第10話
◆
二十日なんて、あっという間だ。
僕はその間、昼となく夜となく、トナリの猛稽古を受けたが、結果は捗々しくない。
それどころか、日を追うごとに疲労が蓄積し、動きは鈍くなる。飢えと渇きも問題だった。トナリはそんなものはすぐに感じなくなるというけれど、それが嘘なんじゃないかと思えるほど、ひどいものだった。
動けなくなり、空腹は逆に嘔吐感に変わる。もちろん、吐けるものはない。喉がガサガサに渇き、唾液さえ出なくなり、眼球さえも乾いたような気がした。
それでも少しすると動けるようになる。飢えも渇きもそのままに、全身の違和感と生物本来の欲求をそのままに、体だけは動くのだ。
不自然といえば不自然だが、それを言ったら幽霊に剣術を教わっているのも、だいぶおかしい。
僕は余計なことを考えるのを、十日目くらいにやめた。
残りの十日は比較的、本腰を入れて、時間も効率的に使ったつもりだけれど、無駄かもしれないという思いが十九日目の夜にはほぼ確信に変わっていた。
(まぁ、素人だしな)
僕がいつの間にかドロドロに汚れ、雑巾にしかえなくなった着物の袖で顔についた泥を拭っているところへ、トナリがそんな思念を向けてくる。彼はまったく余裕だった。幽霊の無尽蔵の体力が憎らしいが、死んでも幽霊になりたくないと僕は思っていた。
(普通、ちゃんと基礎からやるものだが、時間もないし、場合が場合だ。ま、もうすぐ朝になる。陽が昇った時、肉体があれば御の字だよ)
恨みごとの一つでも言いたかったけれど、僕は肩で息をしていて、今にも座り込みそうだった。少し休憩すれば、また体は動く。動くが、トナリが言う通り、もはや打てる手は全て打った、というところだ。
明日には僕の未来が決まる。正確には、それは最初の関門であり、まだまだ先ははるかに続いている。幽霊になれば何の試練もないが、この山の中で未来永劫、彷徨い続ける羽目になる。どちらが良いかと言われれば、試練に耐え続ける方が良い。間違いない。
「トナリは、どうしてここにいるんだ?」
そんな問いを幽霊に向けたのは、半分は体力が回復するのを待つ時間潰し、半分は好奇心だ。
俺か、と幽霊は思念を返した。
(剣術に自信があった。この山には剣を極めた神がいて、その神が認めれば最高位の剣術を授けてくれると聞いた。神を切れば技が身につく、などと話す奴もいたが、まぁ、いずれにせよ俺はその神に会いに来たんだ)
「それで?」
トナリは怪訝な顔に変わった。
(それでも何もない。山に分け入り、神を探したが、神とは会えなかった。気づいたら森から出られず、気づいたら肉体を喪失していた。それだけだ)
「え? それって……、その……、後悔とかしないの?」
(我ながら間抜けだとは思ったが、ここも意外に悪くなかった。なんせ、剣術を使う幽霊が無限にいて、いくらでも稽古が出来るからな。しかも怪我もしなければ死にもしない。疲れもしない。天国とでもいうべきだろう)
僕は何も言えなかった。
この幽霊は頭がおかしいんじゃないか? それとも、山を彷徨ううちにおかしくなってしまったのか。
(失礼な奴だな、お前は。剣術というのは極めることが難しいんだ。人間の寿命と肉体なら、なおさらにな)
理解できるような、できないような理屈だった。
死んでしまったら、もはや剣術など意味もない気がするが。
そんなやり取りをしているうちに、不意に周囲が明るくなり始めた。
(おっと、いつの間にか時間を無駄にしちまったが、もう朝のようだ。死ぬか生きるか、見ものだなぁ)
勝手なことを言う幽霊は放っておいて、僕はボロボロの剣を地面に突き立て、闇に支配されていた周囲の光景を少しずつ浮かび上がらせていく朝の光を見た。
朝の光が僕に影をつける。
光がついに僕の足に触れていた。
それだけだ。
やがて木立は完全に明るくなり、どこかで鳥も鳴き始めた。
(いきなり肉体の全てを喪失することはなかったようだな)
朝日の中で、トナリが口をへの字にする。
僕は細く息を吐き、体の力を抜いた。
(ま、指一本なら、無難だろう)
……なんだって?
僕は慌てて両手に目を落とした。
十本の指が揃っている、と思ったが、違う。
左手の小指が、その向こうが透けて見える。
小指だけ、実体がない。
(大丈夫だって。供儀としてこの山に入る奴は二十日できっちり、肉体全てを喪失するんだから)
かすかに、しかし確かに手が震え始めた。
(さ、伯爵様。肉体を全部、失いたくなかったら稽古を続けることだ。まぁ、剣術の稽古はもはや剣術としての意味もないがね)
「剣術としての意味がない?」
顔を上げると、トナリが何でもないように肩をすくめた。
(あんたはとりあえず、ただの供犠ではないと神に認識された。なら逆に、神をひれ伏せさせるのが最後の目的となる。つまりあんたは神を、霊魂を調伏することを学ばないといけない)
話がどんどん複雑になっていく。
剣術の次は調伏の仕方を学べと言われても、そんなこと、やったこともなければ見たこともない。
(剣術は誰でも学べるが、調伏は魔術師たちの領域でもあるしな、知らなくても仕方はない。俺もよくは知らん。まぁ、相手がお前を認めればいいんじゃないのか?)
言うのは簡単だが、実践するのは非常に困難に思えた。僕のような人間に、神が降る理由なんて少しも思いつかない。
(まずは剣術を通して、呼吸を覚えることだ。アルコさんもそうしていたよ。ついに神には敵わなかったが)
「あ、アルコさんに話を聞きに行こう! 何か知っているかも知れない!」
僕の気迫にトナリは少し顔を背け、しかしなぁ、とやや気乗りしない様子を見せた。
(そこまで言うのなら、仕方ないか。二十日を生き延びたことを伝える必要もあるし)
そうそう、と僕は何度も頷き、その場を離れようとして、どこにアルコがいるか少しも知らないのに気づいた。
案内するよ、とトナリが先に立って歩き始めた。
「トナリさんはよくこの森の中で迷わないね」
そう声をかける僕が可笑しかったのだろう、トナリは小さく笑ったようだった。
(幽霊になれば森の中を彷徨う以外、やる事なんて他にないさ。俺がいったい何年、幽霊をやっていると思っていやがる)
「じ、十年くらい?」
(お前は実に素朴だな、ハヴェル。俺のことをさん付けで呼ぶ必要はないよ。トナリでいい)
ああ、うん、などと曖昧な言葉を返しながら、僕はトナリの過去について少し考えた。
いったい、どれくらいを森の中で過ごしたのだろう。
苦しみや絶望をトナリから感じることはない。怒りや憎しみもない。常に飄々としていて、明るい人格の持ち主だ。生来のものだろうけど、この森に囚われてもそれを維持できるのは、実は凄いことなのではないか。
(あまり褒めるなよ)
トナリの背中がそんな思念を向けてきた。
また僕の思考が漏れ出しているらしい。
僕は何も言わないまま、トナリの背中についていった。
(続く)
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