第9話

      ◆


 何か、変な夢を見た気がした。

 山の中に放り出されて、幽霊と話をした夢だ。

 起きろ。

 声が聞こえて、その声が誰の声が、僕はぼんやりとまどろみながら考えた。

 聞き覚えのない声だが、つい最近、聞いたような気もする。

 稽古を始めるぞ。

 また声がした。稽古? 何の稽古だ? 僕は北部辺境の伯爵領で飼い殺しのように日々を過ごしていて、稽古事なんてもうとっくに卒業していた。

 もうちょっと寝ていたい。

 起きろよ、クーンズ伯爵様。

 もう一回、声がした。

 クーンズ伯爵?

 一瞬で目が覚めた。

 僕は地面に直接寝転んでいて、体に何もかけずに倒れていた。

 周囲は明るくなっている。朝が来たのだ。

 まず感じたのは激しい空腹。次は渇き。だがその二つはすぐにすっ飛んだ。

 何故なら、枕元に立つように青年が一人、すぐそこにいたからだ。こちらを見下ろしているその体はぼんやりとしていて、霞が人の形をとったようにも見えたが、表情まで読み取れる。

 不機嫌そのものの青年の名前は、なんだったか。

「トナリ、さん?」

(伯爵様、つい昨晩のことを忘れているようじゃ、あっという間に死んでしまうぞ)

 僕は起き上がって、改めて周りを見た。

 どこからどう見ても深い森林のど真ん中で、人が生活している気配はなかった。

 魔の山。ルセス山。

「夢じゃ、ないのか……」

(おいおい、本当に記憶がおかしくなってしまったのか? そんな様子だと、あっという間に神に捧げられて、未来永劫、亡霊として山を彷徨うしかなかろうな)

 そんなことになってたまるか。

 僕は立ち上がり、着物の汚れをできるだけ払ってから、トナリと向き合った。

「稽古って、何をすればいい?」

(やる気はあるようだが、心得はあるのか?)

 う……、と声が詰まったが、無理やり吐き出す。

「何の経験もない」

(少しもないのか? 統一王国は平和だしな、剣術も流行らんか。ついてくるといい、伯爵様)

 そう思念を飛ばすなり、トナリが歩き出したので、僕は遅れずについていくしかない。きっとトナリなりに何かの考えがあるのだろう。

 昨夜も同じことをした気がしたが、僕は幽霊のぼんやりした背中を追って、山の中をひたすら歩いた。足の痛みは昨日よりもひどい。慣れていないし、そもそも山の中は整地されていないどころか、草も刈られていない。

 幽霊はいくらでも草むらを突き抜けていけるが、僕は押しのけ、掻き分けて進むしかない。トナリも道を選んでいるようだけど、僕の服はあっという間にボロボロになり、手に限らず顔にも細かな傷がいくつもできたようで、チリチリと痛んだ。

「何か、食べ物はあるのかな」

 黙々と進むトナリの背中に声をかけると、ないね、と思念が返ってくる。

(俺には必要ないからな。しかしどこかでは木の実か何かがあるかもしれないから、全くの望みなしではない)

「じゃあ、探せばあるんだね?」

(あんたに探している暇があればな)

 トナリの口調が砕けてきた。だが重要なのはそこではない。

 脳裏に、二十日、という期限が浮かび上がった。しかし二十日間も飲まず食わずで生きていける人間なんていない。生きていられても、身動きがとれないほど衰弱するはずだ。

(あんたはこの山に入ったことで、たった今も人間じゃなくなっている。半霊半人、というべきだな。だからすぐに空腹感もなくなるし、喉も乾かなくなる。安心して、稽古に励んでくれ)

 それでも今は何かが食べたい、と思った僕だけど、トナリは完全に無視して先へ進んだ。

 かなりの距離を歩いたと思ったら、不意に開けた場所へ出た。

 一目見て、普通の場所ではないとわかった。

 地面に棒状のものが無数に転がっている。

 棒じゃない。

 剣だ。

 抜き身のままのものもあれば、鞘に収まっているものもある。

(さ、どれでもいいから、手に取ってくれ)

「どれでもと言われても……」

 僕は足元を見て、とりあえず一番近いものを手に取った。それは抜き身で、刃は完全に赤く錆びていた。いったいどれくらい、ここに放置されていたんだろう。

(じゃ、やろうか)

 不意にトナリが手を横へ伸ばすと、彼の手元に剣が出現した。実際の剣ではなく、霊魂と同じようなものだ。

 幻に切られるわけがない、などとは思えないほど、その剣は冴え冴えとしている。

 僕は本能のままに剣を構え、そうしてから昔、子どもの頃に亡父に教わった剣の構えを思い出した。

 ただ、構えを取り直す間はなかった。

 目と鼻の先で火花が散ると、僕が手にしていた錆び付いた剣は半ばで折れて、明後日の方向にすっ飛んでいた。僕の手にはほとんど柄だけが残り、遅れて強烈な衝撃が手から肩まで走ったことを認識できた。

「ひ、ひっ……!」

 柄を取り落とす僕の前で、トナリはトナリで不思議そうに自分の手元を見ている。

(体を失ってから、こんなに体の感覚が濃いのは久しぶりだな。伯爵様、あんた、やっぱり面白いよ。統一王陛下なんて顔も見たことがないが、間抜けではないらしい)

 場所と場面によっては不敬罪が確実なことを言う亡霊は、僕の前で無造作に幻の剣を振った。

(さ、次の剣を取りなよ。全部がへし折れるまで、いや、全部がへし折れても、あんたは稽古するしかないんだぜ)

「む、無理だ! こんなこと!」

(じゃ、おとなしく肉体を捨てて、やることもなく山の中を彷徨うかい?)

 僕は何も言い返せず、視線を地面に走らせた。

 剣は限りなくありそうだ。

 ゆっくりと手を伸ばし、柄を掴む。

(遅いな)

 いきなりトナリが自分の剣を振り下ろすと、僕が持ちげようとした剣は砕けて折れて、地面に散らばった。

(神様もそんなにのんびりしていると、愛想を尽かしちまうよ。ほら、次だ)

 僕は剣を手に取ろうとして、次々とそれをトナリが間を置かずに叩き落としていく。

 いつの間にか僕も必死になった。

 命がかかっている、ということが少しずつ実感を伴ってきた。それにはトナリが真剣に僕の相手をしているということもあるだろう。トナリの振るう剣には、本気の感情がこもっていた。

 何本の剣を無駄にしたか、僕はやっと剣を手にして構えることができた。

 素人丸出しの構えで、隙だらけに違いない。

 実際、トナリはあっという間に僕の手から剣を叩き落とした。

(いきなり達人になれ、とは言わないよ、伯爵様。しかし少しは使えなくちゃな。貴族のたしなみ、っていう程度には使えなくちゃ、神様は満足しないぜ?)

 カッとしたのは、記憶にないほど久しぶりだった。

 僕は足元の剣を掴みざま、トナリに投げつけていた。トナリはわずかに身を捻って避けている。危ういところが少しもなく、それも僕の怒りを爆発させた。

「何も知らされずに、いきなりここにいるんだ! できるわけがない! 無理だ!」

 怒声を発してから、自分で自分の行動が恥ずかしくなった。

 できるわけがないことも、無理なことも、子どもでもわかる。統一王陛下が何を考えたにせよ、僕にかけられていた期待などささやかなものだろう。

 その統一王陛下を怒鳴りつけるならともかく、ここでトナリを怒鳴っても仕方がない。

 見当外れだし、そもそも彼は幽霊だ。

 まるで僕は一人で芝居をして、一人でうまくいかないことに腹を立て、一人で怒っているようなものだ。

 さぞや滑稽だろう。

 僕は俯いたまま、あまりの惨めさに滲んだ涙を袖口で強く拭った。

(ま、子どもみたいな態度は取るなよ)

 トナリは、少し真剣な声になっていた。

(剣術を習い始めた子どもが、あんたみたいな態度をとるよ。最初からうまくできないことに癇癪を起こして、それきりになるんだ。でもあんたは子どもじゃない。そうだろ? さ、稽古はまだ終わっちゃいないぜ。終わらせたいなら、終わりでもいいがね。俺としてはどちらでもいいんだ)

 僕はもう一度、目元を拭ってから呼吸を整えた。深呼吸を二度、三度と繰り返すと、気持ちも少しは落ち着いた。

 最後に一度、大きく息を吐いて、僕は適当な剣を一振り、拾い上げた。

 トナリは邪魔しなかった。

 そしてちょっとだけ機嫌良さそうに、剣を構えた。

(そうこなくっちゃ。かかっているのはあんたの肉体と未来だ。本気になれよ?)

 僕は何も言わずに、剣を振りかぶろうとした。

 その途中で、やっぱり剣は叩き折られた。

 


(続く)

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