第7話

       ◆


 降りようとするとどこまでもどこまでも同じ場所を行くことになる魔の山でも、上がっていくときは別らしい。

 闇が深いのでほとんど判然としないが、しかし同じところを彷徨っているようではなかった。

 僕を先導する幽霊は実に軽快に進んでいくが、僕はそうはいかなかった。靴は頑丈ではあったけれども山道に適してはいないし、そもそも幽霊はフワフワと浮いているようなものである一方、僕には体がある。

 あっという間に全身が汗にまみれて、息が上がった。両足が激しく痛む。足首も膝も股関節も、どこもかしこも悲鳴を上げている。

(なんだ、この程度でもう音を上げるのか。軟弱者だな)

 幽霊が叱咤激励してくるが、はっきり言ってその権利が幽霊にあるとは思えない。彼だって肉体があれば、同じくらい体が疲労したはずだ。

(このようなもやしっ子には供犠しか務まらんだろうなぁ。我々のように剣のために命を投げ出すような、崇高な思想はないわけだし)

 身勝手なことを言っている幽霊に、僕はやっぱり何も言わないでおいた。

 崇高な思想などというが、無謀そのものだろう。入ったら出られないと言われている山に、どうやら剣の神とやらを求めて分け入って、結果、彼は幽霊になってしまったんだろうから。それはつまり遠回りな自殺ということだ。

(おいおい、小僧。命を投げ出してでも高位の技を求めるのが、剣士というものだぞ)

「……え?」

 思わず声が漏れたけど、ほとんど吐息だった。幽霊が足を止めて、こちらを振り返り、ニタニタと笑っている。

「もしかして、僕が思考していること、言葉に漏れてました?」

(思念が強いのでな、声ではなく思念として漏れていた)

「どのくらいですか?」

(俺の行いを遠回りな自殺と断定したあたりまでだ)

 全部じゃないか。

 幽霊が背中を向け、また歩き始める。思念だけが流れ込んできた。

(ま、気にするな。すぐに慣れる。さあ、伯爵はこの先だ。焦る必要はないが、あまりのんびりしているとお前の肉体もなくなってしまうぞ)

「に、肉体が、なくなる?」

(お前は神への供犠なのであろう。肉体は神のものとなり、この山の一部になるのだよ。我々と同じく)

 死ぬかもしれない、とは覚悟していた。

 しかし、どんな死に方をするかまでは考えていなかった。

 山の一部になるとは、どういうことだろう。

(言葉にしづらいが、お前の肉と血でこの山そのものを神の御座として維持するのだよ。肉体は形を失い、溶けて消える。そしてお前の霊魂はこの山に残る。そうなれば我々の仲間だ)

「肉体が溶ける、というのは……」

(雪が解けるように時間がかかったりはせんよ。一瞬で消える。苦痛もない。自覚すらない。あまり心配することはない。霊魂で生きるのもそう悪くはないぞ)

 幽霊がずんずんと先へ進んでいく。

 苦痛がないとして、霊魂になるなんて想像もつかない。人間の死が肉体の死によるとすれば、肉体を失って霊魂だけが残るということは、とどのつまり、死なない、ということだろうか。

 不死?

 一部の極端な研究者なら大喜びするかも知れないが、僕はそんな気分にはなれなかった。

 僕は果たして、どういう未来に向かっているんだろう。

 山を降りることはできず……。

 山にいる限り肉体をいずれ喪失し……。

 死ねない……?

(ああ、先に指摘しておくが、ここに入り込んだ時点で自死したところで手遅れだよ。何があったかを説明してやろう。剣士が自分の腕を磨くために、剣の神がおわすという山へ分け入り、神を求めて山を彷徨った。何も知らない剣士だったから、いざ、麓へ降りようとした時に山を降りられないことに気づいた。彼はひたすらひたすら、何日も山を抜け出そうと努力し、怒り狂い、それでも山を降りようとしているうちに、長い時間が過ぎた)

 どこか僕自身の行動を指摘されているような気がしたが、僕は幽霊の思念に集中した。

(結局、彼は正気を失って、持っていた剣で首筋を撫ぜた。彼は死んだが、死んだのは肉体だけ。気づくと彼は霊魂として、山の中にいた。彼はまた山を降りようとした。降りようとしたが、結局、霊魂でも山を降りることはできなかった。その幽霊は今もそこらをうろついているよ。というわけで小僧、今更、死ぬことで全てを投げ出すことはおすすめできない。それよりは自分の置かれた立場を理解し、覚悟を持つべきだな。死ぬことより、容易な覚悟だろう)

 僕は何も言わないまま、先へ進み続ける、山の奥へ入り込んでいく幽霊の後についていった。

 覚悟なんてないまま、ここへ放り出されてしまったのが、悔しかった。

 故郷を離れるときでさえ、統一王陛下に召喚されるということにある種の覚悟を抱いていたが、それではとても足りない事態が僕の身に降りかかっている。

 解釈不可能、理解不可能な、強烈な負荷が僕の人生、あるいは僕そのものを押し潰しそうだった。

(さあ、着いたぞ、小僧)

 幽霊が不意に足を止めるまで、僕は自分の足元ばかり見ていて、先をほとんど見ていなかった。

 幽霊の背中にぶつかりそうになり、わっ、などと声が漏れてしまった。

 そっとその背中の横から覗き込むようにして前を見ると、どういうわけか、光が差し込む真ん中で一人の老人が座り込んでいた。どこかの修行僧がしていそうな足の組み方をして、微動だにしない。

 老人を照らしているのは月明かりらしい。ここに来るまで、あまりにも闇が濃かったので、月明かりがこんなに強い夜だとは想像もしなかった。

 幽霊が老人の方へ進み出ると、膝を折った。

(伯爵、奇妙な人間がおりまして)

 老人は幽霊にすぐに答えなかった。

(私はもう伯爵ではない)

 やっと老人が答えたが、声ではない。思念だ。

 老人もよく見れば、輪郭がわずかに滲み、その姿は背後がうっすらと透けて見える。

 幽霊なのだ。

 老人が閉じていた瞼を上げ、僕をまっすぐに見た。

(こちらへ来なさい)

 穏やかな声だったが、これこそ有無を言わさぬ声だった。

 僕は恐る恐る近づき、膝を折っている幽霊の横で似たような姿勢をとった。老人にかしずく姿勢だけど、そうするのが当然と思える雰囲気を老人の幽霊は発散していた。

 その老人が、僕を案内した幽霊に目を細めた。

(トナリ。こちらの方こそは新たなるクーンズ伯爵である)

 その思念は僕にも聞こえたけど、どうやら幽霊に向けられたようだ。トナリというのは名前か……。

 ん?

 隣の幽霊が、僕を見ていた。

 その目は限界まで見開かれ、今にも目玉が落ちそうだった。幽霊だからもしかしたら目玉を落とせるのかもしれないが、そんな宴会芸の極端な奴をここで披露はしないだろう。

(あんたが、クーンズ伯爵?)

 トナリというらしい幽霊の思念は、明らかに動揺していて、確認しているのか疑っているのか、わからなかった。

「残念ながら」

 僕は僕で、どう答えるべきか、難しかった。

「統一王陛下から、クーンズ伯爵の爵位は授かっています」

(名前は?)

 その思念は難しげな顔になったトナリではなく、老人からだった。

「ハヴェルと言います。ご老人が、前のクーンズ伯爵の?」

(アルコだ。ハヴェル、きみがするべきことを教えねばいかん)

 思わぬ展開になってきたけれど、重要な疑問があった。

 このアルコという老人は僕を迎えに来なかった。僕が山の中を彷徨い続けて、ここに辿り着けないうちに死んでいたら、どうするつもりだったのだろう?

(すぐに説明するよ)

 やっぱり僕の思考は漏れていたらしい、アルコはわずかに微笑んだ。

 この夜はどうやら、まだ長いらしかった。



(続く)

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