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「むぐっ‼ んんー‼」


 何が起こったのだろうか。

 私はただ豪奢な馬車を見上げていただけで、別に悪さをしようとしていない。


「(まさか、)」


 嫌な妄想が瞬時に脳内を駆け巡る。


 ファブラード侯爵の手先、だろうか。


「(やばいっ……売られる……⁉)」


 エバンスドール家に潜入してそこそこの日がたつ。

 なんのアクションを起こさない私にしびれを切らし、処分しに来たか。


 そんな、報告書はエリエルに全部任せて……。


 嫌な妄想はさらに加速する。


「(うそ、エリエルが私を捨てた……?)」


 ガラガラと足元が崩れるような感覚。

 今まで報告書の中身も禄に確認せず、丸投げにしてきた。

 エリエル側につけばファブラード侯爵から守ってもらえるという甘い言葉に乗って、今日ここまで生き延びてきたのだ。


 彼の気分次第で、私や家族の運命は変わる。

 それが今日だというのか。


「(いやだ、助けてっ……‼)」


 口が覆われ、悲鳴も泣き言も出てこない。

 ただ恐怖からやってくる涙が、私を捕らえた人物の手を濡らす。




「…………え、泣いてるの?」

「(……は?)」


 ちょっと待て。


「ごめん、もしかしてビックリさせた?」

「…………」

「唇から血が出てる……」


 めっちゃ聞いたことある声だ。


 ようやく手を口から離され、言葉を発する権限が与えられる。

 きつく閉じた瞼を恐る恐る開けると、ゆっくり顔を後ろに向けた。


 そこにあったのは、どこまでも深く吸い込まれそうな紫水晶の瞳だ。


「エ、リエル?」

「うん、おはよう」

「……おはよ……?」


 いつもボサボサに降ろしている髪は後ろに撫で付けられていて、綺麗な顔が良く見える。

 首元には黒いフリルのタイ、ピンは金だろうか。ブーツも本革だろう、ちょっと見ただけで一級品だと言うことがわかる。

 羽織っている外套も生地がしっかりしており、全体的にまとめ上げられたモノトーンがエリエルのミステリアスな雰囲気を引き立てていた。


 僅かに震える唇に、白い綺麗な指が添えられる。


「泣かせるつもりはなかったんだけど……怖くて噛んじゃったね」


 なんでこの人、こんな貴族みたいな格好しているんだろう。あ、貴族だった。

 ボーッとその綺麗な顔を見つめていると、グッと近付いた。


 そして――――



「ヒィッ⁉」

「鉄の味がする」


 あろうことか、私の唇を舐めたのだ。


「ん。あんまり深くはないみたいだけど、いじっちゃダメだよ」

「(距離感どうなってるんだ、この男……)」


 普段の私であれば、ここで鉄拳でもお見舞いしていただろう。こっちとら花も恥じらう乙女だぞ?

 が、今はそんな怒る元気もない。この数分であまりにも疲れた。もう屋敷に戻ってポプリさん達と一緒にティーカップを磨きたい。


「じゃ、行こっか」

「ど、何処に行くの?」

「おつかいに行くんでしょ。だったら俺もついてく」

「なんの話? 私を捨てたんじゃ……?」

「それこそなんの話?」

「てっきり私に愛想を尽かせてファブラード侯爵に突き返したのかと思った……」

「どうやったらそんな妄想に飛躍するの」


 エリエルが窓を軽く叩くと、馬車がゆっくり走り出した。


「だって急に浚われたからてっきり臓器売買にでも出されるのかなって……」

「……それについては俺が悪かったと思う。これからはちゃんと一言声をかけてから浚う」

「浚った自覚はあるんだ」


 何を思ったのか知らないが。 私を彼の膝の上に置くと、まるでクマのぬいぐるみを抱きしめるかのように背中に腕を回して来た。

 そうなると私の耳はエリエルの心臓付近にあたることになる。そこから一定間隔で流れてくる心臓の音にようやく少し落ち着きを取り戻してきた。


「俺があんたを捨てるわけない」

「これは完全に私の妄想というか……ごめん、エリエルを疑ったわけじゃないんだけど……」

「そうだよね、パニックになっただけだよね?」


 ビクッと肩が震えた。

 怒ってはいなさそうだけど、温度を感じさせない物言いに体が強張る。


 私よりも低いけれど、男性にしては高い声が優しく私の鼓膜を震わせた。

 背中に置かれた手がポンポンと子供をあやすように、ゆっくり上下に動かされる。


 少しだけ懐かしく感じるのは、私も弟が小さな頃にあやすためによく同じように背中を叩いてあげていたからだろう。


「何回でも言ってあげる。俺はクローリアの味方だよ。 ファブラードにも渡さないし、野垂れ時なせることなんてしない。

 家族も巻き込まれたって、心配になったんだよね? 前も言ったけど、クローリアの家族だって俺が守ってあげる」


 だから安心しな。

 そう言って叩いていた手は、いつしか慰めるために背中を優しく摩ってくれる。


 普段私の名前を呼ばないくせに、何でこういう時に限って呼ぶんだ……。

 背中がむず痒くなって、思わず外套をキュッと掴んだ。


「エ、エリエルって私の名前知ってたんだね」

「そりゃあね。

  一応この屋敷に入る人間はロバートからちゃんと聞かされてるから。

 今朝も散々だったよ。俺がクローリアのおつかいについて行くって言ったら、すごくし渋ってさ。

 せっかく早く寝て早く起きたのに準備する時間もギリギリだったよ」

「ロバート執事長に言ったの⁉」


 朝一の渋い顔が鮮明に思い出される。

 原因はこれか……というか、よくエリエルが外に出ることを止めなかったな。


「(あの顔はエリエルを心配していたんだな……)」

「遅かれ早かれ知ることになるでしょ。

 それに一番融通の利くロバートには教えておいた方が今後何かと動きやすいと思うよ」

「なんていうかさ、首謀者の片棒を担いだ私が言うのもなんだけど、あんまりロバート執事長に苦労かけないであげた方がいいよ。今朝すごい顔してたから」

「どんな顔?」

「ファブラード侯爵の手先をエリエルに近づかせてしまったっていう後悔に苛まれながら、その手先とこれから外に出る主人を案じて今にも胃薬をがぶ飲みしそうな顔」

「あんたがロバートの信頼をもぎ取る行動に乞うご期待」

「私まで胃が痛くなってきた」


 ロバート執事長には申し訳ないけど、エリエルがあまりにも楽しそうに笑うから私は大人しく馬車に収まるしかなかった。

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困窮令嬢、引き籠り公爵子息を引きずり出すバイトを始めました 石岡 玉煌 @isok0

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