第19話
◆
ツリナを見失ってから三日後、不意にツリナは姿を現した。
しかし、肉体は喪失し、彼女もトナリと同様、密度の濃い靄のようになっている。
僕は俯きがちに彼女を迎え、彼女もどこか寂しげだった。
(ハヴェル様は何も悪くはありません。これが、供犠のさだめなのですから)
肉体があった頃とは少し音程の違うツリナの思念が、僕の中に流れ込んでくる。
僕はただ、頷くしかなかった。
頷いても、言葉は出ない。
ツリナを救えなかったのは、僕の責任だ。
(ハヴェル様、どうか、お顔をあげてください)
僕は恐る恐る、ツリナを正面から見て、結局、目をそらした。それにツリナが悲痛な顔をするのは予想できた。そしてその通りになるのも、視界の片隅で見えた。
(まあまあ)
割り込んできたのはこの場で唯一、陽気なトナリだ。
(お嬢ちゃんはこうして亡霊の一員になったわけで、過ぎたことは仕方がない。今更、何もできんだろう。それよりか、次を考えるべきじゃないかね、諸君)
僕もツリナも、トナリに疑問の目を向けた。
(次って何ですか?)
ツリナが問いかけるのにトナリは胸を張って答える。
(これ以上の供犠が捧げられるのは、ハヴェルの本意ではないだろう。つまりこの供犠を捧げる仕組みを壊すか、止める必要がある。そうするのがお前の望みだろう、ハヴェル?)
ああ、と僕は答えたけど、とても力のこもっている発音ではなかった。
供犠を求めているのは山の神で、その山の神を調伏するのが、供犠を無制限に求める仕組みを止める手段の第一候補だ。
しかし僕は山の神と対面し、それが不可能だと思い知った。
(山の神のことは、脇へ置いておこう)
僕の心の内を察したように、トナリがそんなことを言い始めた。
(俺もこの山に来て長いが、元は武芸者だし、肉体を失ってからも剣術には興味があったが、この山の神や信仰のあり方、内実にはあまり関心がなかった。まぁ、アルコ殿とは長く一緒にいたし、あの爺さんが四苦八苦しているのも見てきた。そのあたりをもう一度、検めるとしよう)
ほら、座れ、とトナリが促したので、僕と二つの亡霊は向かい合って車座になった。
(まずは、だ。ハヴェル、山の神は供犠を求めているんだな)
「うん、そう……」
(止めることはできないんだな?)
「今のままだと、無理だ」
ならその筋はなしか、とトナリが話題を変える。
(ツリナ、俺はこの山に供犠を捧げている集落について、詳しく知らないんだが、彼らはこの山にいる神と何らかのやり取りがあるのか?)
(えっと)
ツリナが困惑したまま、答えていく。
(ただ、年に数回の儀式を行うくらいで、天候不順や農作物の不作、疫病が流行ったりすると、供犠を山に送り出すんです)
(つまり自分たちの都合で勝手にこの山にお嬢ちゃんのような供犠を送ってくるってことか?)
(はい。私がこの山に捧げられたので、当分はないと思いますが)
(お嬢ちゃんはどういう理由でこの山へ送られたんだ? 前に聞いたような気がしたが……)
(日照りです。ずっと雨が降らなくて)
ありそうなことだ、とトナリの思念が漏れる。
(俺たちは山から下りることができない。麓の人間と意思疎通することは不可能だから、説き伏せて供犠を止めることもできない。その上、ハヴェルが言うには山の神は供犠を求めている。供犠を出さないことで、何かが起こるかもしれない)
結局、打開策はなさそうだった。
「僕がやるしかないね」
自然、言葉が漏れていた。頼りない、はっきりしない発音になった。
「僕が、山の神をどうにかするしかない」
(できるかねぇ)
トナリが軽い調子で応じるのを睨みつけるしかないけど、トナリは動じた様子もなく、不敵な笑みさえ浮かべて僕の視線を受け止めた。
(無理をするなよ、ハヴェル。今は無理だろう。冷静になれよ)
「無理でも、やらなくちゃ……」
(絶対に無理と言ってはいないぜ。そこが一番大事なところだ。俺には一点、気になるところがあるんだ)
なんですか、と僕よりもツリナが身を乗り出した。
(俺の時もそうだったが、お嬢ちゃんの場合も、肉体が消滅するまでに二十日だった。そして一瞬で体は消えた。それなのに、ハヴェルはまだ肉体を保っている。その理由はなんだろう。俺が剣術を仕込んだからだとは思えない。あれはある種のクーンズ伯として山の神に対する印象付け程度の意味しかない)
そうだったのか……。死ぬ気で剣術の真似事をやったけど、要は言い訳か。
損をしたとは思わないけど、不自然な仕組みではある。
(ともかく、山の神はハヴェルをちゃんとクーンズ伯爵として認識している。俺やお嬢ちゃんと同じ人間のはずのハヴェルが、山の神にとっては何か違うんだ。何が違うかはわからないがね)
(そこに状況を打破する鍵がある、ってトナリさんは言いたいんですね?)
(打破できるかは知らん。ちょっと目を盗む程度かもな。しかしハヴェルは特別なんだろう。山の神に対面して、見逃されているのも大きい。いや、そもそも山の神と対面できることさえも例外か)
うーん、とトナリは大げさに腕を組んで唸っている。ツリナも斜め上に視線を向け、思案しているようだ。
(肉体は普通ですよね?)
(たぶん。肉体というか、身体機能に関しては見るべきところはない。俺やお嬢ちゃんをこんな状態でも視認できるし、思念のやり取りができるあたりは、感覚は常人とは少し違うかもしれないが)
なんというか、時々、非常に自然に貶されているような……。
(他の人は私やトナリさんを認識できないのですか)
(ほとんど認識する奴はいないな。もし仮に認識できるとすれば、そいつは腰を抜かすほどビビるだろうよ。この山は亡霊まみれなんだ)
(ならハヴェル様はやっぱり特別なんですよ。選ばれた人間なんです)
(選ばれた人間って、選んだのは統一王だろう。ただの人間のはずだがな……)
どうやらトナリはこの世に神秘などないと考えているようだ。山の神、剣の神に肉体を奪われて亡霊になっておきながら、超常的なものを安易な理由に採用しようとはしない。
僕からすれば、統一王陛下はどこか不思議な人間だった。
明言はしなかったけど、陛下は僕に何かを見たのは間違いない。
統一王陛下が選ぶ、ということは、もしかしたら、神が選ぶ、に近いような気がしている僕がいる。
もっとも、誰が選ぼうと僕は僕だし、僕の限界も確かにあるだろう。
でも、そう、僕が選ばれたことに理由があるのなら、僕にしかできないことがあるかのかもしれない。
ここでこうして、悩んだり、腐ったりしていることが必要だとしても、そこに居続けるのは間違いということか。
どうしても逃れることができない、逃げてはいけない、やるべきことがある、ということだろうか。
(何を考えている、ハヴェル)
「その、山の神と……」
僕が言い淀んだ時だった。
森が一斉にざわめき、無数に重なり合った音が轟音となって頭上から降ってきた。僕たち三人は揃って頭上を見上げていた。
(意外に早く、新しいお客さんが来たな)
トナリは平然としているが、ツリナは困惑している。
(私の次の供犠がこんなに早く送られてくる理由がありません)
(なら別なんだろう)
立ち上がりながらトナリが応じる。
(忘れたか? ここは剣の神の住まう場所だ。武芸者たちにとっては、憧れの地の一つでもあるのさ。過去の俺がそうだったように、どこかの剣術しか頭にないバカが入ってきたんだろう)
僕とツリナが座り込んでいるところへ、トナリが手を振って催促する。
(ほら、バカの顔を見に行こうぜ。気になるだろ?)
(あまり、気になりませんけど)
やや腰が引けているツリナに、そう言うなって、とトナリは引き下がらなかった。
(どうせ俺の姿もお嬢ちゃんの姿も亡霊で、ハヴェルが作用しない限り相手には見えないよ。ハヴェルの姿は見えるだろうが、隠れる場所には事欠かない。隠れて見物しよう)
こうしてトナリが興味を引っ込めないのに僕とツリナも腰を上げ、トナリに先導される形で見知らぬ誰かのもとへ向かって移動を始めた。
(会ったところで、どうするんでしょうか)
ツリナが僕にだけ聞こえるような細い思念を向けてくる。
(助けることはできないわけですし、放っておけばいいのではないかと思うのですが)
「僕もそう思うけどね……」
とだけ答えておく僕だった。
また助けることができない人と接さないといけない。
目を背けたかった。
でも、もうこの山に迷い込んだ人がいる。
助けられるだろうか。それとも……。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます