第15話
◆
(自分がどうなるか、理解しているか)
ツリナに答えたのは、トナリだった。ツリナは顔を上げずに、応じる。
「山の神の僕として、未来永劫、お仕えすることになります」
(そんな綺麗なもんじゃない)
きっぱりと、トナリが言い切るのにツリナが顔を上げ、睨めあげるようにトナリに鋭い視線をぶつける。だがその程度では、元は武芸者の霊魂を動揺させることは少しもできなかった。
(僕としてお仕えする? バカめ。周りを見てみろ)
トナリがぐるりと周囲を見回した。
途端、僕は何かが激しく歪むのを感じた。ツリナも同様だったようで、一歩、横によろめいて不思議そうに姿勢を取り直すと、言われるままに視線を四方へ向け、そして、硬直した。
僕もまた、同じようなものだった。
木立の中を、数え切れない数の幽霊が彷徨い歩いている。どこへ向かうわけでもなく、覇気があるわけでもなく、ただふらふらと、まさに彷徨っているのだ。
男もいれば女もおり、老人もいれば子どももいた。
しかし共通しているのは、人間の姿をしていながら、人間特有の意思が少しもないことだった。
(お前もああなる。それも二十日後に、間違いなくそうなる。どうだ? あれが神の僕に見えるか? 俺にはただの亡霊にしか見えんがね)
ツリナは立ち尽くして、ちょうどこちらに背中を向ける形で、動きを止めていた。
僕だってそうだ。
まさかこの木立に、これだけの亡霊は彷徨っているとは、少しも知らなかった。トナリやアルコのように、意思を持つ幽霊が大半だと勝手に思っていた。しかし、そう、山から降りられずに発狂した男の話を聞いていたじゃないか。
肉体を失ってもこの山に閉じ込められ、果てしなく長い時間を過ごすということは、人間らしい意思さえも破壊するのだ。
(お嬢ちゃんの覚悟は立派だったが、実際はこんなもんだ。あと二十日間、自分を売った親と、自分をこの山に送り込んだ奴を恨んで、憎んで、そうして幽霊の仲間入りをするんだな。幽霊だか亡霊だかになっちまえば、もう恨み言を聞いてくれる奴も滅多に現れないし)
嘘だ。
その短い言葉は、ツリナの口から漏れた。
「嘘だ」
勢いよく彼女は僕を振り向くと、意識を失った時とそっくりの土気色の顔で、僕を見た。
「クーンズ伯、あなたはそうして、肉体を保っている。なら、私にも……」
(おいおい、お嬢ちゃん。あんた、神の供物になるって胸を張っていたじゃないか)
トナリは冷酷だった。あるいはそれは、トナリなりの怒りの発露だったかもしれない。
(今更、命が惜しくなったか? 残念だが、この山に入った時点でお前は霊魂になってもこの山をうろうろする以外に選択肢はないんだよ。これは絶対だ。諦めな)
「で、でもクーンズ伯は人間のまま……」
(こいつは例外だ。例外だが、保留されているだけだ。ま、あんたより先に肉体を失うことはないだろうから、安心しなよ)
残酷なトナリの言葉に、ツリナの視線がオロオロと右へ左へ、激しく彷徨い、そして止まった。
咄嗟に僕が動いたのと、ツリナが野の獣が獲物に飛びつく如く動いたのは同時だった。
そして二人同時に地面に置かれている、僕の短剣に飛びつき、奪い合うことになった。
ツリナは意味不明な声を発して、あらん限りの力で短剣を奪おうとした。肘や拳が僕の体のそこここを容赦なく打ち据え、所構わず爪が皮膚を浅く抉る。
「やめろ! ツリナ! やめるんだ!」
幸いというべきか、ツリナと僕では体格差があった。ツリナは弾き飛ばされ、僕は両手で抱きすくめるようにして短剣を懐に隠した。
ツリナがゆっくりと座り込み、泣き始めた。
(事情を知らないっていうのは残酷だな)
トナリがそんな言葉を漏らしながら、はっきりと小指の先で耳をほじる動作をした。呆れた、という意思表示だろうけど、僕にはツリナの気持ちはよくわかった。
僕と彼女に、大きさな差はない。彼女は嘘を信じ込まされて山に入り、僕はほとんど何も知らされずに山に放り込まれた、その違いはある。けど二人とも、いつ肉体を喪失するかわからないという点では、まったく同じだった。
きっと今、この山で生きている人間は僕とツリナしかいないだろう。
「ツリナ」
僕は自分が抱えている短剣がいやに重いように感じながら、蹲って泣いている女の子に声をかけた。
「何か、別の道があるかもしれない。それをこれから、探してみよう」
そんなもんがあるかね、とトナリが割り込んできたが、どうやら彼なりの優しさか、その思念は僕にしか伝わらなかったようだ。
ツリナは何度も服の袖で目元を拭い、それでも少し声を漏らしながら、立ち上がろうとした。僕は自然、彼女に歩み寄り、手を貸していた。短剣を奪われないように十分に注意しながら。
「まずは落ち着こう。といっても、ここにはお茶なんてないし、水すらもないのだけど。あそこに川が流れているから、それがあるいは、飲めるかもしれない」
自分でも何を言っているか、よくわからなかったけど、ともかく僕はツリナを支えて、小川の方へ歩いた。
ツリナはそのうちに泣き止み、泣き顔をどうにかしようとしたのか、ささやかなせせらぎの水をすくい、顔を洗い始めた。一応、水はきれいなようだ。飲めるかどうかは、判然としないけど。
「そういえば、例の箱には何が入っているの?」
少し落ち着いてきたらしいツリナの背中に声をかけてみる。彼女は泣いたせいだろう、少し上ずった声で答えた。
「捧げものです」
「それって例えば、食料だったりする?」
それはないだろうな、とまたトナリの思念が飛んできて、ツリナはツリナで首を左右に振っている。
「剣の神に捧げる装束です。それが慣例だそうです」
装束か。さすがに着物は食べられないか。
そんなことを考えていると、ツリナが振り返り、ちょっとだけ笑った。
「クーンズ伯爵は着物がその、汚れてますから、着替えたらいかがですか」
そう言われて、自分が雑巾を仕立てたような服を着ているのに気づいた。
「あ、うん、じゃあ……いや、でもどうせ、すぐに汚れるよ。綺麗な着物はとっておこう」
僕の返答に、ツリナは少し笑ったようだった。
少しは打ち解けられたようだ。
「あ、僕のことは、クーンズ伯なんて呼ばなくていい。ハヴェルって呼んでいいよ」
「では、ハヴェル様とお呼びします」
「様も不要だよ。そこの亡霊は、呼び捨てだしね」
僕がトナリの方を見てそう言うと、トナリはちょっと不機嫌そうな顔に変わり、
(俺の方が年上だしな)
と簡単に答えた。
少しおかしそうにツリナが笑い、次に、彼女のお腹が小さくキュゥゥっと音を立てた。
沈黙の後、僕は咳払いして、「食料でも探しに行こう」とツリナを促した。僕はもう空腹に慣れているけど、ツリナは別だ。
ツリナは無言で頷き、僕の後をついてきた。
もっとも、僕は不機嫌そのもののトナリの背中を追っていたわけだけど。
この山のことは、さっぱりわからないままだ。
(続く)
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