第21話
◆
僕が何もできないうちに、夜が来て、朝が来て、また夜が来る。
僕はもうずっと何も食べず、飲まずに生活している。それでも体調におかしいところがないのにも慣れてしまった。食欲はもう湧かなかった。喉も乾かない。それなのに体がしぼむこともなく、乾くこともない。元のままだ。
左手の小指だけが不自然なぼやけたものに置き換わっている以外には、何もなかった。
僕は毎日を、トナリとツリナの稽古の見物で送っていた。
トナリはツリナを手玉に取っているが、ツリナは飽くことなく向かっていく。
ツリナもトナリのように自由に武器を用意できるようで、彼女は短剣を両手に持って、激しい運動でトナリを左右に揺さぶりながら攻めかかっていく。
かなり機敏で、ともすると視野を誘導されて死角に入られてしまうだろう。僕だったら間違いなく、あっという間にツリナを見失って、切り捨てられていたはずだ。
そんなツリナの動きに、トナリは難なくついていく。はたから見ているとツリナの左右への動きに対して、トナリは最低限しか反応しない。想像だが、視野をいっぱいに使って、ツリナを逃さないようにしているのだと思う。
体の動きも無駄がない。ほとんどその場から動くことなく、常にツリナを正面においているのがよく見えた。
剣を繰り出すにしても、魔法じみた動きを見せている。
ツリナの斬撃を防いでいる振りが、そのまま攻めになっている。ツリナは切りつけたはずが、それをそらされた直後に、目と鼻の先に剣を突きこまれていて、横へ転がるか大きく下がるかしてかわすしかない。かわすと言っても、トナリが本気になればかわす余裕などないかもしれなかった。
トナリが手にしているのは一振りの剣で、時折、これはわざとだろうが、ツリナに攻撃をつなげさせることがあるものの、トナリは一本で二本の剣の連続攻撃を鮮やかに跳ね返した。
そして最後にはツリナの胸を乱暴に蹴りつけてはね飛ばし、転げるツリナは悔しさと闘争本能が表出した顔つきで、またトナリに向かっていくのだ。
二人を見ていると、もし僕も剣術が使えたら、と思うこともある。
剣術を修めるのは一朝一夕にできることではないけれど、剣術をぶつけ合うことは、ある種の会話のように見える。会話にはなく、会話より深い、意思疎通が剣術の衝突の中にはあるように見える。
遊びではないし、怪我をする、場合によっては死ぬことさえあるのが剣術だけれど、剣を交えることで生じる理解は、正直、羨ましい。
何日も何日も、ほとんど言葉もなく、ただ剣で語り合う二人を見ていた。
一人は余裕たっぷりで、一人は必死で。
一人は堂々と、一人は果敢に。
一人は少しだけうんざりした態度で、一人は不屈の精神そのままに。
いつまでもいつまでも、技をぶつけ合っている。
そしてそんな二人を見ているだけの僕は、蚊帳の外にいるようで、まるでこの世界から弾かれているような、そんな気がした。
これは誰の気持ちだろう。
山の神も、剣の神であるとされるその一柱も、僕と同じことを考えるだろうか。
誰もに無視され、放置されて、でもすぐそばでは能力のある存在、自分の及ばない存在が楽しそうに生きているのを見るのは、苦痛だろうか。
いや、剣の神に能力がないわけがないし、神は人間などよりはるかに高い力を持つだろう。まさしく、神は万能の力を持っているはずだ。
なのに何故だろう。
僕が今、感じている言葉にできない無力感は、誰もに共通するんじゃないのか。
生きているものは、何かに関わっていなければ、生きているとは言えない。
何もかもと隔絶されてしまえば、それは死んでいるということになる。
神に生や死があるとは思えない。だがあの神にも意識はある。僕は対話したのだ。ほとんど一方的だが、あの神は言葉で語り、人間のような思考をしていた。
意識があり、言語で表現し、思考するということは、それはつまり、ある種の死があるのではないか……。
(ハヴェル?)
不意に頭の中に思念が走り、僕は長い長い思考、深い深い思考から現実に復帰した。
トナリが僕の顔を覗き込んでいる。その向こうではツリナが次々と姿勢を変えて手足や腰、脇腹、背中などの筋肉を伸ばすような動きをしている。亡霊となったわけだから人間の肉体と違うはずだけど、何か感覚のようなものは残っているのだろう。
(だいぶ青い顔しているが、何を考えている)
ぶっ通しで稽古をしていたはずのトナリは息が乱れたりしていないので、そこはやっぱり亡霊らしい。
「二人を見ていて、なんとなく……」
そこまで答えてから、自分がさっきまで考えていたことが非常に曖昧で、観念的なことに気づいた。
神が生きているか、という発想は、かなり無意味な発想に近い。
一部の学者はそのような概念について議論しているようだけど、広範的に神学などと表現されるものは実学ではないというか、それで農業や経済、科学の工学や化学といった分野に大きな革新がないだけに、極めて初歩的な学問である。僕も噂で聞いたくらいで、一般的な立場の人間よりも熱心な宗教家か、もっと言えば魔術師のような連中の方が好みそうな分野だった。
今更、僕が神の存在の有無を問うのも馬鹿らしいのだけど、実際に神らしいものと対話している以上、いるだろう、とするよりない。するよりないが、いたところでどのような利益があり、どのような不利益があるかは、やはり無意味な議論だろう。
残念ながら、今の世界では人間は自分たちの生活を自分たちで運営している。
衣食住で神から与えられているものはない。もちろん、最初にこの世界を設計した偉大な何者かはいるかもしれないが、人間は工夫と努力を果てしない時間の中で積み重ね、今の文明を築いた。
その過程に、神は存在しない。存在するのは才能があり、努力した天才と、ひたすら努力した凡人だけだ。
僕が神について真剣に考えなかったのは、そんな僕の世界観にもよるけれど、一部には亡父と亡兄のことがあるとも言える。
もし神がいて、この世を正しく導くのなら、父も兄も、死ぬ理由はない。
そんな単純な発想が、僕から神への信仰を削り取り、ないも同然にした。
神などいないか、世界に興味がない。そう解釈している僕が今になって、神に生死があるかを考える必要性はかなり怪しい。
(なんとなく、なんだ?)
トナリの問いかけに、僕は少し迷い、言葉にした。トナリならどう返答するだろう、と思ったからだ。
「この山の神は生きているのか、死んでいるのか、考えていた」
へぇ、とトナリは気の無い返事をする。
「トナリはどう思う?」
(神が生きているか、死んでいるか、なんて考えたこともないね。俺が気にするのは相手を切れるか切れないか、切ったかどうかだ)
「切ったかどうか、って、相手が死んだかどうか、ってこと?」
(相手が本当に死んでいないと、俺が切られる。ま、こうして亡霊になっちまった以上、死ぬこととも無縁になったがね)
どうしたら神が死んでいるか確認できる? と問い返そうといた。
トナリが不意に視線を横に転じなければ、僕は実際に質問しただろう。
ツリナも顔を上げ、トナリと同じ方向を見ていた。彼女はいつでも剣を抜ける姿勢に見えた。
僕も二人の視線の先を見て、そこにはただ藪があるだけしか見えなかった。
(……もし……)
いきなり控えめな思念が流れ、藪を突き抜けて、一体の亡霊が進み出てきた。
誰でもない、スラギだった。
しかし下着だけで、他は裸で、手に剣を下げていた。
ツリナが短い悲鳴をあげ、僕とトナリは黙りこくっていた。
何故、裸?
(続く)
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