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 どうだ、やってやったぞ。


 縫合室から出て向かった先は、厨房。

 鼻息荒く大股で廊下を歩いていると、ちょうど始業終わりの鐘が鳴ったのだ。


 昼食を貰った場所と同じ所に行くと、これまた昼間に顔を突き合わせたそばかすの青年がこぼれ落ちんばかりに目を押っ広げて叫んだのだ。


「は⁉ なんでいるんだよ⁉」

「なんでって……仕事が終わったからですけど……」

「終わったって、メリーさんは⁉」

「どなたですか?」

「お針子さんだよ‼」


 さっきの恰幅の良い女性のことか。


「先ほど縫合糸終えたベッドシーツ達をお渡ししたので、今頃仕舞っているのではないでしょうか」

「え、ええ……」


 それよりご飯をくれ、もうお腹減って倒れそうだ……。


 訝しげに私の話を聞いていた青年だけど「メリーさんがこいつを逃すとは思えねェしな……」とか呟いて奥に引っ込んでしまった。

 待ったのはほんの数秒。持ってきたお盆の上には昼間と全く同じメニューが乗っていた。

 厨房中に広がるトマトベースの良い匂いは一体なんなんでしょうね!


「ありがとうございます」

「おー……」


 手早くお盆を受け取ると、食堂を一瞥すること無く中庭へ向かった。





 私は人より少しだけメンタルが強い方だと思っている。

 これは昼間、自分に言い聞かせた言葉だ。


 今までだってどんなに辛いだろうが現場だろうが人間関係だろうが、お金の為になんだってやってきた。最終的に全部お金に繋がっているし、そのたびに自分のスキルが上がるのは嬉しかったこともある。


 だから、今回だって大丈夫。

 嫌われていても嫌がらせされても心ない言葉を投げかけられても、無茶苦茶な仕事量でも人当たりがキツくてもやってやるんだ。


「そうだ、日報書いて部屋も掃除しないと! あと皆が心配するから今日から帰れないって連絡しなきゃ……」


 なにもこれが初めての外泊じゃない。

 過去に泊まり込みの仕事だって経験したし、事情話せば家族も理解してくれるだろう。

 ただし帰りはいつになるか未定なので、そこはうまく誤魔化さないと心配をかけてしまう。


 大丈夫、私は強い。何も心配することはない。いつもどうりうまくこなすだけ……。


 ポタッと手の上に雫が落ちた。

 お腹がすいているはずなのに、手が伸びない。


 乱暴に目元を擦ると、ため息をついた。


 ……ちょっとだけ見栄を張った。嫌な職場で身も心もすり減ったこの状況で家族に会えないというこの状況。思ったより精神的にキているのかもしれない。


 お盆を膝から降ろして横に置くと、空を見上げた。

 地上で誰かがこんなに嘆いていても、月は今日も美しい。


 少しぐらい休憩したって罰は当たらないよね?


 夜風を浴びていると、後ろから草を踏む音が聞こえる。


「(やだな、また誰か仕事を言いに来たのかな)」


 もう就業時間は終わっている。エバンスドール家、さてはブラックだったか? この仕事が終了した暁には是非ともこの悪行を口コミ投稿してやろう。

 しぶしぶ立ち上がって後ろを振り向く。




「……なんでこの時間に人がいるの」


 そこに立っていたのは、くせっ毛の強い青年だった。

 一見黒髪かと思ったけど、僅かな光の加減で紫がかった不思議な色をしているようにも見える。

 前髪が長いため、残念ながら瞳を確認することはできなかったが、不健康なほど白い肌が月明かりに浮かび上がっている。


 っていうか、なにそのだぼだぼのシャツ。完全に部屋着じゃん。ズボンも伸びきってダルダルの毛玉だらけ。

 この屋敷は部屋着で出歩いていいわけ? 今の状況の私が同じ事をしたら一発で外に放り出されそうだ。


「この時間は誰もこの庭に来ないように言ってあったはずだけど」

「申し訳ございません、本日この屋敷に入ったばっかりでして、そのような決まりごとがあるとは存じ上げませんでした」

「なに、あんた新人?」


 うわ、何この言い方。

 執事長から始まり、全員初対面の人間に対するマナーを母親のお腹の中に忘れてきたのか?

 口角を引き上げるも、引きつっている自覚はある。


「はー……新人なのはわかったからさっさと出て行ってよ。


 邪魔」




 プチン……




 私の中で何かが切れる音がした。


 言いたいことだけ言って、私の横をさっさと通り過ぎようとする青年。


 フー……を細く息を吐いた。


 この青年が何者かどういう立場でどこの所属かは知らないけど、幸いここには人目が無い。


 目には目を、歯には歯を。

 サッと身を屈めると――




「ぶへェッ‼」




 思いっきり足払いをかけた。


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