてもう一振りがグレイルの腹部を貫いていた。

 それでも彼は倒れなかった。大きく跳ねると、距離をとり、そのまま逃亡に移った。

 僕はそんな様子を眺め、どうやら戦いは終わったらしいと気付いた時、意識が朦朧となるのを感じた。

 喉がひとりでに動く。

「くーんず伯ヨ、ソノ方ノ左腕ヲ供物トシテ召シ上ゲヨウ。我ハソノ方ノ左腕ヲ自ラノ体トスルトシヨウ」

 左腕を自らの体とする? どういう意味だ?

 しかしその問いを向けることはできなかった。

 失血のためか、もう立っていることもできない。

 誰かの思念が頭に飛び込んできたが、それを理解するより早く、僕の意識は漆黒の闇の底へ落ちていった。



(続く)

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