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「いってェ……」

「揃いも揃ってこの家の人間は……」


 ゆっくり立ち上がると、大胆に地面へ寝転がった青年に近づく。

 以前、私は護身術を教えている教室の受付のバイトをしていたことがある。そこで少し仲良くなった指導員に教えてもらった足払いがこんなところで役に立つとは思わなかった。

 たぶん間違った使い方なので、このことを知られたら怒られるだろうな。


 うつ伏せに倒れている青年の肩を掴むと仰向けにした。


 男性だから私よりも肩幅はあるものの細い。

 逃げられないように、私は青年のお腹の上に馬乗りになった。


「ちょっと教えてよ。君、ここで働いてるの?」

「働いてるというか、なんというか……」

「は? なに?」


 初対面の女に足蹴りを喰らわされた挙げ句、馬乗りをしてきたことにさぞかし驚いたご様子。

ついでに胸ぐらを掴んだ。

 その拍子で青年の長い前髪が横に流れた。


 現れたのは吸い込まれそうな深い紫の瞳。質の良い紫水晶みたいだ。

 わーキレイ、珍しい色ーなんて、冷静さがあれば褒めたたえたいが、残念ながら今は御冠なのである。


「こっちとら業務時間外なんだよね。だからある程度何しても許されると思うのよ。

 でね? さっきも言った通り、私今日が初出勤なのね」

「そ、そうなんだ」

「そうなの。

 君も働いてるならわかると思うけどさぁ、仕事って人間関係も重要視されるわけじゃん」

「……そう、だね……?」

「そこに私は今びっくりしているわけよ。

 一人であの馬鹿でかい小麦粉小屋を掃除しろっていう無茶苦茶なワンマン仕事とか、これ絶対一日やそこらで消費できないだろってくらいの野菜の下処理とか、いくら特急料金をもらったって請け負わないような量の針仕事とか。

 これを入ったばっかりの新人に、それもまともな指示もなしに! 全部押し付けるってどういう神経してると思う? それをやりきった私に対する感謝の言葉が一言もないの、人としてどう思う⁉」

「え、やりきったの?」

「やりきったよ‼ プロのアルバイター舐めんな!」

「すごいね、おつかれ」

「ありがとう‼」


 今日始めていた割の言葉をもらって、ちょっと涙が出た。言った本人の感情は薄いけど、形だけでも言葉がもらえるのはうれしいものだ。

 しかしまだだ。青年の胸ぐらを掴んだ手は緩めない。


「朝から様子はおかしいなって思っていたけどさ。あまりにも酷すぎると思うんだよね。

 生活のために割り当てられた部屋なんて埃まみれでさ、家具も壊れたものばっかり。

 掃除したら住めると思うよ? でもそれなら掃除する時間ちょうだいよ!

 なんなのさ、新人はそうやって全員一から根性叩き上げられてんの? 時代錯誤も甚だしいよ。 健康が取り柄なのに喘息になりそうなほど汚いもん! 今日は寝れないよ‼」

「俺、ほかの人部屋は知らないから……」

「しかもご飯‼ 昼間とかみんな美味しそうな魚の香草焼き食べてたのに、何でパンとチーズと水⁉ しかも夕食も全く同じメニューってどういうこと⁉

 犬か? 順位付けしないように教育中の犬か⁉」

「実は犬に順位付けの能力はないらしいよ。

 犬にとっては頼れるかどうかが重要なんだって」

「じゃあダメじゃん‼ 完全にいじめじゃん‼ 言っちゃったよ、認めたくないから言いたくなかったのにいじめって言っちゃったよ‼」


 しゃべるとしゃべるだけ惨めになってきる。

 泣かないつもりだったのに、視界がにじんでくる。


「格式高い公爵家に泥臭い娘が来たことがそんなに嫌⁉ 中指ピョコンすっぞ‼」

「ガラ悪……」


 とうとう涙が零れた。

 青年に見られたくなくて、ごまかすように青年の薄い胸に額を叩きつけた。

 嫌だ明日が怖い。


「……あれ、あんたの晩ごはんだったの?」


 青年が言ってるのは、ベンチの上に置き去りにされたお盆のことだろう。

 カッチカチに固まったパンが虚しく、月明かりを受けて光っている。

 どんだけ小麦粉練ってグルテン発生させてんだ。


「貴重な食料だからあげないよ」

「奪おうなんて思ってないけどさ……よっこいしょっと」

「うわっ」


 青年は反動をつけると上半身を起こした。その反動で私の体も後ろに倒れかかるが、彼の膝が山なりに立ったことで地面に頭をぶつけるという最悪な展開は避けられた。


 私は土木作業などで鍛えられているから普通の女性よりもちょっと力はある方。こんな簡単に押さえ込まれてこの人は大丈夫なのだろうか? と、どこかでぼんやり思っていたが、この人も立派に男だったようだ。

「立ちたいからそこをどいて」

「まだ話は終わってないんだけど」

「うん、話の続きは聞いてあげるから場所移動しようよ。いいところ連れて行ってあげる」


 ……ヤキ入れの時間?

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