第28話
◆
僕は。
私は。
「私は、クーンズ伯爵となった時から、自由など存在しない」
ほぅ、と珍しく、いや、初めて、神が曖昧な言葉を発した。
ここだ、と思ったが、考えてのことではない。自然と、まるで心をそのまま置き換えたように言葉として口から出た。
「統一王陛下が私を見出し、私にお任せになった。なら、私はそれを命ある限り、全うするしかない」
(それが真意か? その方のまことの思いか?)
真意?
ふざけたことを言う。
「私の真意など、どうでも良いこと。私がクーンズ伯であり、この地を治め、統一王陛下の御力となる上で、私の真意など、瑣末なことに過ぎない」
強気なことだな、とせせら嗤う思念が、僕の頭に流れ込んだ。
(真意があると公言したようなもの。それが叛意にならなければ良いがな)
「そのようなことはありえない。私は、統一王陛下の、家臣の一人なのだから」
答えながら、脳裏にあったのは、誰の姿だっただろう。
統一王陛下その人か、それともすでにこの世の人ではない父と兄か、それとも兄の遺児? さもなければ、人間ですらない、トナリやツリナ、スラバだろうか。
僕は誰も裏切らない。
強い決意がともすると圧倒的な気配に塗り潰されそうになる意識を繋ぎ止める。
(その方が何故、ここにきたか、我の前へ再び姿を見せたか、それは知っている)
話がやっと始まりの場所に至ったようだ。ここまでの問答で、神はわずかだが、譲歩したのだろう。
僕などという人間と、取引することについて話し始めたのだから。
(この山を奪うことは、誰にもさせぬ。この山には、我が我たる所以が数多くあるのだから)
「お力を、お貸しください」
(そのために、その方は我に何かを捧げるとか。何を捧げられるというのだ?)
山の神の強烈な思念に耐えながら、僕は言葉を口にした。
決定的な言葉であり、後戻りができない、そんな言葉だ。
考えて出るものではなく、勢いだけでも出るものではなく。
まるで神がかった力が宿った時だけ、口から出る言葉。
「私の肉体を、捧げます」
山の神は、即答しなかった。沈黙が降り、完全なる静寂の中で、僕はまっすぐ、ひたすら前だけを見ていた。視線をそらさず、瞬きさえも忘れて。
(クーンズ伯が我に肉体を捧げる? 馬鹿なことを)
「他には何も、捧げるものがありませんので」
愚かな、という思念は、まるで叩きつけるように僕の全身を打った。
(そのような愚かな発想で、我のそばに仕えるなど、許されることではない。何より、勘違いも甚だしい。その方の肉体など、我が翻意すれば、いつでも奪えるものを)
「今まで」
黙っているべきではなかった。
とにかく、意思を伝えるしかない。
たとえ愚かであろうと。
「今まで、召し上げられなかった肉体を今、こちらから差し出します。その対価として、この山に踏み入り、神の眷属であり、いずれ私の配下となるべき亡霊たちを勝手にも駆逐するものを、退治したく存じます」
(それもまた、我がその気になれば、自由にできること。クーンズ伯。我は今回の一件の責任をその方に問うが、それはこの一件に我が手出しできぬからではない。そこを履き違えるな)
平伏したい。
しかし平伏すれば、そこで終わってしまう。
「人間の問題は」
僕は最後の気力を振り絞った。これが最後の抵抗になるかもしれないが、抵抗を諦めるよりはいい。
「人間の問題は、人間が解決するものでしょう。神が人間を自由にするのでは、この世の原理原則、摂理が揺らぐというものではないですか」
(どうせその方は、我の力をあてにしているのだろう。それを人間による解決と言えるか)
「私が何かを失うことで、釣り合いは取れるでしょう。卑小の身ですが、これでも人間の一人であり、クーンズ伯爵でもあります。不足でしょうか」
へらず口を。
そんな思念が、僕の頭に突き刺さる。
ただ、それは笑声で、愉快げで、楽しげで、嬉しそうに聞こえた。
(クーンズ伯爵、その方ほど愉快な人間は、久しく見ていない)
僕は、何も答えられなかった。
立っているだけで精一杯だった。
目の前にいる、気配だけで存在する神が、これからどんな決断をし、僕が何を差し出すことになるのか、少しもわからなかった。僕は死ぬかもしれないし、亡霊になるかもしれないし、もしくは突き放されて、何事もなせぬまま追い返されるかもしれない。それ以前に、死のうが亡霊になろうが、神の気まぐれで何も変化せず、無駄死にになるかもしれない。
僕は残っている気力を総動員して、歯を食いしばり、立ち続けた。
(良かろうよ、クーンズ伯爵。助力しよう)
礼の一つでも、言わなくてはいけなかったが、僕にはもうそれだけの力もない。
(何を差し出すものか、見ものだな。期待していよう。その供物に見合った力を、授けるとしよう。あまり時間もないぞ? 早く外へ出るがいい。歩けるかな)
強い光が眼前で瞬き、僕は目を閉じてよろめいた。
姿勢をなんとか取り戻し、顔を上げた時にはまだ視界は白く焼けていて、少しずつ視野がはっきりしてくると、いつかと同じようにもう錆びた剣は目の前からなくなり、どこまでも洞窟が続いているようだった。
僕は全身が汗にまみれていて、回れ右するのにもよろめくほど疲労していた。いったい、どれくらいの時間が過ぎたのだろう? まるで何時間も立ち尽くしていたいように、体は強張り、重い。
戻ろう。
神が何をしてくれるにせよ、約束は取り付けたのだ。
それが嘘ではないことを祈ろう。
僕は外へ向かって、一歩、また一歩を歩き始めた。
光が乏しい道を、つまずきながら、ふらふらと僕は進んだ。
足がうまく上がらない。空気が粘りつくようにまとわりつく。息が詰まり、苦しい。
前かがみになり、喘ぎながら、光を求めるように進む。
そしてついに光が見え、僕は転げるようにうろから出た。
「なんだ、姿が見えねぇと思ったが、そんなところにいたのかよ」
予想外の声に顔を上げると、そこに立っているのは、グレイルだった。
剣聖である男は、二振りの剣を両手に持ち、様子を伺うトナリとツリナ、スラギを牽制しているようだった。トナリたちは無事なようだが、ここまでグレイルが踏み込んでいるのは、常識的ではない。
まさか、山にいる全ての亡霊が打ち倒されてしまったのか。
「そのうろに何かありそうだな」
グレイルが姿勢を変えた。
僕はあまりの疲労感に、反応できなかった。
反応したのは、トナリだけだった。
だがそれも遅すぎた。
グレイルの姿が搔き消える。鍛え抜かれた身体能力と、それをさらに底上げする不思議な力が、グレイルをほとんど一瞬で僕の前に移動させていた。
「ま、さっくりと退場してもらおうか!」
剣が落ちてくるのが、ゆっくりゆっくりと見えた。
剣は、一撃で僕の左肩から、腕を切り飛ばした。
僕の喉から、悲鳴が溢れ、迸った。
(続く)
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