第5話

       ◆


 あまり用意するものはないね、とミカは沈黙を守るユーリが注ぎ足したお茶を飲みながら言った。

「ルセス山は時間が歪んでいるともされる場所だ。食べ物があるのか、飲める水があるのかもわからない。まぁ、いざとなれば木の実を探すか、野生動物を狩るか、川の水を飲むかして糊口をしのいでくれ」

 そんな、と呻き声が聞こえて、誰の呻き声かと思ったら僕自身だった。

「ちょっとした刃物は持っていくといい。服は丈夫なものにしなよ、と言いたいが、ここに着替えはないか。ま、いいか。君はあまり貴族らしい生活をしていなかっただろうけど、明日からは正真正銘の野生児として生きることになる。僕を恨むのはやめてくれよ」

 野生児。明日。

「陛下、そのクーンズ伯領へはどのように向かうのですか?」

「どうもこうも、扉を抜ければそこは山だよ」

 視線が弾かれたように、部屋に唯一の扉に向いた。

 おかしいと思った。

 この世界には原理原則に手を加えられるものがいる。

 紛れもない奇跡の使い手。

 六人の魔導師を頂点とする魔術師たち。

 統一王国の王宮にそんな存在がいないわけもないし、王宮そのものに手が加えられていないわけがなかった。

 ここは、王宮でありながら、王宮ではないのかもしれない。

 さ、行こう。

 まるで散歩へ誘うようにミカが席を立った。

 僕は、なかなか立ち上がれなかった。そんな僕をユーリは無感情に、カズーは蔑むように見据えている。

 ミカに、統一王陛下に役目を与えられながら、それを受け入れようとしないものを責めるような眼差し。

 でも、僕はただの人間だ。何の取り柄もない、どこにでもいる人間だ。

 それが入ったら出られないだの、祟り神がどうのと言われる、魔の山と呼ばれる場所へいきなり行けと言われて、受け入れられるだろうか。

 ここでミカに反発して、不敬罪か何かで処断された方がマシかもしれない。

 やっと理解ができた。あの謁見の間でのことだ。

 同席した六人の男たちが襟飾をつけていなかった理由。

 あの場は非公式な場だったのだ。襟飾がなかったのは、公務ではないという意味か。あの場であったことは、場合によってはなかったことになる。誰も見ず、知らないことになるだろう。

 何もかもが謀られている。

 唯一、わからないのは、なぜ僕がそんな立場になったかだ。

 幽霊が見えるのは事実だ。でもそれが重要なことか。

「ハヴェル、立てるかい」

 ミカは穏やかな表情でこちらに手を差し伸べている。

 悪魔の笑みはこんな感じだろうか。この天使のような笑みは、もしかしたら悪魔にふさわしいかもしれない。

「ハヴェル、きみには期待している」

 優しげな声が、僕に向けられる。

 僕は進むしかできそうになかった。どれだけ恐ろしく、どれだけ身がすくんでも、居場所はもうどこにもないのだ。

 クーンズ伯爵となってしまった以上、選択肢は二つしかない。

 生きるか、死ぬか。

 僕はゆっくりと、震えそうになる足を叱咤して立ち上がった。

 嬉しそうにミカが手を伸ばし、僕の手を掴むと力強く引っ張り上げた。

 こうなっては僕は立つ以外なかった。

「ハヴェル、きみの幸運を祈る。でも僕はきみならすべてをやり遂げることができると信じている。国を統べる者として、臣民の命を無駄にするつもりはないよ」

 何も答える言葉を僕は持たない。

 ほんの短い時間しか言葉を交わしていない相手を、心の底から信用できるとは思えなかった。でも彼がこの国の統治者であると知れば、少しは信用できる。そうなると、こうして僕を私的な場に招き入れたことでもやはり少しは信用を上積みできる。

 結局、全てはミカを名乗る青年の思うがままになっているのかもしれない。

 手を引かれるままに、僕は扉の前に立った。

 不安が僕の足を止めさせ、視線はミカを見て、カズーを見て、ユーリを見た。

 三者三様の様子、表情だったが、責めるようなものはない。

 たぶん。

「それじゃ、ハヴェル、また会おう」

 油断していたかもしれない。抵抗する間もなかった。

 ミカが扉を開き、僕を突き飛ばし、よろめく僕の腰のあたりを蹴りつけまでして僕を放り出した。

 つんのめって倒れ込んだ時、むっとする草いきれが僕を包み込んでいた。土の匂いもする。

 唐突に聞こえてきたのは木々の枝葉が風を受けて激しく擦れ合う音だ。

 顔を上げると、そこは木立の真ん中だった。

「み、ミカ……! え?」

 背後を振り返っても、そこにあるはずの扉が、なかった。

 自分がどこからやってきたのか、それを示す痕跡は全くなかった。

 噂に聞く魔法による空間転移を、こんな形で体験するとは思わなかった。

 もう一度、よく確認すると、地面の下草の中に何かが落ちていた。

 短剣だ。手に取ってみるとずっしりと重い。簡単な拵えだったが、鍔に浮き彫りで統一王国王家の紋章があしらわれているのはわかった。

 そんな飾りなんて、いるか。

 途方に暮れながら、仕方なく僕は短剣を腰に帯び、今後の方針を考えた。食料も水もない。それを探すべきか。いや、山を降りられるか、確認するのが先か。超常の力が働いているらしいとはいえ、実際には山を降りられるかもしれない。そう思いたい。

 放り出された場所から少し歩くと、少しずつ高低差がわかってきて、つまり、どちらが麓かもわかるような気がした。僕は下へ下へと歩いていく。

 高い位置にある枝葉の天井を透かして幾条もの光が差し込んでいる。いやに静かで、鳥の鳴き声がささやかなはずなのに大きく聞こえる。鳥がいるのはわかっても、その姿を見ることはなかった。

 とにかく歩いた。どこまでも歩いた。

 疲れ切って足を止めた時になって、視界の隅に見えたものに僕の視線は吸い寄せられた。

 雷に打たれたのか、断面が焦げて折れている一本の木の成れの果て。

 ついさっき、同じものを見た気がする。

 背筋が冷えたが、僕はまだ冷静だった。すぐそばにある木に近づき、僕は短剣を抜いてその切っ先で印を刻みつけた。そして少し進んでは、また印を刻む。印を刻んだ順番も工夫してわかるようにした。

 しばらく進むと、その木が見えてきた。

 僕が刻んだ印がある木だった。

 間違いない。

 僕は先へ進んでいるようで、進めていない。

 ミカが言ったことは正しかった。

 この山から下りることはできないのだ。

 僕は足を止め、改めて周囲を見た。いつの間にか日が傾いたのか薄暗くなりつつある。急に不安が大きくなり、それは恐怖と言っても差し支えないものになった。

 足が急に震え、立っているのも難しくなった。

 すぐそばに目立つ岩があり、僕はなんとなく吸い寄せられるようにそこに腰を下ろした。

 こんな山の中で。何の道具もなく。仲間もなく。

 これから、どうしたらいいんだ……。

 そう思っている間にもどんどんと光は乏しくなり、何もかもに闇がまとわりつき、漆黒に沈んでいった。



(続く)

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