第23話

       ◆


 山を下って行くことしばし、何か、不穏なものが僕の背筋を這い上がってきた。

 思わず足を止めると、ツリナが足を止め、すぐ横をスラギが追い越しそうになってやはり止まった。最後にトナリが足を止め、振り返った。

(どうした?)

「今、何か……」

 言葉が掠れる。どうしてか寒気がした。今にも体が震えだしそうだった。

(ハヴェル?)

「い、急ごう」

 僕は歩みを再開して、トナリの横に並ぶ。トナリがそのまま横を進む。視線が僕の横顔に感じられた。

(何か感じたか? ハヴェル、顔が真っ青だぜ)

「よくないことが起こっている気がする」

(よくないことといっても、この山でいいことなんか滅多に起こらないぜ。そうでなければ、絶対に起こらない、と言ってもいい)

 今は無二の友となった幽霊の軽口に、どうとも答えられないまま、僕は先へ進んだ。

 とにかく先へ急ぐしかない。トナリは少しだけ歩調を早めて、改めて僕の前に立った。後をついてくるツリナ、スラギは無言だったが、それぞれに僕の態度を不審に思っているのは感じる。

 僕自身、何の確信もなかった。確信はないが、実感のようなものはある。

 しばらく進むと、その声が聞こえてきた。

 そう、紛れもなく声だった。男が何か喚いているようだが、まだ姿は見えない。

(元気な奴だな。酔っ払っているのかね)

 トナリが軽口を飛ばすが、しかし、それもすぐに無理になった。

 緩やかな傾斜の上に立った僕の眼下に、それが見えた。

 一人の男が剣を抜いて立っている。そして叫んでいた。

「さっさと出てきやがれ、山の神とやら! 出てこないとこの山にいるお前の眷属は全滅だぞ!」

 トナリが息を飲み、僕は絶句していた。

 男は一人だ。

 でも一人ではない。

 男は無数の亡霊に囲まれている。そして今もまだ、自然と亡霊は次々と虚空から湧き出している。

 形の上では男は亡霊に包囲されて、押し潰されるはずだった。

 それなのに、男に近づくそばから亡霊がちぎれ、かき消えていく。

(なんだ、ありゃあ……)

 トナリの思念が、思わずといったように僕の頭に流れてきた。

 男の顔が上がり、僕の方を見たのが、かなり離れていてもわかった。

 そして男が、好戦的で、野性的な笑みを浮かべたのも。

 真っ黒い髪を一つに結んだ男が、こちらへ向かって歩き始める。当然、その間には無数の亡霊がいるが、彼の剣に薙ぎ払われて、その姿を散らしていく。

「お前か! お前が山の神か!」

 男の大音声が激しく空気を振動させる。僕はまだ驚きから立ち直っておらず、その僕を守るようにすぐ前にツリナが進み出て剣を構えた。

 それさえも、男には嬉しいようだった。

「人間がいるのも驚きだが、ついでに幽霊なんぞに守られるとは、普通の人間じゃねぇな! 何者だ! 魔術師、それとも伝説の上の死霊術師か!」

 ビリビリと体が震えるような気がした時、一体の幽霊が僕の背後から飛び出した。

 スラギだった。

(ハヴェル様、ここは拙者が不届き者を成敗致す!)

 そんな思念を残し、風のようにスラギが斜面を駆け下りた。待て、という思念を置き去りに、トナリがそれを素早く追っていく。

 スラギは一瞬で、まさしく風となって男に肉薄した。

「こいつはいい! 意思のある幽霊かよ!」

 男はまったくの余裕だった。

 常人では不可視なほどに素早いスラギの斬撃は、まったく躊躇いがなかった。

 殺す、という意志以外にない純粋な一撃。

 それを、男は半身になって避けた。

 唸り声のような思念が発せられ、スラギの剣が斜め上に跳ね上がる。

 男はまた半身になって、背を逸らして避ける。

「そら!」

 なんでもないような声を伴った男の一撃が、入れ替わるようにスラギに向かう。

(避けろ! スラギ!)

 トナリの思念が爆発する。

 それがほんの刹那だけ早く、男の一撃より先にスラギに届いた。

 剣を剣で受けようとしていたスラギが、わずかに身を引いた時、スラギの剣は男の剣に触れた瞬間に消滅し、なんの抵抗もなく男の剣はスラギの片腕を切り飛ばしていた。飛んだはずの腕も、剣と同様、瞬きをする間もなく消え去っている。

 一歩、二歩と後退したスラギを救ったのはトナリで、トナリの鋭い斬撃の連続に男はスラギを仕留めるのを諦め、仕切り直すように距離をとった。

 男が嬉しそうに笑っているのに対し、トナリは緊張している。

「幽霊のくせに知恵が回るな! 面白い奴だ!」

 トナリはいつになく静かな思念で応じる。

(対魔術武装か)

「よく知っているな。魔術師連中を相手にするときに役立つが、亡霊にも使えて大助かりだ。もっとも、知っているんじゃ、ただの剣と変わらんか」

 男の声も静かになるが、それは弱気とは違う。より研ぎ澄まされ、まるで獲物を狙っている最中の動物を連想させた。

 二人が間合いを測る外で、スラギが腕の断面を抑えているが、腕は回復しないようだ。つまり、男が手にしている剣による負傷は、幽霊、亡霊といえども治癒しない。それは引いては、この山にいる亡霊は男にとっては人間と同様に駆逐できる対象ということだ。

 僕の位置から見ても、男の腰にはもう一振りの剣があるのが見て取れる。それも不吉だ。

 そもそも、並の使い手ではないのはたった今、目の前でやり取りされた剣術比べでわかる。

 ただの武芸者の技能を超えているように思えた。

(余程のバカ、余程の自信過剰でなければ、この山には来ないものだが、あんたもその口か?)

 呼吸を図るようなトナリの思念に、男は唇を歪めると、はっきりと答えた。

「俺はどちらかといえばバカの方だろうな。剣術バカさ」

(剣術バカにしては、腕が立つ)

「亡霊風情に褒められたところで、胸は張れねぇな!」

 声と同時に、男がトナリに肉薄した。トナリはトナリで、まるで知っていたかのように間合いを詰めていく。

 トナリはわざと間合いを潰し、男の自由を奪う作戦のようだ。

 しかし男は身軽だし、何より武器が圧倒的に有利だ。

 トナリは霊体であり、霊的な剣しか使えない。男の剣に、霊的なものを破壊する機能がある以上は、トナリの剣は男の剣を受け止めることさえできない。

 トナリにできることは動き続けて、回避することだけか。

「避けるだけでオレが倒せるか! 幽霊さん!」

 男の体の動きが切れ味を増し、その手が振るう刃が徐々に徐々にトナリに近づいていく。

 トナリの動きはすでに人間の限界に近いが、男の動きはその上をいっている。普通の肉体、普通の感覚の持ち主ではないのか?

 そしてついに男の剣が、トナリを捉えた。

 苦し紛れか、トナリが剣を立てたが、その剣は男の剣が何の抵抗もなく打ち砕く。

 剣が、トナリの胴体を捉え。

 トナリの肉体が溶けるように消えた。

「トナリ!」

 僕の喉から声が漏れた。

 男は愉悦感が表出したような笑みを見せ。

 次には、その背後に虚空からトナリが出現していた。

 半透明の剣が走り、とっさに振り向いた男を掠め、さらに翻った切っ先が男の手首を狙う。

 この不意打ちからの連続の攻撃に男がよろめき、そこへトナリが肩からぶつかっていった。

 衝撃で男の手元から剣が離れ、男は跳ねるように大きく距離をとった。

 向かい合う二人の間で、殺気が衝突した。



(続く)

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