第12話

       ◆


 森は静まり返っている。

「供犠って、つまり、人ってこと?」

(そうだ)

 苛立たしげにトナリが髪の毛を搔きむしるような仕草をした。

(今、山が騒いだように感じただろう。あれは山の神が、捧げられた贄に喜んだからだ)

「ど、どこにいるかわかるか?」

 何が、といつになく厳しい視線がトナリの両目から僕に突き刺さる。

「だから、その供犠、生贄だよ」

(供犠がどこにいるか聞いてどうするつもりだ? まさか山から帰らそうとでもいうのか? そりゃ無理だ。不可能だ)

「どうして? まだ山に入ったばかりだ。戻れるんじゃ……」

(不可能だって言っているだろう。もう山に入って、神がそれを知った。戻れる理由は一つもない)

「それでも……」

 その先に続けるべき言葉は、僕の中にはなかった。

 トナリの言うことがきっと正しい。その生贄は、もう山を降りられないだろう。

 だからって、放っておいて許されるとも思えない。

 もしかしたら何か、方法があるかもしれない。神がお目こぼし下さるかもしれない。

 はぁ、っと大げさにトナリが息を吐くような仕草をした。

(供犠に会ったところで、つらいだけだぞ。そいつは間違い無く、二十日後に肉体を失い、ただの霊魂になって、ここに閉じ込められる。それ以外の未来はないんだ)

 僕は答える言葉を必死で探したけど、トナリの主張も痛いほどわかった。

 僕が会ったところで、この山に捧げられた誰かに対してできることは一つもない。

 それでも会うべきだ、というような気がした。

 これはまさに直感だった。あまり頼りにならない直感だけど。

(本当に行くのか、ハヴェル)

 確認するような口調のトナリの声は苦り切っていて、確認するのも嫌だ、と言いたげだったが、それでも彼は僕の意見を尊重しようとしてくれる。

 それが僕が彼を調伏しているから、ではないだろう。調伏とはそういうものではないはずだ。

 ともかく今は、供犠をどうするかだ。

「行く」

 短く答えると、トナリは嫌がっているそぶりを見せながら、ついて来い、と歩き出した。

 二人でひたすら斜面を下りていく。トナリが案内してくれなければ、とっくに迷っただろう。目印らしい目印もないのに、トナリはどんどん先へ行ってしまう。僕はやっぱり下草や丈の短い木の枝葉をかき分け、押しのけ、進むしかない。

 樹齢がすぐにはわからない巨木を回り込み、どこから現れたのかわからない背丈ほどもある岩の横を抜け、細い細い水の流れを飛び越える。なんだ、水が流れているじゃないか、と思ったけれど、トナリは苛立っているし、言葉は受け付けないとそのぼんやりとした像の背中が明言している。

 先に教えてくれれば、渇きを癒せたのに。でも、直接に飲むわけにもいかないか。

 ともかく、僕たちは無言で先へ進みで、そこにたどり着いた。

 少し開けた場所に、小さな木箱のようなものと共に少女がいた。

 僕が最初に考えたのは、供犠ではなく、道に迷っただけではないか、ということだ。それはそれで悲劇だが、女の子が神への供物にされることに、どことなく抵抗があったから、彼女が生贄ではなく迷い人の方が受け入れやすい心理が僕の中にあった。

 まったく自分勝手な、下品な発想だ。

 行け、とトナリが身振りで示した時には、少女の方も僕に気づいていた。

 僕を見てうろんげな顔になり、それから急に膝を折るとこうべを垂れた。

 慌てて僕は進み出たけれど、どんな言葉をかければいいだろう。

「あの、僕は……」

 名乗ろうとする前に少女の方が綺麗な澄んだ声で、名乗り始めた。

「私はツリナと申します。山を治められる方にこの身を差し上げます」

 え、あ、としか声が出ない僕が助けを求めるようにトナリを見たところで、彼は少し離れたところでムッとした顔で立っている。助言はしない、という姿勢だ。

「つ、ツリナさん? その、山を治めているのは僕なんだけど、僕のことを言っているのではないんだよね?」

 阿呆め、とかすかな思念が頭に届いたけど、睨みつけたところで思念の主はそっぽを向いている。

 そんな僕にツリナと名乗った少女は顔を上げ、こちらをまっすぐに見た。よく見れば幼さもあるけれど整った顔をしている。神に捧げられる理由がそこにあるとすれば、彼女は自分の顔の造作を憎むかもしれないな、と思ったりした。

 僕がぼんやりとそんなことを考えていたせいで、ツリナの方が先に言葉を発した。

「あの、あなたが山の神とされるお方ですか?」

「え? ああ、その、僕は山の神じゃないよ。ただ、僕はこの山の、その、領主? みたいな?」

 僕が言い終わった途端、ツリナの表情に何かがよぎった。

 困惑ではない。もっと硬質で、鋭角なものだ。

「では、あなたがクーンズ伯爵様ですか?」

 声さえもどこか、強さの籠ったものに変わったように感じる。

「ああ、そう、そうなんだけど、つい半月とちょっと前に爵位を受けたばかりで……」

 次に起こったことは、だいぶ遅れて僕に理解された。

 ツリナが跳ねるように立ち上がると、その勢いのままに僕に突っ込んできた。

 ほとんど僕に密着するかというところで、そのツリナを一瞬で肉薄したトナリが蹴飛ばした。

 鈍い音と短い苦鳴を発してツリナが横に転がり、ピタリと動きを止めた時には低い姿勢で短剣のようなものを構えている。

 眼光は、燃え盛る炎のような激情にギラギラと光っているように見えた。

(死にたいのか、ハヴェル)

 ぼけっとしている僕のすぐ横で、トナリが唸るように思念で言葉をかけてくる。

 僕の目の前の地面には折れた短剣の半分が落ちていて、刃の半分と柄の部分は、今もツリナの手に握られている。

 どうやらツリナにはトナリが見えているらしい。視線の動きでそれがわかる。しかし人間には見えないだろう。

「クーンズ伯爵!」

 トナリに痛烈な打撃を受けたせいか、それともいきなり亡霊のトナリが出現したからか、真っ青な顔に変わったツリナが声を張り上げた。

「山の神を祟り神に変え、領民をそれに捧げるしかない無能な伯爵! ここで死して自ら供物となれ!」

 僕の人生の中で、僕に直接に向けられた言葉で最も強烈な言葉が、この時のツリナの言葉だった。

 無能な伯爵。

 それは僕の経歴とは無関係だ。

 でも、未来の僕のことを示しているようで、それが衝撃だった。

 僕が山の神を調伏できなければ、供犠がいつまでも、この山に送られる。

 親がいて、兄弟姉妹がいて、恋人や友人、あるいは子のあるような、命のある、未来のある、人間がだ。

 僕が動けずにいるところに、ツリナは矢のように突っ込んできた。

 トナリが構えを取る。

 待ってくれ、という言葉はとても間に合わなかった。

 霊魂と少女が、一瞬のうちに交錯していた。



(続く)

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