第17話

       ◆



 僕とツリナとトナリの日々はあっという間に過ぎてしまった。

 半日をかけて食料を探し、残りの半日は剣術の稽古を行う。夜は眠るだけだ。

 剣術に関しては、ツリナはかなりの腕だった。トナリには敵わないが、僕では相手にならない。

「小さい頃から仕込まれましたけど、ハヴェル様は何の稽古も積んでいないのですか?」

 僕を手もなく捻った後のツリナは、倒れこんでいる僕にそんな言葉を向けさえした。羞恥心に顔が熱くなるが、事実だった。

「僕は武闘派じゃないんだよ。知的労働の方が向いている」

 言い訳を口にする僕に、ツリナは少し首を傾げた。

「でも、クーンズ伯爵になったわけですよね。この領地を治めるのに、剣術が不要とは思えませんが……」

 そんな素朴なツリナに、トナリはくすくすと笑っている。俺が無様で拙い剣術しか使えないことを知っているとはいえ、トナリに僕をからかう権利があるとも思えなかった。これでも貴族の末席に連なる人間として、それ相応に勉学には励んだのだ。芽は出なかったし、まったくの別分野で登用されたわけだけど。

「貴族がみんな、剣術と算術と論理に優れているわけじゃないよ」

 なんとかそう言い返す僕に、そうですね、とツリナは答えてくれたけど、明らかに笑いをこらえていた。

 そんな具合で、僕は供犠の少女に一個もいいところを見せる間もなく、ただ時間だけを空費した。もしこの山に書庫のようなものがあれば、いくらでもそれを読み込んで何らかの抜け道を探しただろうけど、残念ながら書庫はない。わかってきたことはこの山に関するあれこれは、すべて口伝ということだ。

 僕はアルコから話を聞くしかない。もしくはトナリか、別の亡霊から。

 でも僕はアルコを拒否し、トナリは参考になることは言わず、他の亡霊とは接点を持てなかった。

 ついに期日とされる二十日目の朝がやってきた。

 その前日の夜も、ツリナはシクシクと泣いていた。僕の方も泣きたい気持ちだったが、ぐっと堪えた。僕が泣いたところで、少女が助かるわけではない。最後の最後で、僕の矜持が僕を支えたらしかった。

 朝、鳥が鳴き、いつになく風が渦巻いていた。

 僕もツリナも無言で、前日に用意してあった果物を食べていた。水分が多く含まれていて喉の渇きも少しは癒える。

 でも僕はほとんど食欲を失っていた。それがツリナの身に降りかかることを気にしているせいかのか、別の理由かは判然としない。僕も山に入ってもう一ヶ月以上が過ぎている。いつか、肉体を喪失するかもしれない。今はまだ、体は左手の小指を除いて残っているけれど。

「ハヴェル様」

 僕が思考に沈んでいるところへ、ツリナが声をかけてくる。僕は顔を上げた。

「この果物、美味しいですね。麓で食べたことは一度もありませんでした」

「あ、うん、そうだね。この山にしかないのかな」

 どうでしょうね、とツリナが答えた。

 そんな気がした。

 瞬間、強い風が吹いてツリナの声はかき消され、僕には地面に積もっていた湿った枯れ葉がものすごい勢いで吹き付けてきた。顔を背け、かじりかけの果実を手にしたまま、顔をかばう。

 風が止み、僕は前を見て。

 ツリナがいないことに気づいた。

「ツリナ……?」

 声をかけても、返ってくる言葉はない。

 今さっきまで、果実を食べていたのに、その姿は影も形もなかった。

 ただ、僕の手にあるものとよく似た、かじりかけの果実が地面に転がっていた。

「つ、ツリナ……、ツリナ!」

 声がどこまでも響き、幾重にもこだました。

「ツリナ! 返事をしてくれ! ツリナ!」

 僕は立ち上がり、周囲をぐるりと見回す。

 少女の姿は消えていた。

 それでも声を張り上げようとした時、目の前にぼんやりと、次にいやにはっきりと幽霊が浮かび上がった。

 ツリナであればいい。咄嗟にそう思う僕がいた。

 瞬間的な自分の思考に、やはり瞬間的に強烈な嫌悪感を覚えた。

 そして、僕の前に立っているのは、トナリだった。

(まだ肉体を失って間もない。すぐにはお前でも見えんだろう)

 トナリの思念に構わず、僕は叫んだ。

「ツリナ! 答えてくれ!」

(お前には見えないだけで、すぐそこにいるよ。あまり、お嬢ちゃんを悲しませるな)

 頭の中に響く声に、僕は息が詰まった。

 そこにいるのか。僕には見えない姿で、そこに。

 急に歯の根が合わなくなり、顎が震え、奥歯がガチガチと音を立てて触れ合った。

 涙が溢れ、次には苦鳴が口から漏れた。僕は立っていることもできずに座り込み、声を止めることもできず、泣いた。

 父の葬儀でも、兄の葬儀でも、ここまで泣きはしなかった。

 形こそ違えど、同じ死であるはずのに、何がここまで僕に訴えてくるのだろう。

 父と兄は、終わり方こそ望んだ形ではなかっただろうが、少なくとも、何かを成そうと行動することができた。責任を引き受け、それを果たそうとした。

 しかしツリナは違う。全てが他人の都合で、勝手に決められ、押し付けられている。

 山の神が今ほど憎いこともなかった。

 山の神。

 僕の声はピタリと止み、涙は頬を一筋流れたのを機に、止まった。

(ハヴェル?)

 トナリが膝を折り、僕と視線の位置を合わせた。

「トナリ」

 僕は頭の中に浮かび上がった思考を、そのまま声にした。

「肉体を奪うのが山の神なら、肉体を与えることもできるんじゃないか?」

 トナリはすぐには答えなかった。

(おいおい……、ハヴェル、頭がおかしくなっちまったのか? いくら神でも、そこまで強引なことは……、おそらく、無理だと思うが……)

「アルコさんはそれを試したか?」

(試しちゃいないだろう。山の神と接触すれば、相応の報いを受ける。あの爺さんは、その点では慎重だったからな)

 僕は目元を拭って立ち上がり、歩き出した。トナリが横に並んでくる。

(どこへ行くつもりだ? ハヴェル)

「山の神の元へ行く。他に手段はない」

(それは危険だ。やめた方がいい)

「他に手段はないんだ」

 同じ言葉を繰り返す僕に首を振ったトナリだが、僕の横を歩き続けた。僕がデタラメに歩いていることを指摘しないのは、彼も迷っているからだと、僕には彼との思念のつながりでわかっていた。

 僕が調伏した亡霊は、今だけは僕を決して無視できないこともわかっていた。

(俺に案内させるな、ハヴェル)

 そう言いながら、トナリは先に立って歩き始める。僕の意思、強烈な意志が彼を動かしている確信があった。

 どうなっても知らないぞ。

 トナリはその思念を最後に、抵抗をやめて、僕を先導し始めた。

 山の神がどういうものであるにせよ、神の一柱には違いない。人間の魔術師、その最高峰である「六星の魔導師」をも超える力があるはずだ。

 はるか昔、今は姿を消した神には人間が決して踏み込めていない死者蘇生さえも成した神が存在した、という古文書を読んだことがある。伝説に過ぎないと評価されていたが、少なくとも僕は目の前で、人間の肉体を一瞬で消滅させる神業を見た。

 なら、逆ができない道理はない。

 トナリはいつになく足早に先へ進んでいる。僕の焦燥感が彼にも影響しているのだ。

 一刻も早く、神と対面する必要があった。

 ツリナが消えてから、時間を経てはいけない気がした。

 一秒でも過ぎるうちに、ツリナの肉体の残滓はこの世界からより徹底的に消されていくだろう。

 僕はひたすら歩いた。

 いつの間に感じなくなった足の痛みがぶり返したが、構わなかった。藪を突き抜けていくときに、身体のそこここに傷ができるのも、どうでもいい。

 神の元へ。

 その一念が僕を突き動かし、今までに踏み込んだことのない山の深奥へ僕を進ませた。

 空気がぐっと冷え込み、湿り気を帯びる。靄が立ちこめ、見通しが悪い。

 それでもトナリの背中が見える。

 亡霊の背中を追うことで、僕は現実世界から、神の世界へと、足を踏み入れた。




(続く)

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