第27話

       ◆



 そいつは、とトナリの思念が流れ、続きがないまま消えていった。

(危険です、ハヴェル様)

 最初に意見したのは、ツリナだった。僕は彼女に頷いて見せる。

「危険は承知だよ。でも他に手段はないと思う」

(供犠になるということは、ハヴェル様も肉体を失ってしまいます)

「かもしれないね」

 そんな簡単に! とツリナが僕に掴みかかってきた。実体のない幽霊に取りつかれたはずなのに、僕の体は一歩二歩とよろめいた。

(ハヴェル様には役目があるでしょう! それを、放り出すつもりですか!)

「今、行動しなければ、使命も何もないよ」

 僕は無意識にツリナの手をとろうとして、彼女の手は僕の着物を掴んでいるのに、僕の手はツリナの手をすり抜けた。幽霊というのは便利なものだ。

「だからツリナ、僕をあまり困らせないで」

 ツリナは俯き、そして唇を噛み締めて、一歩だけ、僕から距離をとった。

(死んだら、許しません)

 そう思念が、深く俯いて表情を隠す少女から向かってきた。

 僕は笑みを浮かべることができた。

「死んでも、きっとここで亡霊として生き続けるよ」

 冗談なんて聞きたくありませんという囁くような思念の後、ツリナは僕に背を向けて、今度は十歩ほど、確かに距離をとった。勝手にしろ、ということか、見ていられない、ということかもしれない。

 次にスラギがかしこまった様子で、僕に頭を下げた。

(立派なご覚悟です。拙者、感服いたしました)

「これで失敗したら、スラギには笑われちゃうな」

(きっと、成功されると、信じております)

 ありがとう、と僕が頷くと、彼は彼で僕から距離をとった。

 最後には、トナリが僕と向かい合う形になった。

(死ぬつもりか、と問いかけたいところだが、お前にしてはいい発想だと思うよ)

 トナリはまずそう思念を向け、視線を僕から外した。

(神に対価を差し出すのは、昔からの習いだものだ。もし俺に肉体があれば、俺が代わりに挑戦するところだが、残念ながら、この体だ。神も一度、眷属にしたものを改めて贄にすることもできないだろう)

「でもきっと、僕はトナリを差し出さないよ」

(俺がお前の一番の家臣だからか?)

 そう思念が飛んできた時、僕は呆気にとられて、きっと目をいっぱいまで見開いていただろう。

「家臣? 僕の?」

 そこに驚くのかよ、とトナリが相好を崩した。

(ま、幽霊が家臣というもやりづらいだろうが、結局、この山には幽霊しかいないわけだしな。それとも俺やツリナが家臣じゃ不服か?)

「い、いいや、そんなことはないよ」即座にそう答えてから、ちょっと考える僕だった。「そうか、家臣を持つなんて、考えたこともなかった。そうか……、家臣か……」

(これからまたゆっくり考えればいいさ)

 トナリはいかにも気楽な調子でそう応じると、手を振って僕を促した。

(あまりここで無駄話している暇もあるまい。行くならさっさと行って、さっさと帰ってこい。ここで三人で、待っていてやるよ)

 僕は頷いて、改めて、三者三様の僕の家臣になるだろう存在を眺めた。

 本当に、家臣だなんて、考えたこともなかった。

 もっと親しい、友人のように思っていたのだ。

 そのことをトナリに、ツリナやスラギにここで打ち明けようかとも思った。

 でもそれは今じゃないだろうと、思い直した。山の神と対面し、戻ってこられたら、その時、その後に話をすればいい。そう思った。

 全てがうまくいけば、僕もそれなりに認められるだろうし。

 今の僕は何もできない、形ばかりの領主に過ぎないから、とてもじゃないけど、大きなことは言えない。

 トナリたちにふさわしい人間になったら、きっと彼らと並んで立てるだろう。

(行けよ、ハヴェル)

 ありがとう、と僕は頷き、彼らに背を向けて、巨木と対峙した。

 うろはうろとして、すぐ目の前に存在している。

 そこにあるのは漆黒よりもなお暗い闇。漂うのは墓地を思わせる冷えて湿った空気。

 僕は一歩を踏み出し、そのまま振り返ることなく、うろに入った。前と入った時と同じだ。身をかがめてくぐっていくと、その先は木のうろと言うよりは洞窟と化している。空気はよりいっそう冷たくなり、じめっとしている。

 僕は歩を進めていく。

 静かだった。今もやはり光が岩盤の割れ目から差し込んでいて、視界に困ることはないが、その圧倒するような静寂が空気さえも固形化させたようで、目に見えない何かを押しのけて進んでいるような感覚がある。

 そして以前と同様、光が僕の視覚を焼き。

 真っ白に一瞬だけ染まった視野が元の能力を取り戻した時。

 目の前には古びて錆まみれの剣が地面に突き立っていた。

 沈黙。

 僕は一歩だけ足を出し、声を出した。

「神よ、全てをご覧のはずだ」

 僕の声は幾重にも響き、徐々に消えていった。

 返答はない。

 しかし何者かが目の前にいるのは肌で分かる。

 僕は黙って、差し込む光に照らされる目の前の剣を見た。

(クーンズ伯爵)

 思念は唐突だったが、驚きはしなかった。

 覚悟は決まっていた。

 今度は、今回だけは、逃げるわけにはいかない。

(山を乱すものがおる。我の山をだ。その方は何をしている)

「ご存じの通り、私には何の力もありませぬ」

(我の僕であるはずのその方がそのような態度では、もはや僕とする意味もないか)

 山の神の思念は、全身が震えるほど強く、頭の中が漂白されていく感じがした。自分の思考が神の思考に塗りつぶされ、相手の発言の理解や、反論の思考を掻き消されそうになる。

「私に仕える霊魂があるいは、侵入者に対処できるかもしれませぬ」

(クーンズ伯よ。異なことを言う)

 ぐっと山の神の思念の圧力が増す。

(何か、思い違いをしているようだ。この山のものは全て、我のものだ。その方に仕える霊魂など、存在しない)

「それは」

 言葉に詰まる。

 詰まるけれど、今、反論する必要がある。

 仲間のためにも。

「それは、当人が決めること。人間はみな、自分が仕える主人を、自ら決めるものです」

(それもまた、異なこと。クーンズ伯、そなたは自ら、ここへ来ると決めたのか?)

 何を言われたのか、すぐには解釈できなかった。

 僕がここへ来た理由?

 そんなの、騙されるようにしてきたに決まっている。

 こんなところへ、望んでくるものがいるか。

 しかし、そんなことを正直に答えるわけにはいかない。だが、神を欺けるか。

 答えが頭の中で沸騰し、形を成さずに溢れ、散乱していく。

(答えよ、クーンズ伯)

 僕は一度、細く息を吐き、細く吸った。

 答えは、自然と出た。



(続く)

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