第18話

      ◆



 いつの間にか濃霧が立ち込め、先を行くはずのトナリの姿が見えなくなってきた。

 霧というよりも、雲の中に入ってしまったようだ。ルセス山がどれくらいの高さかは知らないが、さすがに雲に届くとも思えない。仮に雲に届いたとしても、ここまで視界は悪くないはずだ。

(見えたぞ)

 トナリの思念も、今はやや掠れ気味だった。

(あの祠だ)

 霧の中から染み出してきた形のトナリの横を抜けると、そうと知らぬ間に僕たちは巨木の前に立っていた。その巨木のどれくらいの大きさかすぐにはわからない幹の根元あたり、そこに人が入っても余裕があるうろがあった。

 そこが祠か。

(あの奥に山の神がおわす。しかし、ハヴェル……)

 トナリが僕を止めようとしているのはわかる。もちろん、これが最後の機会だと彼が解釈していることも、僕に伝わっている。

 そして僕が決して決意を変えないことも、逆に彼にも通じているはずだった。

(俺は、お前に消えて欲しくない)

「わかってる」

 僕の声はいつになくささくれだっていて、自分で自分の声とは思えなかった。

 親身になってトナリが接してくれていることも、そのトナリを僕が無理やりに行動させていることも、承知していた。

 それでも僕は、ツリナを、助けたかった。

 唯一の友人を裏切るとしても、自身を決定的に損なうとしても。

「ありがとう、トナリ。ここからは一人でいくよ」

 やれやれ、とトナリは嘆かわしげに首を振った。

(俺が中に入れないことを知っているんだろう? 俺とお前は、いつになく接近している)

 接近という表現が、僕には響き合っているというように理解された。

 僕の心とトナリの心は、同調して、同期している。

 今の僕はトナリの全てを理解できるし、トナリも僕を理解できるだろう。

 ただ二人は平等ではなく、僕が上位だった。

 クーンズ伯爵の力がそうさせるのかもしれない。もっとも、伯爵位などただの名義に過ぎないはずだから、僕の個人的な資質と言うこともできるだろうか。

 その答えをトナリは知らない。僕も知らない。

 トナリがすぐに横に立って僕を見ているが、もう言葉はなかった。

 僕は一歩、二歩とうろに近づく。トナリはもう見えない。すぐそこにいるが、彼は動かない。

 うろに入り込むと、そこは意外に広かった。やや傾斜があり、下へ下へと地面が降りていくようだ。大木の中に入り込むように見えて、実際には洞窟に入っていくような印象だった。

 頭上には所々に亀裂があり、乏しいが光が差し込んでいる。あれだけの濃い霧が立ち込めていたのに、どこから光が差しているのか、不思議だ。

 選べる道は一つしかなく、すべては望んだ通りだった。

 僕は一人きりで、強力な決意に突き動かされて、空洞を進んでいく。

 強い光が不意に目元に差し込み、僕は目を閉じた。

 ほんの一瞬のことだ。

 目を開いたとき、どこまでも続くようだった岩盤むき出しの洞窟はすぐそこが終点だった。

 そしてそこには、一本の剣が地面に突き立てられている。

 それは、まるで墓標のようだった。

 剣は大ぶりな作りで、抜き身だ。両刃でいかにも重そうな肉厚な作りをしてある。

 ただ、その剣はありとあらゆる場所が赤くさび付いていて、とても実用に耐えそうになかった。

 今にも折れそうな剣。

 しかし、何故だろう。

 この剣は絶対に折れない。そんな気持ちが胸の中に湧いてくる。どれだけ思考を巡らせ、意思を動員しても、折れないという印象をねじ伏せることができない。

 僕はただ立ち尽くして、目の前の大剣を見た。

 いつからだろう、周囲には潮のような匂いが立ち込めている。その匂いはまるで澱んでいるように濃くなったり、逆に吹き消されるように薄くなったりして、僕と大剣の周りを渦巻いていた。

 ここが神のおわす場所。

 神の座か。

「山を治める剣の神に申し上げる」

 僕の声は、張り上げるどころかあまりに密やかだった。密やかだが、震えはしなかった。

 ここに神がいることは、確信が持てる。

「これより先、供犠をいたずらに召し上げること、なきように願いたい」

 返事はない。

 風がどこからか微かにそよいでいる。そのそよ風さえに、一筋、息が詰まるような悪臭が混ざった気がした。

 血と肉の匂い。

 死と腐敗の匂い。

「山の神よ」

(クーンズ伯爵)

 返答は唐突だった。そして、強烈だった。

 トナリが僕に向ける思念に似ているが、今の思念は僕の脳天から背骨まで突き抜けるような衝撃があった。

 息が実際に止まり、全身の筋肉が硬直した。

(人の身にして、我に意見するか)

 僕は、答えようとした。

 答えようとしたのに、息ができない。言葉も、出ない。

(我が人の世に与えた恩恵の対価は、未だ足りぬ。とても足りぬ。供犠の数は、まだまだ足りぬのだ)

 もし僕がここで何かを言い返すことができれば、また違ったこともあっただろう。

 僕がしたことは、冷や汗にまみれたまま、一歩、二歩と下がることだった。その歩調でさえ、ブルブルと足が震えるせいで、よろめいているも同然だった。

(クーンズ伯爵。対価を差し出すこと、ゆめゆめ、忘れることなきよう。それが貴様の役目だ。よいな? お前は死ぬまで、我に尽くすのだ)

 周囲が真っ暗になったのと、思念の残滓が弾けるように途切れたのは同時だった。

 次に光が差した時、僕は洞窟の途中にいて、前方にはついさっきまであった大剣はなく、洞窟はまだまだ先まで続いていそうだった。

 無意識のうちに服の袖で額を、口元を、顎を拭ってから僕は向きを変えた。

 ダメだ。

 できない。

 僕はあの神とは、対峙できない。

 元来た道を引き返す惨めさは、情けないことに僕の中で一人でに言い訳がなされ、軽減されていった。

 あれほど、ツリナのことを考えていたのに。

 でも僕は、神と対面したのだ。それでいいじゃないか。神の考えを覆すことは、人間にはできない。僕にはとても無理だ。

 ツリナにどう話せばいいだろう。トナリは、どんな風に僕を迎えるだろう。

 ここに来るまでの強気、怒気は、恐怖に屈服し、もはや少しも残っていなかった。

 前方に外に通じているのだろう、ひときわ強い明かりが見えた時、涙が流れていることに気づいたが、それがどういう意味の涙かわからなかった。

 ツリナを救えなかったことを悔やんでいるのか。

 それとも、生きて戻れることを喜んでいるのか。

 僕は目元を強く拭い、そして洞窟から這い出した。

 トナリは、何も言わなかった。僕はトナリをまっすぐに見れなかった。

 僕たちは元来た道を、無言で歩き始めた。そしてしばらく歩いた時、沈黙に耐えきれなかったように、トナリが弱い思念を送ってきた。

(お前は悪くないよ)

 ありがとう、と言うべきだったかもしれない。

 でも僕にそれを言う権利があるか。

 僕が悪い。

 何の才能もない、ほんの少しの気概もない、そんな僕が悪いに決まっている。

 沈黙が戻ってきた。

 山の中はいつの間にか霧も晴れ、見慣れた景色になった。

 何も変えられないまま、僕は元の場所へ戻ってしまったのだ。




(続く)

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