第6話
◆
ポツンと岩に腰掛け、僕は夜の闇を透かし見ていた。
持ち物といえば、短剣が一本きり。羽織るものもありはしない。
ミカが「野生児」などと表現したけれど、まさか僕はこれから、この山の中で動物のように生きなければいけないのだろうか。
ため息が漏れる。
何となく空腹が意識され、唸るしかない。
水もない。喉が渇いているけれど、それは緊張のせいもあってか、さほど気にならない。
そう、とにかく僕は緊張していた。魔の山などと呼ばれるところに一人でいるわけだし、どういう意味で魔の山などと呼ばれるせよ、仮に野生動物に襲われたら僕はあっという間に餌食になる。
熊なんて出てきたら、おしまい。
狼が出てきても、野犬が出てきても、おしまい。
蛇が出てきても、おしまいだろう。
毒蜘蛛、毒ガエル、それでもおしまいかもしれない。
まったく気が抜けないまま、僕は岩に座っているわけだった。眠れるはずもなく、下手に動くこともできそうになかった。
時折、思い出したように、無意識に首を巡らせるが、視界に入るのは闇しかない。
せめて、火をつける道具でもあれば。
そうは思っても、この夜闇の中で作業するわけにもいかない。
文明的な街では魔法を利用した着火装置もあるし、最新の科学技術であるガス灯なども一部で普及し始めている。
そんなものはこの山には一切ない。
どうして僕はこんなところにいるんだろう……。
またため息が漏れてしまい、そんな自分に落ち込みながら何気なくな顔を上げた。
その時、視界の隅で何かが動いたので、僕は本能的にそちらを見ていた。
人、に見えた。
遠めなので年齢などは不明だが、間違いないなく人だった。
気づいた時には岩から離れて、僕は駆け出してその誰かのもとへ向かっていた。
「おーい!」
ここで生きていくのに協力者は是非とも必要だ。どんな人物であれ、山で生活している以上、何らかの生活手段があるのだろう。
僕の声は決して小さくはなかったはずだが、相手は足も止めず、歩いていく。木々の間を、スッスッと淀みのない足取りで進む様は、不思議なほど安定している。
「おーい! 待ってくれ!」
僕は足を速めた。それもあって相手が徐々に近づいてくる。
近づいてきて、僕の足は自然と遅くなった。
そこにいるのは男だった。長い髪の毛を一つに結び、古風な着物を身に付けている。
それはいい。
それよりも、どうしてこの闇の中で、相手の姿がこんなにはっきりと見える?
男のすぐ横にある樹木の幹は、輪郭を闇に溶かされているのに。
僕の足が完全に止まった時、ついに男も足を止めた。
奇妙な時間が停止したような間があり、僕が逃げ出す前に、男が振り返った。
まだ若い男で、鋭い眼光が僕を見て、彼はわずかに首を傾げた。
(お前、誰だ? どこから来たのだ? いや、お前も、供犠か)
声は、普通の声ではなかった。
頭に直接に響く、思念そのもの。
ひっ、と引きつった音が僕の喉から漏れた。一歩、二歩と下がろうとして、その二歩でいきなりつまずき、僕は無様に尻餅をついた。
夜の中に浮かび上がっている男は、鼻で笑うとこちらへ近づいてきた。歩いているようで、足は地面を踏んでいない。当然、足音などしない。
彼は僕の眼の前に立ち、顔を覗き込んできた。
(供犠にしては珍しい。俺が見えるのか?)
首を振る方向にさえ迷った。縦に振って同意を示すべきか、横に振って否定するべきか。いやいや、そもそも声をかけられて返事をするのだから、見えない、などと嘘をつくべきではない。待て待て、供犠とはなんだ。
供犠……、生贄……。
ミカは僕を、臣民の命を無駄にはしないと言ったのに、僕はやっぱり生贄にされたのか?
(落ち着けよ。この山の神はさほどせっかちではないからな)
目の前にいる男、の亡霊がそんなことを言い出した。言うというより、頭の中に思念を送り込んだ、ということだが。魔法の超常の力に似ているが、目の前の亡霊は魔法使いの霊なのだろうか。
(落ち着けと言っている。で、お前の名は?)
勝手に亡霊は話を進めてしまう。
僕は、うろたえたまま、引きつる喉でなんとか声を絞り出した。
「は、ハヴェル」
(ハヴェルか。その様子では剣術自慢ではないな)
け、剣術自慢? なんのことだ?
(知らないのか。この山は剣術を極めようというものが、剣の神の祝福を受けようとやってくる山なのだ。俺のような剣士はこの山には数多くいる)
剣士。
男の亡霊は剣を身につけていない。どう見ても丸腰だった。
そんな僕の視線に気づいたのか、亡霊が鼻を鳴らすと、何もない虚空に手を伸ばすようなそぶりをした。
(剣の神の祝福は本物なんだよ)
その言葉と同時に、何もない空間に剣が一振り、出現すると亡霊がそれを掴み取った。
(剣と俺はこの通り、一体なのだ)
誇らしいことのように亡霊が胸を張って見せているが、どうも……反応に困る。
剣と一体かはともかく、亡霊になってしまっては意味がないのでは? 剣術だってそうだ。亡霊は基本的に生きている人間に干渉できない。そこらを漂う、ちょっと濃い靄のようなものに過ぎない。
(なんだ、お前、さては馬鹿にしているな。これでも我らは、クーンズ伯爵の軍勢として王に仕えることになる、そういう立場なんだが)
クーンズ伯爵?
僕の前にその爵位を持った人がいたのだろう。
しかし、王に仕えたとは、どういうことだろう。亡霊に何ができたのか。
(お前のような小僧にはわかるまいよ。ま、供犠に理解されたところで仕方がない。さぁ、早く我らが神に全てを捧げてこい)
亡霊が勝手に促してくるが、僕はただ死ぬためにここにきたわけじゃない。少なくとも、ここで、いきなり身を捧げるわけにはいかない。
「あの」
亡霊に語りかけるのも変だと思ったが、亡霊自身は何でもないように僕を見た。
(なんだ? 何か言い残すことがあるか?)
「クーンズ伯爵は、どうされたのですか?」
(伯爵は、天寿を全うして亡くなられた)
思い切った問いかけだったが、答えはやや肩すかしだった。前のクーンズ伯が存命なら何か話が聞けるかと思ったけれど、それは無理らしい。このルセス山が入ったものを閉じ込める性質である以上、前のクーンズ伯も原則の例外にならない限り、この山にいるはずだったが、ともかく、故人ではどうしようもない。
(供犠の割に変なことを聞くな。伯爵に会いたいのか?)
「え? どういうことですか」
まったく立場を忘れて、僕は聞き返していた。
「伯爵に会えるのですか? 亡くなられたと、今、聞いたばかりですが」
(ここは魔の山、神と契りを結んだ伯爵もまた、ここで永遠の時間を生きるのだ)
目を白黒させるしかない僕に、剣士の亡霊は何でもないように言い出した。
(何も知らないようだが、まぁ、変な奴だし、案内してやるよ。伯爵は人格者であるから、この時間でも来客は拒まないだろうしな)
勝手にそんなことを言うと、亡霊はこちらに背中を向け、離れていってしまう。
追わなければ、と思ったのは直感だったか、それとも単純な反射行動だったか。
僕は夜の闇の中にぼんやりと浮かび上がる剣士の背中を追って、歩き出した。
(続く)
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