第3話

      ◆


 扉を抜けると、そこは小さな部屋だった。

 ほへぇ、としか表現できない声が口から漏れたのは壁の三面が全てガラス張りで、その向こうに鬱蒼とした森があったからだ。正確には、木立を背景に、その手前に人の手の入った庭園がある。赤や黄色、白、青の花々が咲き誇っていた。

 この季節、まだ外は暖かいとは言えないが室内は奇跡で調整されたように心地よい温度だった。奇跡などではなく、ガラスを通して差し込む光のせいだろうか。

「おかけになってお待ちください、閣下」

 まだ名乗ってすらいない官吏がそう言って、部屋の中央に置かれた椅子を示す。精巧な彫刻の施された卓を囲むように椅子が三脚ある。座れと言われても、どちらが上座だろうか。それに誰を待てばいいのか。

 いいや、しかし、伯爵位に就いたからには、何らかの説明があるはずだ。そう、誰かから領地について引き継がなくてはいけない。寡聞にもクーンズ伯領がどこなのか、僕は知らないし、そんな無知な領主が無知なまま領地に赴くわけにはいかない。

 というわけで、僕は恐る恐る椅子の一つに腰を下ろした。官吏は何をするかと思うと、部屋の隅に揃えて用意されていた茶器の元へ行き、お茶を用意しているようだ。

 どうにも座りが悪いというか、あけすけに言えば、僕は場違いだった。今、座っている椅子すらもちょっと高価そうな椅子に過ぎないのに、立っている方が楽に思えるほどだ。

 かといって、立ち上がって部屋を見物するわけにはいかないはずだ。なるほど、部屋の調度品、部屋の隅に立つ彫刻像や壁に掛けられている絵画は、是非とも近くで見たい欲求を刺激する。それでも僕にはしかるべき態度が求められると解釈するべきだった。

 僕は何故か伯爵になってしまったわけだし。

 返上できないかな、と早速、頭の中で考え始めていたけど、統一王陛下から直々に賜ってしまった。返上することは死ぬか、誰かに跡を継がせるまで無理だろうなぁ……。

 官吏が無言で卓のそばへ来て、僕の前に器を置くと実に丁寧な動作で綺麗な赤色をお茶を注いでくれた。よく見ると茶器は高級品かもしれない。学生だった頃、茶器の店で働いたことがあり、その時に飾られているのを見た茶器にそっくりだったからだ。

 ここが王都の、しかも王宮の中だということを思い出した。

 夢に見たことさえない別世界に自分がいて、伯爵ということは、まさかこれから何かの折に参内するのかと思うと、少しの現実感もなかった。

 そんな浮世離れした状況から現実に立ち返るべく、思い切って官吏に声をかけようとした。

 しかしそれはできなかった。いきなり扉が開き、二人の男性が部屋に入ってきたからだ。

 先を歩くのは深い色合いの黒髪の青年で、年齢は二十代に見える。穏やかな微笑みを僕に向けたまま、こちらへやってくる。僕は椅子から立ち上がるのも忘れて、その人物に視線を注いでいた。

 そんな僕に、青年の少し後ろを歩く壮年の人物が何か言おうとしたようだった。その段になって、そちらの男性の白に近い金色の髪と、強い意志を放射する碧眼に意識が向き、やっと僕は自分が立ち上がるべきだ、と思い至った。そういう立場だった。

 二人の男性はあからさまに高貴な人物に特有の気配を放っていた。時間にさえ作用するするような、周囲を飲み込む気配だ。

 よろめくように僕が立ち上がると、青年の方が「座っていていいよ」と軽い調子でいい、それに壮年の方がわずかに目元に険を浮かべた。

 青年の方が、上位なのか。

 立っておくのが無難かな、と僕がしっかりと直立すると、青年が「あまり威嚇するものじゃないよ」と壮年の男性におどけた調子で声をかけた。それにもやはり険しい視線を向けながら、しかし返事はなかった。

 青年が空いている席に腰掛け、そこへずっと黙って控えていた官吏がお茶を用意した。残り一つの空席の椅子に壮年の男性が腰掛けるのかと思ったが、彼は青年の斜め後ろにまっすぐに立った。

 そうしてやって、僕は彼が腰の後ろに剣を吊っているのに気づいた。剣について僕は造詣が深くないけれど、一度、その存在に気づいてしまうと恐怖に近いものを感じさせるところがある。むしろ、こうしてすぐそばに持ち主が立つまで存在に気付かなかったのが信じられなかった。

 僕が剣に気を取られているのに気づいたのだろう、青年が手を振りながら気安い口調で声をかけてくる。

「大丈夫、大丈夫、野生の猿じゃないからいきなり剣を抜いたりしないよ」

 はあ、としか僕は答えられなかった。反応に困ったところもあるけど、その猿と比べられた人物から目に見えない風のようなものが吹き付けてきたからでもある。

 下手なことを言うと、切られるかもしれない。

「陛下、お戯れはそのくらいで」

 僕がそれとなく注意していた壮年の男性が、まるで巨木が喋ったような低い声でそう言うと、青年は「せっかちだな、きみは」と答えた。

 お戯れ。

 陛下。

 陛下……。

 ……陛下?

 僕は青年をまっすぐに見て、青年は嬉しそうに笑いながら、やっぱり僕をまっすぐに見た。

「ハヴェル、ここは僕の私的な空間だ。しゃちほこばる必要はないよ。気楽に話そう」

「へ、陛下、ということは……、その……、あなた様は……」

 僕は喉がうまく動かないまま、無理やり言葉にした。

「まさか、統一王陛下、であらせられますか?」

 そう呼ばれることもあるね、と青年はなんでもないように答えた。

 そんな馬鹿な……。



(続く)

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