第16話

       ◆



 まずは食事。そして水。その次が剣術と決まった。

 そりゃ無理筋だろうけどね、とトナリは文句を言っていたけど、とりあえずは僕に従うことに決めたらしい。真意はわからないものの、助けてもらえるのはありがたい。

 ツリナと会った日の夜はあっという間に明け、翌日には僕とツリナ、そして亡霊であるトナリは、三人で揃って森の中を歩き続けた。季節柄、多くの収穫は望めないけれど、実をつけている木は何本かあるし、地面の中に埋まっている根が食べられる植物もある。

 そういう全部はトナリが案内し、調理法に関してはツリナが知識を持っていた。

 僕はただくっついて行っただけだ。情けないことに、地理も分からなければ、植物の知識もない。

「鍋の一つでもあればいいのにね」

 ツリナは落ち着きを取り戻し、最初の激情もどこかへ隠した様子で、そんな冗談を口にした。

 しかしそれも、日が暮れるまでだ。

 僕とツリナが揃って休む、その最初の夜。僕はかすかな音に目が覚め、体を起こしそうになるのを無理に止めた。そして呼吸をさりげなく抑え、寝ているように装った。

 ツリナが、声を潜めて泣いていた。

 寂しいのかもしれない。自分の未来が幾ばくもないことを悲観しているのかもしれない。

 僕は夜の闇の中で身じろぎもせず、ツリナが声を殺して泣いているのを、ただ認識していた。

 僕と彼女にはいくつも共通点があったけれど、決定的に違うことがある。

 僕にはあるいは未来があるかもしれない。極端に楽観すれば、おそらくある。

 でもツリナの未来は闇に閉ざされている。

 日が暮れかかる頃、ツリナはトナリと明日は剣術の稽古をしようと言い合っていた。トナリは困り顔だったけど、僕が頼むと呆れて何も言えないというそぶりで首を縦に振った。

 ツリナは寝る寸前まで、そのことを楽しみにしているという様子だったが、今は違う。

 僕が剣術を身につけて山の神の手を逃れているのは、僕がクーンズ伯爵だからだろうと、ツリナはもう知っている。聡いことがここまで残酷な仕打ちになることがあるだろうか。

 伯爵であり、この山の領主である僕と。

 山の神に捧げられた人身御供であるツリナと。

 それだけのことで、これほどの違いがあるのか。

 僕が息を潜めているうちに、ツリナの泣き声は消え、眠りが再び彼女の上に舞い降りたようだった。

 念には念を入れてツリナが眠っているのを確認してから、僕はそっと立ち上がった。そのまま足音を潜めてツリナの元を離れ、十分に距離ができてから僕は虚空に囁くによう声をかけた。

「トナリ、見ているんだろう?」

 返事はない。それでも僕は言葉を続けた。

「そばにいるんだろう?」

(亡霊にだって夜は寝る時間だぜ)

 冗談を言ったトナリは、僕のすぐ背後に出現した。僕は動揺を悟られないように、わざとゆっくりと振り返った。

「ツリナはやっぱり、どうしようもないのかな」

 そう切り出す僕に、短い、断固とした返答があった。

(どうしようもない)

「そこを、なんとか……。例えば、アルコさんは何か知らないかな」

(無理だろうよ。あの爺さんがどれだけ苦しんだか、お前にはわからないのか?)

 ぐうの音も出ない、とはこのことだ。

 アルコは今では亡霊だが、肉体が死ぬまではクーンズ伯爵だった。それは、今の僕と同じ役割を与えられ、それを死ぬまで継続したことを意味する。僕がこうして早速、ツリナという供犠と遭遇したように、アルコだって何人もの供犠が山に捧げられるのを見てきたのは、想像できる。

 それがアルコの負担にならなかったわけがないし、僕の想像も及ばない苦痛が、あの老人の上には降りかかったに違いない。

 何より、アルコはアルコで、供犠を供犠とさせないことを試さなかった理由がない。

「それでも……」

(直接に聞いてみるか? すぐそばにいるようだぜ、あのご老体は)

 え、と声が漏れた。思わず声量が普段通りになり、びっくりするほど静寂が支配する森にその声は大きく響いた。

「話せるかな」

(老人は朝が早いもんだ。ついて来い)

 トナリが先に立ったので、もう日常と化している形で僕はその背中を追った。

 ほんの数分の移動で、なるほど、確かにアルコの亡霊が地面に座り込み、背筋を伸ばして待ち構えていた。

「あ、アルコさん」

 僕が勢い込んで声をかけようとするのに、アルコがすっと手のひらをこちらに向けて、言葉を拒絶した。その姿勢のまま、アルコの思念が僕の頭に流れる。

(供犠は必ず、肉体を神に奪われる。他の可能性はありえない)

「何か、ありませんか。肉体の喪失を、一日延ばすだけでもいいんです」

(ないな。何度か試みたが、無意味だった。きみの気持ちはよくわかる。しかし、その願望だけは、結実することはない)

 何も言えないままに僕は唇を噛み締め、俯くしかない。

 アルコがダメだと言っても、出来なかったと言っても、僕ができることがあるかもしれない。

 そう強く、現実を歪めるほどの思いで念じたが、念じることで原理原則、絶対の結果を捻じ曲げられる人間などいない。

 アルコは黙り、トナリは黙り、僕も黙った。

 遠くで鳥が鳴き、まるでそれが先ぶれだったようにかすかに周囲の闇が薄くなった。

 朝が来たのだ。

(供犠の少女のそばにいてやることだ)

 アルコはそう言って、すっと手を下げた。話は終わり、ということらしい。

「僕は、僕は……」

 言葉が自然と出た。

「諦めませんよ。絶対に」

(それはきみの自由だ)

 アルコの返答は素っ気なかった。

 僕は彼に背を向けて、歩き出した。おい、とトナリの思念が追いかけてきたけれど、僕は足を止めなかった。地面に残っている自分の足跡を頼りに、先へ進む。慌てたようにトナリのぼんやりとした輪郭が横に並んできた。

(冷静になれよ、ハヴェル)

「僕は冷静だよ」

(そうは見えないがね……)

 そう思念をひねり出してから、トナリもやっぱり口を閉じた。僕ももう何も言わなかった。

 やがて、ツリナの姿が見えてくる。彼女はもう立ち上がっていて、周囲を不安げに確認しているところだった。僕に気づくと、彼女は安堵の表情に変わり、こちらへ駆け寄ってきた。

「ハヴェル様、どこへ行っていたの?」

「うん、きみを助ける方法を知っていそうな人に、話を聞きに行っていたんだ」

 そんな人がいるんですか、とツリナが驚いたように口にして、次に別の驚きで口元を手で隠し、表情を曇らせて俯いた。

「ハヴェル様は、本当にこの山にいる亡霊と意思疎通できるのですね……」

「え……、あ、ああ、そうなんだけど……」

「やはり、この山を治めるのにふさわしい方なのでしょうね。私とは違う……」

 違う人間、と言おうとしたのだろうか。でもその言葉は、ツリナの口から出ることはなかった。

 僕が言葉を探している間に、ツリナの表情には明るさが戻り、「食事にしましょう」とハキハキとした声がツリナの口から出た。

 僕はツリナの助けにはならない。

 何も知らず、何もできない。

 僕は歯を噛み締め、それでもなんとか「そうしよう」と普段通りの言葉を口にできた。

 朝日がすでに周囲を明るくしている。

 きっと夜がくれば、ツリナはまた泣くだろう。

 その彼女に僕が何かできればいいのに。

 無力がこれほど心を痛めつけるものだとは、今この時まで、感じたことがなかった。

 自分のことではなく、他人のことだから、こんなに心が痛むのだろうか。

 それは、偽善か。

 それとも、本心か。



(続く)

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