第13話

       ◆


 僕が反射的に手を上げた時には、決着はついていた。

(死なせちゃいないよ)

 まっすぐに立っているトナリの横で、木でも倒れるようにツリナが崩れた。

「ちょ、ちょっと!」

 思わず声を上げながら僕はツリナに飛びつく形になったが、確かに死んではいなかった。意識はないが、息をしているし、時折、呻いている。

(本当は最初の一発で気を失うはずだったが、どうも武術の心得があるらしい。かといって、武芸者としてこの山に入ったわけではなさそうだけどな。本人もそんなようなことを口走ったし)

 ペラペラと思念をまくしたてるトナリを無視して僕はツリナをどうするべきか、考えていた。

 できることなら山から下界へ降ろしてあげたい。でもそれはできない。

 何か、選択肢があるだろうか。

 僕がここまで必死になるのは、抗いがたい無力感が僕を苛んでいるからだった。無力感は無意識のうちに花開き、今や拭いがたく僕の心を拘束している。

 無能な伯爵。彼女はそう言った。

 彼女の中にある「無能な伯爵」は僕ではなくとも、でも、僕だった。

 僕はクーンズ伯爵として、選択しなくてはいけない。その上で、行動しなくてはいけない。

 誰かを、幸せにするために。誰かを不幸にさせないために。

 それは故郷で、亡父が、そして亡兄が心を砕いたことだった。

 そして僕がずっと目を背けて、逃れようとしてきた行為であり、また責任の果たし方だった。

(ハヴェル)

 トナリが声をかけてくる。その思念を頭から締め出すことは、できない。

(そのお嬢ちゃんは、紛れもなく供犠だ。今まで、似たような子どもを何人も見てきた。この山を信奉する連中が、剣の神にふさわしいように剣術をたたき込み、こうして送り込んで来るんだ。荷物を持ってくるのも同じだ。ほら、そこに箱があるだろう)

 その言葉が示す通り、ツリナはその細身で背負える限界だろう箱を、この場に持ってきている。何が入っているか知らないが、少なくとも食料や水ではないだろう。

 荷物のことはどうでもいい。

 ツリナを、何とかしなくては……。

(諦めろ、ハヴェル。それよりも下手なことをすれば、お前がそのお嬢ちゃんに寝首をかかれるぞ。どうやらクーンズ伯爵の威光など、ないも同然らしい。まさか平民が貴族様に刃を向けるなど、場合によっては一族郎等、まとめて首をはねられるぞ)

「それでも、僕は……、僕は……!」

 聞き分けのないことを言うな、というささやかな思念が僕の頭に響く。

(そのお嬢ちゃんはお前を殺したい。お前はお嬢ちゃんを助けたい。どこまでいっても平行線だろう。ついでにお嬢ちゃんが二十日後には肉体を失うことも考えてやらなくちゃならん。本当なら放っておくべきだ。それで丸く収まる)

「何も収まっちゃいないじゃないか!」

 なら、とトナリの調子が変わった。

(なら、そのお嬢ちゃんと話し合うことだ。せいぜい、殺されないように気をつけな)

 トナリの姿がその思念が消えると同時に、かき消えた。

 僕は一人きりで、気を失った少女とその場に残された形だ。

 トナリを呼ぶことは、できなかった。したくない。どうせ協力してくれないだろう。

 僕一人で、できるはずだ。

 僕はツリナの体を持ち上げ、背負いあげた。箱の中身を漁ることは憚られたし、まずは水を用意しようと思ったのだ。ツリナをこの場に残して離れると、戻ってこれない気がしたから、ツリナの方を運ぶことにした。

 ツリナと出会う前に小川とも言えない小川を見つけたのは、都合が良かった。今まで、この山で水を見たのはあの時が最初だった。他に選べる場所はない。

 僕は背負ったツリナを時折、揺すり上げながら、歩き続けた。

 しばらく進むうちに背中でツリナが身じろぎした。

 殺されるかもしれない。僕の背中にいて、彼女がその気になって首でも締め上げれば、僕はひとたまりもない。

 それでもいいような気がした。

 僕はクーンズ伯爵として何もしていないに等しいけれど、僕が死ぬことで誰かのためになるなら、死んでもいいかもしれない。

 何の意味もないこの命に、ささやかな意味が出現するのだから。間違った意味でも、無意味に死ぬよりはいい。

 足を送り続けた。前方でわずかに地面が傾斜になり、水が流れるささやかな音が聞こえてきた。

 ついに「う、ん……」と背中でツリナが声を漏らした。

 僕は歩き続けた。

 背中でツリナが気がつき、声を上げて暴れた時、ちょうど僕は太い木の根を踏み越えるところで、不安定な姿勢が完全に崩れて転倒していた。地面に投げ出される形になったツリナは素早く受け身を取り、跳ね起きているが、僕はすっ転んで、尻餅をついたような姿勢から起き上がることもできていない。

 ツリナの瞳には怒りと戸惑いがあり、その葛藤が彼女の行動を決定させていないように見えた。

 僕は座り込んだまま、彼女を見ていた。

「私を」

 ツリナが絞り出すような声を発した。

「何故、殺さなかった」

 そんなこと、決まっている。

「殺す気なんて、最初からないんだ。僕がきみを殺す理由がない」

「しかし、あの、亡霊が……私を……」

 彼女の視線が素早く周囲を確認しているのが見て取れた。

「あれは不手際で、その、彼の暴走だ。僕の意思じゃない」

「亡霊は、どこ?」

「ここにはいない。安心していい。ここにいるのは僕だけだ。この通り、武器は短剣しかない」

 僕は腰に帯びていた短剣、鍔が統一王家の紋章となっているそれを鞘ごと抜くと、彼女の前に投げた。ちょうど二人の中間あたりに、それは落ちた。

 沈黙。そして停止。

 ツリナが一歩、前に踏み出した。僕に歩み寄るというより、短剣を手にしようとした形だ。

 彼女が武器を手にすれば、対抗する術はない。トナリももう僕には関与しないだろう。

 死ぬのが、僕の真意だと知っているから。

 ついにツリナが短剣を手に取った。そして抜こうして、抜かなかった。

 彼女は僕をまっすぐに見た。

 心の内を探るような眼差しには、怯えも混ざっていた。

 こんな山の中でひとりきりで、僕と対峙するのは、やはり彼女にも恐怖なのだろう。

 そのことが僕の思考をよぎった時、ツリナは短剣を抜こうとして、不意に片膝をついたかと思うと、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。

「ちょ、ちょっと!」僕は慌てて彼女に駆け寄っていた。「大丈夫か?」

 仰向けにすると、顔面は死人のように蒼白になっている。呼吸も苦しげだ。

 どうすればいい? 何をしなくちゃいけない?

「トナリ!」

 僕は叫んでいた。

「聞こえているんだろう! トナリ! 出てきてくれ! 助けて欲しいんだ!」

 声は木立の中を幾重にもこだまして、ついに消えた。

 僕は黙った。

 トナリのことを、強く信じた。

 彼は決して、残酷な人間じゃない。そうだろう?

(まったく)

 思念が頭の中に流れる。

(都合のいい御仁だよ、新たなるクーンズ伯は)

 空間から滲み出すようにトナリが現れた時、僕は心底から安堵した。

 仲間がいることのありがたみを、今ほど実感したことはない。

 僕の真意が通じたとは思わなかった。

 単純に、僕の友人は親切なのだ。

 そんなことを考えているうちに、トナリはツリナを介抱する手順を指示し始めた。幽霊に過ぎない彼では、ツリナに触れないようだ。

 言われるがままに動いているうちに、疑問が湧いてきた。

 トナリはツリナを攻撃したじゃないか。それは物理的に触れたということだ。

(後で説明してやるよ)

 トナリはそう言って、僕を目の前のことに集中させたのだった。



(続く)

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